ヨハネによる福音書・補

Aiming over one step

31
今、聞くべきことは


<ヨハネ 7:14−24>
14しかし、祭りもすでに中ごろになったとき、イエスは宮に上って教え始められた。15ユダヤ人たちは驚いて言った。「この人は正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか。」16そこでイエスは彼らに答えて言われた。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。17だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。18自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません。19モーセがあなたがたに律法を与えたではありませんか。それなのに、あなたがたはだれも、律法を守っていません。あなたがたは、なぜわたしを殺そうとするのですか。」20群衆は答えた。「あなたは悪霊につかれています。だれがあなたを殺そうとしているのですか。」21イエスは彼らに答えて言われた。「わたしは一つのわざをしました。それであなたがたはみな驚いています。22モーセはこのためにあなたがたに割礼を与えました。ただし、それはモーセから始まったのではなく先祖たちからです。それで、あなたがたは安息日にも人に割礼を施しています。23もし、人がモーセの律法を破られないようにと、安息日にも割礼を受けるのなら、わたしが安息日に人の全身をすこやかにしたからといって、何でわたしに腹を立てるのですか。24うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい。」

<詩篇  119:1−16>
1幸いなことよ。全き道を行く人々、主のみおしえによって歩む人々。2幸いなことよ。主のさとしを守り、心を尽くして主を尋ね求める人々。3まことに、彼らは不正を行なわず、主の道を歩む。4あなたは堅く守るべき戒めを仰せつけられた。5どうか、私の道を堅くしてください。あなたのおきてを守るように。6そうすれば、私はあなたのすべての仰せを見ても、恥じることがないでしょう。7あなたの義のさばきを学ぶとき、私は直ぐな心であなたに感謝します。8私は、あなたのおきてを守ります。どうか私を、見捨てないでください。
9どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。10私は心を尽くしてあなたを尋ね求めています。どうか私が、あなたの仰せから、迷い出ないようにしてください。11あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。12主よ。あなたは、ほむべき方。あなたのおきてを私に教えてください。13私は、このくちびるで、あなたの御口の決めたことを、ことごとく語り告げます。14私は、あなたのさとしの道を、どんな宝よりも、楽しんでいます。15私は、あなたの戒めに思いを潜め、あなたの道に私の目を留めます。16私は、あなたのおきてを喜びとし、あなたのことばを忘れません。


1、祭りの日に……、しかし

 冒頭から小難しいことを……ご勘弁ください。
 現代批評学に立つ聖書学者たちは、六章と七章(14以下)八章が入れ替わったので(錯帳)、5章45〜47節に7章14節をつなぐと座りがいいと考えています。しかし、普通の書物ならそんなこともあり得るのですが、聖書正典に対しては、ごく初期のころから、結集、写本、装丁、編集といった作業を、どうすれば原典を忠実に継承することができるかと、新約聖書文書の継承方法を極めて慎重に、非常に精緻なシステムが確立していました。ちなみに、これは新約文書のことで、旧約文書は含まれません。旧約聖書について言うなら、ユダヤ人たちがバビロン捕囚などの激動の歴史に翻弄されていたときに、神聖な書物としながらもかなり雑になっていた旧約聖書文書の継承に、キリスト教会が関わることで、新約聖書文書同様の精緻なシステムが適用されていったようです。とはいえ、旧約聖書には多くの問題があり、新約文書並にということには至っていません。念のため。古さという点で、旧約聖書と新約聖書の順番が逆ではないかと思われるかも知れませんが、正典の設定など、キリスト教会での文書整備という観点からしますと、新約文書のほうが先に確立していました。
 ですから、無理に錯帳のことを考慮せず、テキスト通りと考えたほうが自然でしょう。
 もともと、ヨハネはこの福音書で立体的な展開をしているのですから。


 ともあれ、今朝のテキストを見ていきます。
 七章から新しい幕が上がっており、その続きです。

 「しかし、祭りもすでに中ごろになったとき、イエスは宮に上って教え始められた」(14)
 「仮庵の祭り」の最中です。
 きっと、広い神殿外庭には、たくさんのテントや板切れを打ち付けただけの仮小屋などが作られていて、人々(おもに巡礼者)は仮庵の祭(キャンピング・フェスティバル)を楽しんでいました。そんなところでイエスさまが教え始められたのは、その祭りも中盤に差し掛かった頃のことです。そろそろそんな仮小屋暮らしにも飽きていた民衆は、イエスさまの「教え」に刺激を受けたと思われます。「教え」の内容は、聞いた人々が「この人は正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか」(15)と言っていますから、律法に関することだったようです。新改訳では「学問」となっていますが、正確には「文字」で、それは律法(旧約聖書、特にモーセ五書)を意味しています。「この人は正規に学んだことがない」とは、彼らのうちにはガリラヤ地方から来た巡礼者たちも多く、ナザレでのイエスさまのことを知っていた人たちがいたからなのでしょう。
 けれども、イエスさまのお話は、驚くほど学識豊かなものでした。その辺りの描写は、実際に、仮庵の祭に神殿の外庭でイエスさまのお話を聞いていた民衆の反応だったろうと思われます。民衆はイエスさまのお話を真剣に聞いていました。恐らく、ヨハネの念頭には、5章45〜47節で触れた「あなたがたを訴える者はモーセである」「モーセが書いたのはわたしのことである」というイエスさまのお話があって、ここでは省略されていますが、民衆もそう聞いていました。

 ですから、「モーセの律法はイエスさまを指し示すためである」と聞いて、「驚いた」「僭越だ」という反応を示したわけです。隠れた所におられたのに、民衆の前に出て来られたイエスさま、しかし人々は受け入れようとはしません。ヨハネは、依然としてイエスさまが「隠れた神」であると言っているようです。


2、正義の啓示者を

 そんな反応を示した人たちへのイエスさまの教えとして、ヨハネが取り上げたのは以下のことでした。
 「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません。モーセがあなたがたに律法を与えたではありませんか。それなのに、あなたがたはだれも、律法を守っていません。あなたがたは、なぜわたしを殺そうとするのですか」(16-19)

 これは何回も繰り返して来たことですが、ヨハネの念頭には、この福音書の読者であるエペソ教会とローマ・ギリシャの世界にいるユダヤ人や異邦人たちに確認し、受け止めて欲しいと願うことがあって、その願いをここにまとめたのでしょう。彼が見ている世界は、過去のものとなったガリラヤやエルサレムなどパレスティナのユダヤ人ではなく、あくまでも紀元一世紀末から二世紀・三世紀へと広がる異邦人世界に建てられるキリスト教会なのです。ですから、モーセの律法……等重複するものは、ほとんど省略しています。しかし、読者たちにぜひ覚えて欲しいと願うことまで重複するからといって省略せず、新しい装いを加えて提供しています。
 何を覚えて欲しかったのかと言いますと、イエスさまと、イエスさまを遣わされた神さまとの関係であり、イエスさまが父君の意志によって働くのだという「遣わされたロゴス」としての使命に立っていることでした。ヨハネはそのことを明らかにしようとしている。

 ヨハネは、イエスさまの教えが、神さまから遣わされた啓示者としてのものなのだ主張しているのです。

 これは、神さまの啓示を伝えるイザヤやエレミヤ等の預言者を擁して来たユダヤ人にとって、理解しやすいことでした。しかし、「理解する」ことと「受け入れる」こととは違います。彼らはそんな預言者のメッセージを聞きながら、ほとんどの場合、受け入れず、むしろ偽預言者の声に耳を傾けて来ました。そんな、聞きたいことだけを聞いて来たユダヤ人が、イエスさまをまことの啓示者であると受け入れられるはずもありません。
 そして、ローマ・ギリシャの世界には、似たような「託宣」はあっても、「啓示」という概念はありません。聖書を読む人たちにも、それを託宣と言う向きがありますが、「託宣」と「啓示」は区別されるべきでしょう。彼らの宗教は、原則、上からの啓示に基づくものはなく、人間思考の産物なのです。ヨハネは、そんなディアスポラのユダヤ人やローマ・ギリシャ人の世界に、偽預言者でもなく、人間が造り上げたものでもない。唯一全能の神さまの世界を伝えてくださる方がいるのだと知ってもらいたかった。「不正がない」とは、「正義」があるという言い方で、ローマ・ギリシャ的思考を持ち出している。そんな配慮までしながら、イエスさまが「啓示者ご自身」であると彼らに理解して欲しい。
 ヨハネの燃えるような願いが伝わって来るではありませんか。

 しかし、猛烈な反発が起こりました。


3、今、聞くべきことは

 群衆はこう言います。
 「お前は悪霊に取り憑かれている。誰がお前を殺そうと狙っているのか」(20・岩波訳)
 こうわめいた群衆は、地方から来ていた巡礼者たちなのでしょう。ですから、エルサレムの最新情報、たとえばパリサイ人たちなどの動静には疎かったと言えます。

 しかし、一つの疑問が残ります。
 「あなたがたは、なぜわたしを殺そうとするのか」(19)というイエスさまの問いに、彼らが、「誰がお前を殺そうと狙っているのか」(20)と答えているところです。
 パリサイ人や祭司たちが、殺気だってイエスさまを捜し回っていましたし、七章冒頭から、「(エルサレムの)ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていた」(1)と記されるほどの状況にありましたから、詳しいことは分からなかったにせよ、そこにはエルサレムの市民たちもいたわけですから、そんな状況下にあるイエスさまのことを知らないはずはありません。
 けれども、ヨハネが、イエスさま当時のパレスティナ在住のユダヤ人に、紀元一世紀末のディアスポラのユダヤ人を重ねているのだと聞きますと、「誰がお前を殺そうと狙っているというのか」という疑問も、迫害と殉教の時代に重なり、この場面が生き生きと描かれていると納得出来るではありませんか。

 「悪霊」という言い方は、ローマ・ギリシャ世界でも通用するものでした。
 ギリシャ人の世界は啓示者である唯一の神さまを認めませんが、悪霊の存在は認めているのです。ある意味、彼らは託宣さえも悪霊によるものだと感じていました。そして、キリスト教徒たちに彼らが貼ったレッテルは、しばしば、子どもを供物として祭壇に献げる邪教徒とか、無神論者(その呼び名は市民共同体の拒否者)であり、社会の敵というものでした。自分たちが築き上げて来た神々との共存社会に、キリスト教徒たちは、あくまでも溶け込もうとはしない。それが悪霊信仰の証しでなくて何であろうかと、彼らはいきり立って迫害者の道を邁進して行くのです。
 そんなキリスト教徒迫害の構図は、かつての日本にもありましたし、多くの国々も抱えて来たことでした。特に欧州では、伝統を重んじる旧来の教会が新来の信仰者を異端として葬って来た痛みの歴史を有して来ました。
 ヨハネは、この群衆に、ローマ・ギリシャ世界に住む異邦人とディアスポラのユダヤ人とを重ねていると見ていいのではないでしょうか。


 ヨハネは、イエスさまのことばをこう記します。
 「わたしは一つのわざをしました。それであなたがたはみな驚いています。モーセはこのためにあなたがたに割礼を与えました。ただし、それはモーセから始まったのではなく先祖たちからです。それで、あなたがたは安息日にも人に割礼を施しています。もし、人がモーセの律法を破られないようにと、安息日にも割礼を受けるのなら、わたしが安息日に人の全身をすこやかにしたからといって、何でわたしに腹を立てるのですか」(21-23)

 「一つのわざ」は、イエスさまのわざに、一世紀末のキリスト者が行なっていたすべてわざを重ねていると考えていいでしょう。ギリシャ世界のユダヤ人は、キリスト者たちの愛のわざに驚嘆していました。それなのに彼らは、その世界に増えていく教会が、安息日や割礼を無視している点を問題にしたのです。彼らの信仰に驚きながらも、安息日違反や割礼の無執行に異議を唱えている。「うわべによって人をさばかないで、正しいさばきを」(24)と、これは、彼らの世間に迎合した生き方に対する「NO!」なのでしょう。
 ヨハネは、多くの聖徒たちが、十字架に罪を贖ってくださったイエスさまを唯一の救い主・啓示者であると信じ、告白し、殉教して逝った、その、神さまの前での彼らの生き様と死に様を見つめるよう勧めているのです。これは、今、現代人が最も聞かなければならないことではないでしょうか。



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