ヨハネによる福音書・補

Aiming over one step

35
新しい人生を


<ヨハネ 7:53−8:11>
7:53そして人々はそれぞれ家に帰った。8:1イエスはオリーブ山に行かれた。2そして、朝早く、イエスは宮にはいられた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。3すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕えられたひとりの女を連れて来て、真ん中に置いてから、4イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。5モーセは律法の中で、そういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」6彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは、指で地面に書いておられた。7けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」8そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。9彼らはそれを聞くと、年長者から始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。10イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」11彼女は言った。「だれもいません。」そこでイエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」

<出エジプト 3:7−10>
7主は仰せられた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。8わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と密の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人エブス人のいる所に、彼らを上らせるためだ。9見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。10今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」


1、姦淫の女

 この段落は、「そして人々はそれぞれ家に帰った。が、イエスはオリーブ山に行かれた」(7:53-8:1)と7:53から始まります。しかし実は、7:53から8:11までが括弧で括られており、この部分は原典にはなかったとされているのです。その辺りのことは、私がくだくだ言わなくても、岩波訳の註に説明がありますので引用しましょう(新改訳の下欄註にも説明がありますが、少々説明不足)。「7:53-8:11は、西方で作製された写本のみが伝えている。語彙の多くが非ヨハネ的であり、また、ルカ福音書11章の後に入れたり、ルカやヨハネの付録として伝えている写本もあるため、後世、ここに入れられたものと思われる。ただし、伝承それ自体はかなり古いものらしい。三世紀の初頭にシリヤで書かれた教会規則ディダスカリア(U24:6)には、よく知られた話として言及されているし、二世紀のパピアスも知っていた可能性がある。」西方写本(群)というのは「後世の加筆」で有名で、あまり信用されていません。もっとも、エウセビオスの「教会史」やアンブロシウスの「書簡」などに収録されていることから、伝承そのものは二世紀に遡るほど古く、多くの人々に親しまれて来たようです。そんなことからここに収録されたのでしょう。しかし、この「姦淫の女とイエス」物語は、彼女に出会ったイエスさまがその罪を赦したということで、いかにもイエスさまらしいし、ヨハネの優しさもがここには認められるようです。これは史実であろうとして、事実性を疑う人たちが少ないのも、そういった事情によるのであろうと思われます。が、ヨハネ的ではないなど、問題は残りますが、教会がずっと大切にしてきたところですので、私たちもこれを史実としてのイエスさまの出来事であり、正典に準じるものとして取り上げていきたい。

 神殿内庭・婦人の庭での出来事です。人々を教えておられたイエスさまのところに、律法学者とパリサイ人とが、姦淫の場で捕えられたひとりの女を連れて来ました。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、そういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか」(4-5)彼らの言い分にはいくつか奇妙なところがありますので、洗い出してみたい。第一に、律法学者とパリサイ人たちが、なぜこの女を神殿に連れて来たのかという点です。彼女が連行されるべき場所は裁判所であって、当時、サンヒドリン議会がその任に当たっていましたから、そこに連れて行かなければならないのです。この律法学者とパリサイ人はその議員と思われるのに、議会を素通りして(議会は神殿の西隣りにあった)、外庭であったか、内庭であったかは分かりませんが、神殿境内に、しかも、迷うことなくイエスさまのところに連れて来ました。「真中に置いて」(3)ということばには、イエスさまが民衆に話をしているその真ん中のことなのでしょうが、そんな大ぜいの人の目に彼女をさらしたというところに、彼らの悪意が感じられます。第二には証人も告発者も見当たらないことです。モーセの律法云々と言うならば、成人男子二人の証人が必要なのに、その証人がいない。この律法学者とパリサイ人が告発者で証人なのでしょうか。そんなこともあり得ますが、姦淫の証人というのは、姦淫そのものを目撃した者でなければなりません。律法学者とパリサイ人とが都合良くその現場に行き会わせていた証人とするなら、それは仕組まれた「罠」を疑ってみなければならないでしょう。連行されて来たのは当該者の女だけで、相手の男性はここには見当たらないのです。


2、絶望と哀しみの中に

 不審な点は他にもあって、たとえば、ここには彼女の亭主も姿を見せてはいませんし、彼らが短絡的に「石打の刑」という極刑を持ち出したことも、律法の専門家にしては疑問が残ります。レビ記二十章や申命記二十二章などの当該箇所には、処刑方法にまでは言及していないのです。だからなのでしょうか。この記事を目撃し、記した人は、「彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった」(6)と、自身の印象を付加しています。恐らく、その通りなのでしょう。
 彼らは、イエスさまを糾弾するという、初めから、そのことだけに拘っている。
 この場面を法廷に見立てながら、まず最初にあるべき「罪の確定」という審議と判決の部分は飛ばして、いきなり処刑方法というボールをイエスさまに投げかけています。

 それは、恐らく、彼らの練りに練った計算のうちでした。

 イエスさまが「石打の刑」に同意しなければ、律法不遵守というレッテルを貼って、そこに居合わせた多数の民衆に、イエスさまのそんな姿を印象づけることができますし、同意すれば、聞いている民衆の支持を失うことにもなるでしょう。民衆は総じて弱い者に同情的なのです。それに、死罪の決定権はわれわれにあるとしたローマへの反逆罪に問うことも出来る。同意も反対もせず、議論になれば、彼らは堂々と論陣を張ることが出来るとばかりに、律法学者もパリサイ人たちもそれだけの人物を送り込んで来たのでしょう。しかも、もしかして手続きの不備を突かれたら、「参考意見を求めただけ」と言い逃れが出来るのです。
 彼らは、何重にも策謀を巡らせながらこの場面を設定していました。

 けれども、法廷で有罪判決が確定していない、まだ未決囚であるはずの彼女を、乱暴にも衆人環視の中に引き出して来るなど、法廷で陪審員を務める議員ともあろう者がするべきことではないと思うのですが……。
 もしかしたら、この女性も言いくるめられて引っ張り出されて来た彼らの共犯者だったのかも知れないと勘ぐりたくなってしまいます。
 もっとも、もしそんな密約があったとしても、まかり間違えば、彼女は、自分のいのちに関わってしまいますし、この後のイエスさまの対応や、彼女を告発した者たちも民衆もことごとくいなくなった後に、彼女が一人イエスさまのそばに残っていることなどを見ますと、決してお芝居ではない、彼女の絶望と哀しみが見えて来るようです。
 イエスさまは、彼女のその絶望と哀しみだけを見ていたのではないでしょうか。


3、新しい人生を 彼らの悪意が透けて見えたのでしょう。

 イエスさまは、指で地面に何かを書いていて、そんな者たちの相手なんかしないとばかりに、ひとことも答えようとはなさいません。
 しかし、何としてもイエスさまを告発したい彼らは、いつまでもしつこく問い続けます。
 イエスさまも根負けしたのでしょうか。こう言われます。
 「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」(7)

 石打ちの刑を! 
 予想外のイエスさまのお答えでした。
 「罪のない者が最初に……」と言われて、いくら鉄面皮の律法学者やパリサイ人も、衆人環視の中で、彼女に石をぶつけることなど出来るはずもありません。民衆とて同じです。
 それでも、だれかが最初に石を投げつけたら、もしかしたら、彼女のいのちは奪われていたかも知れません。
 しかしそこには、メシアと目されるイエスさまがじっと見ていらっしゃるのです。
 いや、イエスさまは、誰が最初に石を投げつけるかと注視してはいません。身をかがめて地面に何か書いておられます。それなのに彼らは、地面を見ていたイエスさまの、澄んだ静かな目が、俺たちの心の奥底まで見通していると感じているようです。その目は、アブラハムの昔から、イスラエルをずっと見つめて来た、聖なるお方の目だったのではないでしょうか。その目に抗って最初に石を投げつける蛮勇など誰一人持ち合わせてはいません。

 広い神殿の庭に緊張した空気が張り詰めています。
 「彼らはそれを聞くと、年長者から始めて、ひとりひとり出て行き」(9)ました。
 残ったのはイエスさまとその女だけでした。

 「女はそのままそこにいた」(9)とあります。
 それは人々の輪の中でさらし者にされ、絶望と哀しみにうずくまって立ち上がることも出来ない彼女の姿でした。
 「女はそのままそこにいた」とあるのは、新共同訳では「真ん中にいた女が残った」となっており、もっと正確に言いますと、「残された」(岩波訳)と言わなくてはなりません。
 実は、この「残された」は「見捨てられた」という強い意味を含んでいて、彼女を告発していた人たちも回りを取り囲んでいた人たちも、イエスさまから「罪のない者が最初に石を投げつけよ」と言われ、一人、また一人とその場を去って行ったのですが、恥ずかしいと思うのは、ごく普通の感情でしょう。しかし、その場を逃げ出した彼らは、実は、自分のことしか考えていなかったことに目を留めたいと思うのです。
 彼らは、彼女に手を差し伸べることなしにその場を逃げ出したと言っていいでしょう。
 彼らは彼女を見捨てたのです。
 罪人としてさらし者になっただけでも、身のすくむような屈辱を味わっているのに、誰も手を差し伸べてくれる者がいない。エルサレム神殿という最も神さまの目が行き届くはずの場所で、彼女は神さまの選びの民から見捨てられたのです。
 きっと、神さまからも……、それが彼女の絶望であり、哀しみでした。

 下を向いておられたイエスさまが彼女を見つめ、言われました。
 「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」「だれもいません。」(10)と彼女は答えました。イエスさまが言われます。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません」(11)
 「婦人よ」と、新改訳も新共同訳もイエスさまの優しさがにじみ出るような訳語にしています。
 彼女は神さまご自身であるお方から手を差し伸べられました。
 わたしも罪に定めないと。
 それは新しい人生を歩み始める可能性が与えられたということです。絶望し、哀しみに沈み込んでしまった者に新しい人生を生きる可能性を。
 私たちにもそんなあわれみの御手が……、覚えたいものです。