ヨハネによる福音書・補

Aiming over one step

27
恵み溢れるお方に


<ヨハネ 6:32−40>
32イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。33というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」34そこで彼らはイエスに言った。「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。」35イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。36しかし、あなたがたはわたしを見ながら信じようとしないと、わたしはあなたがたに言いました。37父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。38わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。39わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。40事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」

<詩篇 100:1−5>
1全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。2喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。3知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。4感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、はいれ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。5主はいつくしみ深く、その恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る。


1、そのいのちのパンを

 カペナウムまで追いかけて来た群衆と、イエスさまとの会話が続きます。
 何回も繰り返すようですが、これは、エペソ教会で為されたヨハネとユダヤ人との会話(論争)なのです。聞き手はもちろんエペソ教会の人たちでしょう。
 しかし、基本的にヨハネは、イエスさまのお働きを思い出しながらこれを記している。彼は教会の人たちに、イエスさまが何を語り、どう教えられたのかを聞いて欲しいと願っています。ですから、この辺りの記事は、どこからどこまでがイエスさまのことばであり、どこがヨハネのものなのか、その境界線は極めて不透明ですから、それを見極めることは不可能に近い。そのことを念頭に置きながら、少々の混乱はそのままに、聞いていきたいと思うのです。ヨハネは現代の私たちにも聞いて欲しいと願っているのですから。


 おれたちが信じるために、もっとしるしを見せよ、という彼らの要求に、イエスさま(あるいはヨハネ)が言われました。
 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです」(32-33)

 「しるしを見せよ」「(しるしは)いのちを与えるものである」と、この会話は、共観福音書で、律法学者たちがイエスさまに「しるしを見せよ」と迫ったことにそっくりです。
 その時、イエスさまは、こう言われました。
 「悪い、姦淫の時代はしるしを求める。だが、ヨナのしるしのほかに、しるしは与えられない。ヨナと同様に、人の子も三日三晩地の中にいる」(マタイ12:38-41)と。

 ここではまだ明らかにはされませんが、ヨハネの念頭には、そのときのイエスさまに、間近に迫っていた十字架のことがあったのでしょう。「モーセが十字架につけられたわけではない。イエスさまが十字架にかかり、死なれたのだ」と。
 しかし、人々はそのことばを理解しません。
 イエスさまと向き合っているガリラヤの人たちは、「いのちを与えるパン」を生命維持のしるしと聞いたのでしょうか。彼らは言いました。
 「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください」(34)と。
 その不思議なパンはおれたちの空腹を永久に癒やしてくれることだろう。それでこそメシアであり、おれたちの王にふさわしいではないかと。

 まるで、渇くことのない水を求めたサマリヤの女のようではありませんか(4:15)。

 イエスさまは、そんな無知なサマリヤの女にとても優しい。
 彼女には、彼女が抱えていた問題点を突きつけますが、彼女が答えたくないと見るや、それ以上は追求せず、サマリヤ人である彼女の最大の関心事だった、「神さまを礼拝する場所」のことに話を移し、「神さまを礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければならない」と教え諭しています。彼女はイエスさまを来るべきキリストであろうと信じました。無知ということは、彼女がイエスさまを信じるための妨げにはなっていません。

 ところが、今、カペナウムに舟を乗り付けて来たユダヤ人の群衆は、決して無知ではなく、先祖イスラエルがモーセに導かれて荒野を放浪していた時に、四十年もの間、神さまに養われていたことも知っています。ヨナのしるし……という記事は、時期的にもこの記事と非常に近く、ヨハネはその辺りのことをごちゃまぜにしてこのところを書いている。そうしますと、彼らの中に律法学者やパリサイ人たちが混じっていてもおかしくはありません。そして、この論争に加わっていたディアスポラのユダヤ人たちも、旧約聖書の知識を十分に持っていた人たちでした。なにしろ、エペソ教会の指導者たちだったのですから。


2、見ながらも信じない者たち

イエスさまが言われました。
 「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません」(35)

 「わたしはいのちのパンである」と、それはギリシャ語で「エゴー エイミイ ホ アルトス テース ゾーエース」というものですが、ヨハネはここに非常に大切な二つのメッセージを込めているようです。
 一つは「エゴー エイミイ」で、「湖上歩行」のところで「わたしだ」と言われたことと同じ言い方です。それは、神さまが「わたしはヤハウェである」と宣言なさったところの「わたしはある」であり(出エジプト記3:13-15)、イエスさまはそれをご自分のこととして、「わたしはヤハウェ(主)である」と宣言されたものなのです。そして、もう一つは「ホ アルトス テース ゾーエース(いのちのパン)」というところです。これは、「わたしはある」のいわば付記なのですが、聖書に通じたユダヤ人たちは「エゴー エイミイ(わたしはある)」と、付記の「ホ アルトス テース ゾーエース(いのちのパン)」とを聞き分けたことでしょう。彼らにとって、付記であろうとも、決して、どうでもいいものではありません。パレスティナのユダヤ人であっても、また、ローマ・ギリシャ世界のユダヤ人であっても、それくらいのニュアンスを聞く耳を持っていました。

 「わたしはある」者であると宣言なさったイエスさまが、「いのちのパン」そのものであると、さらに細やかな心遣いをなさっている。なぜなら、彼らにとって、パンの問題は当面の最重要課題だったからです。ユダヤ人たちは、その二つをもって、イエスさまがいのちのパン=彼らにいのちを与えるお方・彼らの主であり、全世界で唯一最高の神さま・ヤハウェであると受け止めなければなりませんでした。もっとも、ガリラヤのユダヤ人たち(当然イエスさまも)が使用している言語は通用語であるアラム語でしたが、ヨハネは、この福音書の読者たちがギリシャ語圏の人たちでしたから、ギリシャ語のニュアンスでこの記事をまとめました。それは、ギリシャ語のニュアンス通りにヨハネが語り、ローマ・ギリシャ世界のユダヤ人たちもその通りに聞くであろうと思っているからです。それは、ガリラヤのユダヤ人にとっても、ギリシャ語の表記が、彼らの理解の妨げになることはありません。ヘブル語やアラム語も同じニュアンスになるからです。まして、ギリシャ語を母国語のように使っているディアスポラのユダヤ人にとっては、自明なギリシャ語用法なのです。
 しかし、ユダヤ世界の者であろうと、ギリシャ世界の者であろうと、ユダヤ人にとって、「わたしはある」という神さまご自身のお名前を口にするなど、はなはだしい冒涜であるとされていましたから、イエスさまがそのお方であるなどとはもってのほかであって、恐らく、耳を塞いでしまったことでしょう。それがまともなユダヤ人の姿勢でした。
 ですから、そのように語り、そのように聞いたのに、ユダヤ人たちはイエスさまを信じようとはしません。
 イエスさまが言われます。
 「あなたがたはわたしを見ながら信じようとしない」(36)と。
 実際に、この「パンの説話」を否定したガリラヤの民衆は、イエスさまを自分たちの王として迎えることを断念したばかりか、あれほどにイエスさまを追いかけ回した熱も冷めたのか、イエスさまを離れてしまいます。そこから、イエスさまは、残ったわずかな弟子たちとともに、ガリラヤを離れ、エルサレムへの道に旅立っていきます。
 それは十字架への道でした。


3、恵み溢れるお方に

 しかし、それはもう少しあとのことです。
 ヨハネはユダヤ人との不毛な論争を諦めたのでしょうか。
これまでのユダヤ人との論争をじーっと聞いていた、教会の人たちの方に向き直り、イエスさまのメッセージを続けました。
 「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます」(37-40)

 イエスさまが実際に語られたところがどの部分だったのかは、残念ながら特定出来ません。
 しかし、イエスさまを「遣わされた者である」という神さまの啓示の範疇で聞くならば、「わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです」というところが、恐らく、イエスさまご自身のものとしてこのメッセージの骨格になっているのではないでしょうか。その父君の御心は、当然ながら、イエスさまのお話を聞いているガリラヤの民衆へのメッセージでもあったのでしょう。
 が、ヨハネはこれを、今現在起こりつつある終末のことと受け止めました。

 きっと、黙示録の世界を経験していたヨハネの胸中には、迫害と殉教に苦悩するローマ・ギリシャ世界に建てられたキリスト教会の人たちのことが重くのしかかっていました。
 その人たちをイエスさまは決して見捨てることはないのだと。
 なぜなら、イエスさまは「いのちの主」ご自身なのですから。そのいのちは、長生きしたとしても八十年とか九十年で消滅してしまう、そんなものではなく、神さまの「永遠」という範疇で語られる「新しいいのち」なのです。繰り返される「終わりの日によみがえらせる」という言い方がどのようなことなのか、残念ながら、滅びる肉体に閉じ込められている私たちには、想像することも出来ません。しかし、神さまの御国に招かれるのだと聞くならば、ほんのわずかながら、その光栄がどんなに素晴らしいものであろうとわくわくするのです。
 そして、きっと、顔を輝かせながら聞いていたエペソ教会の人たちは、慰めと励ましを与えられたであろうと想像するのですが。


 その光栄に与ることが出来るのは、―それは決して条件などではありませんが―、ヨハネは、人間サイドの事柄として、「(イエスさまを)見て、信じる」人たちであると断言します。
 これは、決して信じようとはしない者たちに言われた、「あなたがたはわたしを見ながら信じようとしない」(36)に対応させているのでしょう。「神さまのお働きは、信仰の領域において人間に起こるのであって、何らかの神秘的方法でなされるのではない」とある註解者が言うように、これは、イエスさまの「遣わされた御子」としてのご人格に、私たちが結びつくことによって実現する、あくまでも神さまの恩寵に属する事柄なのです。
 イエスさまの奇跡が、私たちをして「見て、信じる」者とするのではない。見つめるべきは、十字架に死んでくださった贖罪者イエスさまの、恩寵そのものであるご人格なのです。
 やがて、その恵み溢れるお方にお会いすることが出来る。
 なんと素晴らしいことでしょう。
 殉教していった先輩たちとともに、私たちもその日を待ちわびたいではありませんか。



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