ヨハネによる福音書・補

Aiming over one step

永遠の愛を


<ヨハネ1:6−13>
6神から遣わされたヨハネという人が現われた。7この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。8彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。9すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。10この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。11この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。12しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもされる特権をお与えになった。13この人々は、血によってではなく、血の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。
<エレミヤ 31:2−6>
2主はこう仰せられる。「剣を免れて生き残った民は、荒野で恵みを得た。イスラエルよ。出て行って休みを得よ。」3主は遠くから、私に現われた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。4おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。5再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び笑う者たちの踊りの輪に出て行こう。再びあなたはサマリヤの山々にぶどう畑を作り、植える者たちは植えて、その実を食べることができる。6エフライムの山々では見張る者たちが、『さあ、シオンに上って、私たちの神、主のもとに行こう。』と呼ばわる日が来るからだ」


1,バプテスマのヨハネ

 「神から遣わされたヨハネという人が現われた。この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来ようとしていた」(6-8)
 このヨハネはバプテスマのヨハネのことです。彼のことは、19節以下に詳しく取り上げられますが、それとは別に福音書記者ヨハネは、バプテスマのヨハネに一つの役割を担わせてここに登場させています。それは「あかしのため」であると、何度も繰り返し証言しています。その「あかし」が何を意味するのか、聞かなければなりません。

 バプテスマのヨハネのことは、教会の人たちにはよく知られていました。
 もともとユダヤ人は、メシアの先駆者として神さまがお遣わしになる預言者として、イザヤがその様子を生き生きと描いていましたから(イザヤ書40:3-5)、彼の出現を待ち望んでおりましたし、彼がヨルダン川で人々に悔い改めの福音を語り、バプテスマを授けていた有名な預言者だったことや、イエスさまの先駆けとして道を備えるために神さまが遣わされた人であることも、他のマタイ、マルコ、ルカの三福音書(共観福音書)に詳しく記されていました。ですから、改めて紹介するまでもなく、ただ、「ヨハネという人が現われた」というだけでよかった。それだけで、ユダヤ人も教会の人たちも、イザヤや共観福音書に描かれている先駆者であろうと分かったことでしょう。
 しかし、それだけではなく、この序文に彼を登場させることは、福音書記者ヨハネにとって特別な意味があったのだろうと思うのです。
 今、彼がこの福音書を執筆しているエペソは、ローマ帝国行政下で区割りされた、市民の大部分をギリシャ人とするアジヤ属州の首都なのです。その世界に、ヨハネは、イエスさまの福音を届けようとしている。ギリシャ人は哲学や神話、物語などという抽象的な思考にも慣れた面がありますが、ローマ人は極めて現実的な民族でした。世界に名だたる「ローマの道」を作り、インフラを整備して世界統一帝国を実現させたことも、そんな現実を重視した軍団を育て上げたからに他なりません。そんな世界に、「初めにロゴスがあった。……」などと言っても、理解してはもらえまいと思ったとしても当然でしょう。ヨハネとしては、「ロゴス」をローマ人の現実という土俵に乗せなければなりません。
 紀元六十六〜七十年、ローマ・ギリシャ世界の人たちにとって、ユダヤ人絡みの極めて大きな事件がありました。ユダヤ戦争です。歴代の何人ものユダヤ総督の横暴があって、ユダヤ人がローマに反抗して立ち上がったのです。それから二十数年経って、ヨハネをパトモス島に流罪としたドミティアヌス帝は、ユダヤ戦争のローマ軍総司令官ヴェスパシアヌスの次男です。ヴェスパシアヌスは、エルサレム攻略だけを残した戦争終焉の直前、ローマ皇帝となりました。エルサレムを攻略したのは、ヴェスパシアヌス帝の長男、次期皇帝のティトゥスです。ヴェスパシアヌス帝、ティトゥス帝、ドミティアヌス帝とこの三人の皇帝時代は彼らの家名からフラヴィウス朝と呼ばれています。ヨハネがこの福音書を執筆した当時は、ユダヤ戦争をまだ引きずっていた時代と言っていいでしょう。
 この戦争の詳細を、ユダヤ人古代史家ヨセフスが「ユダヤ戦記」という書物に著しました。ヨセフスは、この戦争初期に、ユダヤの若き知将としてヴェスパシアヌスと戦い、ローマ軍を翻弄し、苦しめた人物です。それなのに、投降後、ヴェスパシアヌスの皇帝即位を預言し、知遇を受けてローマ貴族に列するのです。ユダヤ人からは裏切り者のレッテルを貼られて。フラヴィウス・ヨセフス、その家名はヴェスパシアヌス帝から授かったものでした。
 「ユダヤ戦記」に続いて書かれた「ユダヤ古代誌」には、バプテスマのヨハネについての記述があります。
 「彼は立派な人で、ユダヤ人たちに、互いの間の正義と神への信仰との両方について美徳を発揮して、バプテスマを受けにくるようにと命じた。」


2、まことの光が

 ヨハネの念頭にヨセフスの記事があったことは間違いないでしょう。「ユダヤ古代史」は、ヨハネがこの福音書を執筆する少し前に完成したもので、ユダヤ戦争のこともあって、多くの人に読まれたであろうと思われます。「ユダヤ戦史」も「ユダヤ古代誌」もローマの公立図書館に納められましたし、エペソにはその図書館がありました。それはギリシャ語で書かれていて、もはやヘブル語を解さないディアスポラのユダヤ人やユダヤ戦争を契機にユダヤ人に関心を持つようになった人たちの目に触れたことでしょう。ヨセフスは、バプテスマのヨハネをローマ人の現実世界に登場させたのです。福音書記者ヨハネがバプテスマのヨハネを登場させた狙いもそこにあったのではないでしょうか。彼の、バプテスマのヨハネが「光・イエスさま」のことをあかしするために来たという証言は、イエスさまがローマ人の現実世界、つまり私たちが生きて生活している、その歴史の中に登場して来るのだという証言なのです。「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた」(9)とあるのはその意味においてであると聞かなければなりません。つまり、ローマ人や現代人のただ中に光なるお方が来られた。ヨハネは福音書の読者たちに、「あなたはこのお方をどう受け止めるか」と問いけたのです。

 そこでヨハネは、「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方 を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった」(10-11)と言います。ここには「闇」という言い方はありませんが、「知らなかった」「受け入れなかった」と極めて現実的な言い方で闇が浮き彫りにされています。その現実的なというのは、極めてヘブライ的でもある。いや、むしろ、ヨハネはヘブライ的な言い方で「知らなかった」「受け入れなかった」と言ったのでしょうが、それは、はからずもローマ社会を言い当てていたということなのでしょう。新共同訳は5節を「暗闇は光を理解しなかった」と訳していますが、この箇所も加えて三重の否定と言えるかも知れません。恐らく、現実に起こり始めている迫害を念頭に置きながらの言い方なのでしょう。それは「光」と対照されることによって浮かび上がって来ます。ですから、「この方(光)はもとから世におられ、世はこの方によって造られた」と言われる通り、創造主としてのお方を「知らない」「受け入れない」「認めない」という立ち方が引き起こした迫害であり、それは暗闇に支配される世界なのだというヨハネの主張なのです。それはローマの世界でもあり、私たち現代人の世界でもあるのではないでしょうか。

 しかし、「世(定冠詞+コスモス)」と聞いて、ローマ人が自分たちの現実社会を思い浮かべたとしてもおかしくはありません。あまり思弁的ではないローマ人もそのくらいの賢さは持っていました。そう期待したから、ヨハネはここに「闇」という言い方を用いず、「知らなかった」「受け入れなかった」と丁寧に繰り返している。それは、これを読む人に、「知らない」「受け入れない」と言い張って心を閉ざす人のようにではなく、「イエスさまを知って欲しい」し、「イエスさまを受け入れて欲しい」と願ってのことではなかったかと想像します。この福音書全体がその願いで貫かれているようです。


3、永遠の愛を

 「イエスさまを知って欲しい」「イエスさまを受け入れて欲しい」というヨハネの願いが、「すべての人が彼によって信じるためである」(7)というところに集約されたのでしょう。イエスさまを信じるか」という問いかけです。バプテスマのヨハネがイエスさまをあかしした(指し示した)のはそのためでした。

 「……しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」(12)と言われる。注意しておかなければならないことが二つあります。一つは「その名を信じた人々」という言い方ですが、ヨハネ独特の表現が用いられている。直訳しますと「その名の中に信じて入った人々」、奇妙な言い方ですが、それは「イエスさまを受け入れた」ということではなく、「イエスさまに受け入れられた」と告白するのが最もふさわしい言い方ではないかと思われるのです。信じる主体が私たちなのではなく、イエスさまが主体となって私たちを包み込んでくださる。いかにもイエスさまに愛された弟子ヨハネらしいではありませんか。

 もう一つのことは、「神の子どもとされる特権をお与えになった」とあるところからですが、先にヨハネは、イエスさまを私たちの現実である歴史のただ中に登場させたと言いました。十字架におかかりになり、私たちの救い主となられたのはその舞台でのことです。しかしここでは、イエスさまが私たちをご自分の時、ご自分の御国に招くのだと言っている。神さまの子どもとする特権というのはそのことでしょう。そうしますと、初めにはロゴス・創造者として私たちにいのちを与えてくださったことも合わせて、永遠から永遠まで、イエスさまは時の中心で輝いていらっしゃる。「わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである」(黙示録22:19)とはパトモス島でヨハネが聞いたイエスさまのことでした。その「時」は私たちの時なのです。本来、栄光あるお方だけが自在に操ることが出来る「時」を、私たちの時としてくださって、その中心で光り輝いていらっしゃる。暗闇に住む私たちを照らすためであると聞こえます(参考イザヤ9:1-2)。なんと光栄なことでしょう。

 「この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである」(13)とある。神さまご自身であり、先在のロゴスなるイエスさまご自身が、その大いなるご栄光を切り裂いて私たちに与えてくださったのです。そのお方は、ご自身の中にある有り余る賜物からその一部分を……という意味ではありません。私たちにとっては最高の恵みであるご自身の痛みをも込めて、ありったけを私たちに注いでくださった。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに誠実を尽くし続けた」(エレミヤ31:2)と言われる通りです。主の永遠の愛と誠実を、私たち、心を込めて全身で受け止めようではありませんか。



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