ヨハネによる福音書・補

Aiming over one step

32
神さまの輝く都に


<ヨハネ 7:25−36>
25そこで、エルサレムのある人たちが言った。「この人は、彼らが殺そうとしている人ではないか。26見なさい。この人は公然と語っているのに、彼らはこの人に何も言わない。議員たちは、この人がキリストであることを、ほんとうに知ったのだろうか。27けれども、私たちはこの人がどこから来たのか知っている。しかし、キリストが来られるとき、それが、どこからか知っている者はだれもいないのだ。」28イエスは、宮で教えておられるとき、大声をあげて言われた。「あなたがたはわたしを知っており、また、わたしがどこから来たかを知っています。しかし、わたしは自分で来たのではありません。わたしを遣わした方は真実です。あなたがたは、その方を知らないのです。29わたしはその方を知っています。なぜなら、わたしはその方から出たのであり、その方がわたしを遣わしたからです。」30そこで人々はイエスを捕らえようとしたが、しかし、だれもイエスに手をかけた者はなかった。イエスの時が、まだ来ていなかったからである。31群衆のうちの多くの者がイエスを信じて言った。「キリストが来られても、この方がしているよりも多くのしるしを行われるだろうか。」32パリサイ人は、群衆がイエスについてこのようなことをひそひそと話しているのを耳にした。それで祭司長、パリサイ人たちは、イエスを捕らえようとして、役人たちを遣わした。33そこでイエスは言われた。「まだしばらくの間、わたしはあなたがたといっしょにいて、それから、わたしを遣わした方のもとに行きます。34あなたがたはわたしを捜すが、見つからないでしょう。また、わたしがいる所に、あなたがたは来ることができません。」35そこで、ユダヤ人たちは互いに言った。「私たちには、見つからないという。それならあの人はどこへ行こうとしているのか。まさかギリシャ人の中に離散している人々のところへ行って、ギリシャ人を教えるつもりではあるまい。36『あなたがたはわたしを捜すが、見つからない。』また『わたしのいる所にあなたがたは来ることができない。』とあの人が言ったことばは、どいう意味だろうか。」

<詩篇 48:1−8>
1主は大いなる方。大いにほめたたえらるべき方。その聖なる山、われらの神の都において。2高嶺の麗しさは、全地の喜び。北の端なるシオンの山は大王の都。3神は、その宮殿で、ご自身をやぐらとして示された。4見よ。王たちは相つどい、ともどもにそこを通り過ぎた。5彼らは、見るとたちまち驚き、おじ惑って急いで逃げた。6その場で恐怖が彼らを捕らえた。産婦のような苦痛。7あなたは東風でタルシシュの船を打ち砕かれる。8私たちは、聞いたとおりを、そのまま見た。万軍の主の都、われらの神の都で。神は都を、とこしえに堅く建てられる。セラ


1、揺れ動く心を

 「そこで(さて)、エルサレムのある人たちが言った。『この人は、彼らが殺そうとしている人ではないか。見なさい。この人は公然と語っているのに、彼らはこの人に何も言わない。議員たちは、この人がキリストであることを、ほんとうに知ったのだろうか。けれども、私たちはこの人がどこから来たのか知っている。しかし、キリストが来られるとき、それが、どこからか知っている者はだれもいないのだ』」(25-27)

 ここに登場する人たちは、エルサレムのほんの少数のユダヤ人のようです。群衆(巡礼者?)が、「だれがあなたを殺そうとしているというのか」(20)と、イエスさまの懸念を一笑に付したときにはまだ、彼らは一言も口を差し挟んでいませんが、巡礼者の群衆が口々に言うのを聞いていたのでしょうか。ヨハネは、巡礼者に次の主役となるエルサレムのユダヤ人たちをも絡めながら、エペソ教会へのメッセージとして、新しいステージを設定し、語り始めました。

 そのメッセージは、「知っている」「知らない」という場面のところから進められます。

 一つ目は、エルサレム・ユダヤ人の想像なのですが、公然と語るイエスさまに、殺そうと付け狙っているサンヒドリン議員たちが何もクレームをつけないのは、本当は、イエスさまをメシアであると知った(認めた)からではないかというものです。二つ目は、「キリストが来られるとき、それが、どこからか知っている者はだれもいないのだ」というもので、これは、メシアを神聖化、神秘化したもので、これまでに出て来たローマへの反抗の主謀者とは違う、本物のメシア出現を期待するものであったろうと思われます。三つ目、「この人がどこから来たのか知っている」というのは、イエスさまがガリラヤ人だと知っているという意味ですから、イエスさまをメシアとは認めがたいとする彼らの真意がにじみ出ているようです。
 これら三つの「知っている」や「知らない」は、エルサレム・ユダヤ人社会がイエスさまをメシヤであると特定していないのに、いろいろな情報に詳しいサンヒドリンの議員たちが、イエスさまをメシアであると認めたのはどうしたことかと、彼らの不安を物語っているのでしょう。ヨハネは、彼らのイエスさまに対する揺れ動く心を見ているようです。

 もう一つのことですが、七章でヨハネは、ユダヤ教神学の「隠れた神」という中でイエスさまのことを語っており、「知っている」とか「知らない」というのは、その意味で議論されたものなのです。しかし、「隠れたメシア」という流れは延々と受け継がれては来ましたが、いつの時代にも少数派であって、本来、メシアはダビデの子として、ベツレヘムでお生まれになるというのがユダヤ伝統神学の主流派でした。そして、エルサレムのほとんどのユダヤ人はその主流派に属していました。それは当然のことながら、ユダヤ人ならば誰もが待ち望んで来たメシアですから、たちまちのうちに衆人の知れるところとなるはずなのです。決して「隠れたメシア」なんかではない。
 そうしますと、サンヒドリン議員たちと彼らの言い分に見られる問題は、メシアを巡ってユダヤ教内部に生じている非常な混乱ではないか、と指摘されているように感じられます。そんな混乱は紀元一世紀末のディアスポラのユダヤ人たちの間にも生じていたのでしょう。


2、地上を歩まれるお方として イエスさまが言われます。

 「あなたがたはわたしを知っており、また、わたしがどこから来たかを知っています。しかし、わたしは自分で来たのではありません。わたしを遣わした方は真実です。あなたがたは、その方を知らないのです。わたしはその方を知っています。なぜなら、わたしはその方から出たのであり、その方がわたしを遣わしたからです」(28-29)

 人々がイエスさまを「知っている」というのは、ナザレの大工ヨセフの息子であると、そのことを指しています。つまり、彼らはイエスさまをガリラヤの田舎者としか見ていないのです。「ナザレから何の良いものが出ようか」(1:46)と、これは、最初に疑っていたのに、結局イエスさまを信じて、「あなたは神の子です。イスラエルの王です」(1:49)と告白したナタナエルの言い分でした。
 しかし、ヨハネは、イエスさまが「遣わされたお方である」と、そのことを強調しようとしているのです。当時、メシアは「遣わされた者」であり、「人の子」という称号を持つことも広く知られていました。それはユダヤに確立していた国家神学でした。ここには「隠れたメシア」を意識してなのか、「人の子」という称号は出てきませんが、ヨハネがイエスさまを「遣わされた者」と呼ぶとき、「地上を歩まれる神」を意識しているようです。ナザレの村で腕のいい家具職人として誠実に歩んで来たイエスさまの日々は、「地上を歩まれる人の子」を彷彿と思わせてくれるではありませんか。
 イエスさまの誠実や真実は、「遣わした神さま」の誠実であり、真実でした。

 けれども、このイエスさまご自身の証言は、ご自分をメシアとするばかりか、神さまご自身に等しい者とすることでしたから、エルサレムのユダヤ人たちが聞き入れるはずもありません。彼らは怒り狂い、イエスさまを捕らえようとします。が、「だれもイエスに手をかけた者はなかった。イエスの時が、まだ来ていなかったからである」(30)とある。
 これがどんな状況であったのか、ヨハネは口を噤んでいます。
 しかし、「見えざる神さまの御手がイエスさま逮捕の手を制止したのである。エルサレムに現われた神をその意志に反して逮捕することはできない」と、ある註解者(NTD)が述べているように、イエスさまは、誰もが想像すらできないような方法で、巧みに迫害者の手を逃れます。その不思議を多くの人たちが目撃しました。群がっていた多くの人たちがこう言います。「キリストが来られても、この方がしているよりも多くのしるしを行われるだろうか」(31)と。

 「しるし信仰」については、二章から四章にかけて、ヨハネはさまざまな観点から取り上げ、「いのちの息を吹き込まれる永遠のロゴス・十字架とよみがえりの主イエス・キリストを信じる信仰に誘うものである」(ヨハネ講解説教19)と、ひとつの結論を出していましたが、多くの人たちがイエスさまを離れて行ったこの時期に、ヨハネは、恐らく、この程度の信仰でも評価しているのでしょう。それは、恐らく迫害と殉教の時代に、主の恩寵を願ってのことではなかったかと思うのですが……。
 ともあれ、ヨハネはイエスさまが「隠れた神」であると強調しているようです。その「隠れたお方」を巡ってさまざまな意見が飛び交っている。いや、混乱し、沸騰しているのです。


3、神さまの輝く都に

 次に登場して来るのはパリサイ人と祭司長です。
 イエスさまを危険人物と見なしていた彼らは、民衆の非難もあって、たとえ仮庵の祭の最中であっても、これ以上放置しておくことは出来ないと、イエスさま逮捕に役人たち(神殿警察のレビ人)を派遣します。
 しかし、この役人たちは、群衆とともにイエスさまのお話を聞き、「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません」(46)と、すっかりイエスさまに傾倒して、手ぶらのまま戻って来ました。そんなことにもヨハネは、ユダヤ人のイエスさまを巡る混乱ぶりに呆れているようです。
 が、ヨハネは、そんなユダヤ人たちの動向には関心を示していません。

 ヨハネは、イエスさまのことばと、わずかに彼らの一つの反応だけをここに取り上げました。
 「まだしばらくの間、わたしはあなたがたといっしょにいて、それから、わたしを遣わした方のもとに行きます。あなたがたはわたしを捜すが、見つからないでしょう。また、わたしがいる所に、あなたがたは来ることができません」(33-34)
 「私たちには、見つからないという。それならあの人はどこへ行こうとしているのか。まさかギリシャ人の中に離散している人々のところへ行って、ギリシャ人を教えるつもりではあるまい。『あなたがたはわたしを捜すが、見つからない。』また『わたしのいる所にあなたがたは来ることができない。』とあの人が言ったことばは、どいう意味だろうか」(35-36)

 イエスさまは、間もなく訪れるであろう十字架とよみがえり、それに昇天のことに触れたものと思われますが、はなからイエスさまの「神の子」性を信じないユダヤ人たちは、とんちんかんな方向でしかイエスさまを理解できません。これは当時のパレスティナ・ユダヤ人の考え方に適合しています。恐らくヨハネは、現場にいた誰かのメモを資料にこれを書いているのでしょう。それなら、相当正確に彼らの言動が再現されていると聞いていい。
 彼らは、イエスさまが行くと言われた所を、ローマ・ギリシャ人の世界ではないかと考えました。ヤハウェの選びの民と誇るユダヤ人なのに不謹慎きわまりないと。しかし、もしかしたら、彼らは、「異邦人の奴らめ」と反発しながらも、世界に冠たる文明先進国ギリシャに憧れていたのかも知れません。カナンの地に国家を築き上げた当初から、イスラエルは先進的カナン文化に憧れて、建国したばかりの王国にそんな異教的文化をふんだんに取り入れました。バビロン捕囚になったときも、そのままバビロンに住み着いてしまった人たちは多かったのです。そもそも、自分たちの統治に王を求めたことも、そんな先進的文化の模倣でしかありません。
 彼らはそんな歴史を有していたのです。

 しかし彼らは、「まだしばらくの間はあなたがたといっしょにいて、わたしを遣わした方のもとに行く」と言われたことを聞き漏らしていました。
 これは、間もなく始まるであろう十字架の苦難を通って御父のもとに凱旋することを指しているのですが、言われたことを真剣に受け止めたり、考えようとしないから、そのことが分からないばかりに、イエスさまを自分たちと同じレベルに引き下げて見てしまうのです。人は自分の聞きたいことを聞きたいように聞くのでしょう。
 神さまの御国に凱旋するなどユダヤ教神学上だけのことであって、預言者や詩篇の記者たちが描いた、輝くような神さまの都に思いを馳せることは全くありません。
 もしかしたら、彼らはヤハウェの選民であることに疑問を感じていたのかも知れないと、そんな想像さえしてしまいます。
 彼らの混乱はそんな自信喪失から出て来たのではと思うのですが、そんな自信喪失のことを考えますと、彼らがギリシャ世界に憧れたであろうことも頷けます。それは、神さまから目を背け、他の事ばかりに希望を託している現代人そっくりではありませんか。
 そんな人たちに迎合せず、今、イエスさまが住みたもう神さまの輝く都に思いを馳せて頂きたいと心から願います。
 イエスさまを信じる人たちを、その輝く都に招いてくださると、それは、十字架とよみがえりの主の約束なのですから。
 そして、それは、神さまの紛れもない真実なのですから。