ヨハネによる福音書・補

Aiming over one step

28
最も聖なることは


<ヨハネ 6:41−59>
41ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天からくだって来たパンである」と言われたので、イエスについてつぶやいた。42彼らは言った。「あれはヨセフの子で、われわれはその父も母も知っている、そのイエスではないか。どうしていま彼は『わたしは天から下って来た。』と言うのか。」43イエスは彼らに答えて言われた。「互いにつぶやくのはやめなさい。44わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。45預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる。』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。46だれも神を見た者はありません。ただ神から出た者、すなわち、この者だけが、父を見たのです。47まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。48わたしはいのちのパンです。49あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死にました。50しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。51わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」52すると、ユダヤ人たちは、「この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか。」と言って互いに議論し合った。53イエスは彼らに言われた。「人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。54わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。55わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。56わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。57生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。58これは天から下って来たパンです。あなたがたの先祖が食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」59これは、イエスさまがカペナウムの会堂で話されたことである。

<レビ記 7:5−6>
5祭司は、それらを祭壇の上で主への火によるささげ物として、焼いて煙にしなさい。これは罪過のためのいけにえである。6祭司たちのうち、男子はみな、それを食べることができる。それを聖なる所で食べなければならない。これは最も聖なるものである。


1、主の宣言の前で

 「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください」(34)と言っていた人たちが、イエスさまの「わたしはある」(35)に敏感に反応しました。ヨハネはその人たちを「ユダヤ人」(41、52)と呼んでいます。イエスさまを追いかけて来たガリラヤの民衆たちの中には、恐らく、律法学者やパリサイ人たちといったシナゴグの教師たちも混じっていますし、ヨハネの意識の中心には、エペソ教会で議論している真っ最中のユダヤ人たちもいます。
 そんな人たちが一様にイエスさまに敵対し、福音の障害になっているのです。「ユダヤ人」とラベリングされたのはそんな人たちでした。
 もう一度繰り返しますが、ヨハネは六十年以上も前のガリラヤでの出来事に、紀元一世紀末のエペソ教会でのことを重ねながら、話し、書いているのです。また、このところが、イエスさまとユダヤ人なのか、ヨハネとユダヤ人なのか、その舞台設定もかなり混乱している。その辺りのことを念頭に置きながら聞いて頂きたいと思う。


 彼らは、イエスさまが、「いのちのパンである」(35)とか、「天からくだって来たパンである」(33、41)と聞いて、そのことば(啓示)を、言われた通りに、正確に理解しました。
 それは、イエスさまがヤハウェ、神さまご自身であるというものです。しかし、啓示というのは、預言者や王などの特定の人物を通して与えられて来たのであって、アブラハムやモーセの時代ならばともかくも、啓示者自身が自分たちの生活圏に歴史上のこととして出現するなど、あり得ないことでした。それなのに、今、目の前にいるイエスさまは啓示者として立っているのだと言う。そんなことを「ユダヤ人」が受け入れられるはずもありません。
 彼らはつぶやきました。「あれはヨセフの子で、われわれはその父も母も知っている、そのイエスではないか。どうしていま彼は『わたしは天から下って来た。』と言うのか」(42)と。
 イエスさまが、「天からのパン」を、きみたちに与えようと言うのならば、それは、もしかしたら、何らかの啓示を受けた預言者として、自分たちの前に立っているのかも知れない、と受け入れることも出来たでしょう。もともと「五千人の給食」という出来事に遭遇して、イエスさまを預言者かも知れないと思い、それならば、自分たちの王に担ぎ出そうと追いかけて来たわけですから、たとえ、預言者がメシアに変わっても、さほど問題ではありません。

 ところが、イエスさまが啓示者本人のヤハウェご自身であるなどと聞きますと、今まで追いかけ回していた想いがいっぺんに冷めてしまいました。
 「なんだこいつは。たかが田舎者ナザレの大工の息子のくせに」と反感を募らせます。

 イエスさまが言われました。「互いにつぶやくのはやめなさい」(43)
 「つぶやく」、これは、人間が主語となるもので、要求が満たされない者たちが神さまに向かって不平を言うときに用いられます。そこから転じて不信仰の表現とされ、ヨハネもその意味で用いています。互いにぶつぶつと言い合ったのは、不平あるいは不信仰を共有したということなのでしょう。
 イエスさまがヤハウェであり、神さまご自身であるというのは、イエスさまの、そして、ヨハネの宣言であって、それを聞く者たちは、納得したり、解釈したりという人間の側の理解を持ち出すのではなく、膝をかがめてそのお方を拝しつつ従うことが求められている。つまり信仰だけが求められることなのです。


2、イエスさまを食べる

 続くパンの説話は、この「信仰」ということを基調に展開されます。
 「わたしは」と、イエスさまのお話に模してはいますが、これはヨハネ自身のメッセージなのです。そのようにお聞きください。

 「イエスさまを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもイエスさまのところに来ることはできません。イエスさまは終わりの日にその人をよみがえらせます。預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる。』と書かれていますが、御父から聞いて学んだ者はみな、イエスさまのところに来ます。だれも神を見た者はありません。ただ神から出た者、すなわち、この者(イエスさま)だけが、父を見たのです」(44-46)

 この部分は少々分かりづらいのですが、イエスさまのお話とされる58節のところまでの導入部なのでしょう。「イエスさまのもとに来る」、つまり、イエスさまのものとなるというのは、信仰のことが語られていると聞かなければなりません。けれども、「イエスさまを信じる」というのは、信じる者のエモーショナルなことと聞くことが多いのですが、それは、信じる者の意志とか内面的情緒に起因するのではなく、神さまが選び、引き寄せるのでなければ、イエスさまを信じる者となることはできません。
 「信仰」は神さまに起因するのだと、ヨハネは主張しているのです。

 これは神さまの主権に関わることであり、ヨハネの基本的な神学と言っていいでしょう。
 「引き寄せる」は、非常に強い力で引っ張るというニュアンスを持ちますから、それは神さまの一方的な恩寵によるのだとヨハネは言っているわけです。ところが、その恩寵を正しく神さまからの……と認識するには、唯一、その恩寵の実践者となったひとり子・イエスさまを通してでなければなりません。信仰はイエスさまにかかっていくのです。パウロはガラテヤ書やロマ書において、現代神学者たちから「所有格信仰」と呼ばれる記述をしています。「あなたがたはみな、キリスト・イエスの(新改訳では「対する」となっているが、ギリシャ語原典では「の」である)信仰によって、神の子どもです」(ガラテヤ3:22、26、ロマ3:22)と。信仰の主体はイエスさまであると、パウロやヨハネの神学を受け止めていきたいところです。


 その導入部から、ヨハネは、「アーメン、アーメン……」と一息入れて、これまで語って来た「パンの説話」の筆を信仰に絡めて一段階高みへと進めます。

 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。イエスさまはいのちのパンです。あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死にました。しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。イエスさまは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またイエスさまが与えようとするパンは、世のいのちのための、イエスさまの肉です」(47-51)
 「信じる者は永遠のいのちを持つ」と、これは5章24節や6章40節で言われたことの繰り返しなのですが、ヨハネは、イエスさまをいのちのパン(あるいは肉)であるとして、これを「食べる」者は「永遠に生きる」のだとコマを進めました。この二つを重ねますと、信仰は「イエスさまを食べる」ことだと聞こえて来ます。どういうことなのでしょうか。


3、最も聖なることは

 「すると、ユダヤ人たちは、『この人は、どのようにしてその(自分の)肉を私たちに与えて食べさせることができるのか』と言って互いに議論し合った」(52)

 互いに議論し合ったとあるのは、「つぶやいた」と同じ言い方です。信じられないという思いがにじみ出ているようです。
 しかし、ヨハネはまた「アーメン、アーメン……」と区切りながら、イエスさまの最も中心的な出来事、十字架の贖罪を覚える「聖餐」について語ります。「これは、イエスさまがカペナウムの会堂で話されたこと」(59)とわざわざ断っていますから、以下の聖餐に関わるメッセージは、イエスさまが話されたことなのでしょう。

 「人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。これは天から下って来たパンです。あなたがたの先祖が食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます」(53-58)

 ものすごく生々しい。
 ですから、イエスさまが語られることを聞いていたユダヤ人たちは、カニバリズム(人肉食)のことを思い浮かべたのでしょうか。あるいは、何らかの象徴的な意味でのことと理解したのでしょうか。しかし、宗教儀式としても、それがどのように提供されるのか、贖罪という神さまの救済概念がモーセの教えになかったわけでもないのに、ガリラヤの民衆、特に律法学者やパリサイ人などユダヤ人指導者たちには、全く見当もつかなかったことでしょう。

 ところがヨハネは、すでに各地の諸教会で行われ、エペソ教会でも守られていた教会の聖礼典「聖餐式」を念頭に置きながら、この項を書き進んでいる。
 それは単なる儀式とか象徴ではありませんでした。イエスさまは「わたしの肉を食べ、血を飲むならば」とおっしゃったのです。

 聖餐式の記述で最古のものとされる第一コリント書で、パウロがこう語っています。
 「私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。『これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。』夕食の後、杯をも同じようにして言われました。『この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。』ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです」(11:23-26)

 エペソ教会の人たちも、幾度となくこの聖餐式に与っていましたから、ヨハネの言っている「イエスさまを食べる」ということの意味を悟ったに違いありません。「食べる」も「飲む」も実際に飲み食いするという現実的なニュアンスの強いことばが選ばれている。イエスさまの十字架において、それは現実のこととなったのです。信仰者の現実と言っていいでしょう。
 教会で行われる聖礼典、バプテスマも聖餐式も、私たちの信仰告白としてそれに与るのだと覚えて頂きたい。イエスさまは私たちの罪のために死んでくださったのですから。
 ヨハネは、遣わされた方イエスさまの生き様と死に様に徹底的に拘り続けました。なぜなら、そのところを見つめることが信じるということの中心だったからなのです。最も聖なることは十字架の主を食することでした(レビ記7:6)。それが私たちの信仰の中心なのです。その中心を私たちも見つめ続けたいではありませんか。


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