ヨハネによる福音書・補

Aiming over one step

33
生ける水の川が


<ヨハネ 7:37−44>
37さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。38わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」39これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。40このことばを聞いて、群衆のうちのある者は、「あの方は、確かにあの預言者なのだ。」と言い、41また、ある者は、「この方はキリストだ。」と言った。またある者は言った。「まさか、キリストはガリラヤからは出ないだろう。42キリストはダビデの子孫から、またダビデがいたベツレヘムの村から出る、と聖書が言っているではないか。」43そこで、群衆の間にイエスのことで分裂が起こった。44その中にはイエスを捕らえたいと思った者もいたが、イエスに手をかけた者はなかった。

<詩篇 46:1−11>
1神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。2それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。3たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。セラ
4川がある。その流れは、いと高き方の聖なる住まい、神の都を喜ばせる。5神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない。神は夜明け前にこれを助けられる。6国々は立ち騒ぎ、諸方の王国は揺らいだ。神が御声を発せられると、地は溶けた。7万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。セラ
8来て、主のみわざを見よ。主は地に荒廃をもたらされた。9主は地の果てまでも戦いをやめさせ、弓をへし折り、槍を断ち切り、戦車を火で焼かれた。10やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。11万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。セラ


1、雨乞いの祭りに

 仮庵の祭も八日目の最終日になりました。
 ヨハネはこの段落を、「祭りの盛大な最終日に、イエスは立ったまま叫んだ」(37・岩波訳)と始めます。

 この祭りの最終日、八日目は、何の行事も行われないまま終わっていたそうですが、「盛大な」と言っていることから、批評的聖書学者たちは、そのことを知らない後世の付加であろうと考えているのですが、恐らく、ヨハネはそんなことを承知の上で、実際にイエスさまが立ち上がり、声を張り上げて語られたことをそのままに、「盛大に」「立ったまま(大声で)叫んだ」と表現したものと思われます。
 ヨハネが、そんなイエスさまのお姿を見たのは、初めてだったのではないでしょうか。
 ユダヤのシナゴグで行われる礼拝では、聖書を読むときには立ち上がり、メッセージを語るときには座って、というのが普通のスタイルでしたから、ヨハネは、そのときのイエスさまの迫力をまざまざと思い出していたのでしょう。

 イエスさまが力を込めて話されたメッセージは、「水」に関するものでした。
 「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(37-38)

 何週間か前に、仮庵の祭の説明をしたとき(ヨハネ講解説教30)、祭りに集まった人々はゼカリヤ書を読みながら、神さまの恵みを思い、恵みの水を願ったのであろうと触れましたが、そこには、「その日には、エルサレムから湧き水が流れ出て、その半分は東の海に、他の半分は西の海に流れ、夏にも冬にも、それは流れる」(14:8)とありました。

 どこの国や地方でも、時代を問わず、農作物に水が必要なことは言うまでもありません。
 特に国の大半が乾期になると一滴の水も流れない荒野であったイスラエルと、砂漠を抱えていた近辺の国々では、降るべき時に水不足がおきますと、たちまちに飢饉が広がってしまいます。仮庵の祭は収穫祭でしたが、それは雨乞いの祈りの祭りでもあったのです。

 この地方は六〜九月の乾期と十一〜三月の雨期に分かれていて、その雨期の前後には四〜五月の「先の雨」と、九〜十月の「後の雨」という期間があり、それはいづれも収穫少し前という時期に重なっていて、雨は欠かすことのできない大切なものでした。
 ところが、「先の雨」「後の雨」は雨期ではなく、一応は雨も期待できるのですが、不確実であって、しばしば熱風が吹きまくるなど、作物が被害にあう恐れがありましたから、収穫の前に降る適度な雨は、その年の収穫にとって非常に重要だったわけです。仮庵の祭に「雨乞いの祈り」という意味が込められたのはそのためです。今でも、ヨルダンのアラブ人たちが、イスラエル共和国で仮庵の祭が行われている間、果たして雨が降るかどうか、その雨乞いの効果を注意深く見守っているそうです。彼らも農業に養われているからでしょう。
 イエスさまの水をテーマにしたメッセージは、そのようなタイミングで語られたわけです。


2、主の恵みが

 雨乞いの儀式がどのように行われていたか、その詳しい様子など、私には分かりませんし、たとえ分かったとしても説明しようとは思いませんが、様々な儀式が執り行われていたであろうことは想像に難くありません。が、そんな形式張った儀式など何の役にも立たない。イエスさまもヨハネもそんなことには全く関心がありません。
 「渇いている人には、わたしが飲ませてあげよう。わたしを信じる者は、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」と言われました。これは、以前にサマリヤの女にも言われたことと同じです。「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(4:14)
 「川のように流れ出る」「泉となりわき出る」と、イエスさまがくださる水は、飲む本人の渇きを癒やすだけではありません。必要に応じて他の人にも分け与えることが出来るほどの豊かな水量となって行くのです。
 そう聞いて、サマリヤの女は、イエスさまをキリストであると信じました。

 ところで、ここに言われる「水」は何を指しているのでしょうか。

 「水」のことを考えてみたい。
 飲む水とか作物への水などの違いはありますが、水というもの、いつの時代、どんな地域にも、人間ばかりか、生あるものすべてのいのちを育んできました。そもそも、人間の身体の水分量は六十%もあるのです。

 しかし、たとえ雨が降っても、その雨が恵みの雨であるとはかぎりません。
 先の雨は雨期の延長でしたし、後の雨は雨期に続いているのです。雨期というのは恵みでもあると同時に、何もかも押し流し、農作物ばかりか人のいのちまで奪ってしまう洪水になることがしばしばでした。水が豊かで大きなダムや排水路を完備している日本のようなところでも、その水がしばしば甚大な災害をもたらして来ました。気候変動に伴う最近の台風やゲリラ豪雨など、そんな傾向が一層激しくなっています。
 そうしますと、モーセの時代にネゲブの荒野で、岩から水が溢れ出て、人々が渇きを癒やしたことも、神さまのあわれみではないか。たとえ、イスラエルの様式であっても、カナン各地の異教と同じように雨乞いの儀式をすることが、果たして神さまの御心に適うことなのか、考えてみる必要があろうと、ヨハネの思いが伝わって来るようです。

 ヨハネは、「これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである」(39)と証言しました。そして、そこに、「イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである」(39)と加えたのは、イエスさまが昇天された後に弟子たちに注がれた聖霊(使徒二章にあるペンテコステの記事)のことを意識してのことでしょう。この表現は、文献的には舌足らずの感がぬぐえませんが、「私たちもその御霊を受けたのである」というヨハネの証言に他なりません。
 主の恵みが注がれたのです。
 その恵みこそが、収穫を願って祭りに来ていた人々の最も必要なものでした。それはヨハネが住み暮らしているローマ・ギリシャの世界でも同じだったに違いありません。


3、生ける水の川が

 世界の気候を考えますと、日本のような四季がはっきりしているところは非常に少なく、豪雨と猛暑が繰り返される熱帯性気候の地域、雨が極端に少ない乾燥地帯と、乾期と雨期の二季制のところが多い。雪が降る冬と雪が降らない夏だけの寒冷な地域もあります。それも、どちからに偏っているのです。が、乾湿いづれに偏ろうとも、自分たちの国土の不作は他国への侵略で補おうと、「水」を巡る問題は古くから民族や部族抗争の原因となっていました。
 いや、民族とか部族という前に、隣り合った家と家同士でさえ、水を巡る争いは絶えませんでした。「水」はあらゆる文明の原点なのです。
 そんな「文明」を巡って人類の歴史には争いが絶えない。
 パレスティナからギリシャ地方にかけてもそんな世界でした。

 そんな世界に生きていた人たちにとって、イエスさまが語られたメッセージはずしりと重く響いたのではないでしょうか。聞いていたある者は、「あの方は、確かにあの預言者なのだ」(40)と言い、またある者は、「この方はキリストだ」(41)と言いました。「あの預言者」というのは、申命記に「わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのようなひとりの預言者を起こそう。わたしは彼の口にわたしのことばを授けよう。彼は、わたしが命じることをみな、彼らに告げる」(18:18)とある神さまの約束にある預言者のことです。
 イエスさまを「あの預言者」或いは「キリスト」であると、人々の受け止め方はまちまちで段階的だったとしても、彼らはイエスさまを、「神さまから遣わされたお方」であると信じて、教会に加わって来たのではないかと想像するのですが。
 「彼ら」とは、ローマ・ギリシャ世界にいる、ある意味、ヨハネのメッセージを聞いていた人たちを指すと聞いて頂きたいのです。

 しかしそこには、「キリストは(ガリラヤからは)出ないだろう」(41)と言う者もいましたし、イエスさまは人々を惑わし、神さまを冒涜する者だとして、捕らえようとした者も(44)いました。どちらもイエスさまの抹殺を求める者たちだったのでしょう。
 ヨハネは、パレスティナのユダヤ人にローマ・ギリシャ世界の異邦人やユダヤ人を重ねているのでしょう。が、人間の歴史はそんな古代にかぎらず、イエスさまがキリストであることを否定し、イエスさま福音の広がりを阻止したいのです。世に言われる諸宗教が抱える神々ならば、人々は何の抵抗も示しませんが、イエスさまが神さまご自身であると聞きますと、断固、受け入れることが出来なくなるのではないでしょうか。
 彼らはきっと、そんな意味でイエスさまを否定したい。なぜかそれは無宗教とされる現代人の特徴と言われますが、何も現代人にかぎらず、人間というものの根深い本性なのではないでしょうか。「信じる者は、……生ける水の川が流れ出るようになる」と言われたその生ける水を、「そんなものはない!」と、徹底的に否定したいのでしょう。

 それは何千年にも及ぶ人間の歴史の中で、繰り返されて来た神さまとの葛藤でした。それは、私たちも同じであると言わなくてはなりません。信じる者には、自分ばかりか、他の人をも生かす「いのち・神さまの霊」がイエスさまにあると、そんなことは聞きたくない。


 しかし、否定すれば、イエスさまがくださる生ける水=「永遠のいのち」はないものとなるのでしょうか。そうではありません。十字架のイエスさまが恵みの主であることは、神さまの約束なのですから。詩篇にこうあります。「川がある。その流れは、いと高き方の聖なる住まい、神の都を喜ばせる。神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない」(46:4-5)、「やめよ。わたしこそ神であることを知れ」(46:10)と。
世界各地で対立や紛争が激しくなっていく現代、聞くべきことばではないでしょうか。
 愛と赦しに満ちた豊かな川のいのちの水を、イエスさまを信じる者となって、頂こうではありませんか。



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