ヨハネによる福音書・補

Aiming over one step

26
遣わされた方を


<ヨハネ 6:22−31>
22その翌日、湖の向こう岸にいた群衆は、そこには小舟が一隻あっただけで、ほかにはなかったこと、また、その舟にイエスは弟子たちといっしょに乗られないで、弟子たちだけが行ったということに気づいた。23しかし、主が感謝をささげられてから、人々がパンを食べた場所の近くに、テベリヤから数隻の小舟が来た。24群衆は、イエスがそこにおられず、弟子たちもいないことを知ると、自分たちもその小舟に乗り込んで、イエスを捜してカペナウムに来た。25そして湖の向こう側でイエスを見つけたとき、彼らはイエスに言った。「先生。いつここにおいでになりましたか。」26イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。27なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」28すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」29イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」30そこで彼らはイエスに言った。「それでは、私たちが見てあなたを信じるために、しるしとして何をなさいますか。31私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『彼は彼らに天からパンを与えて食べさせた。』と書いてあるとおりです。」

<詩篇 78:23−31>
23しかし神は、上の雲に命じて天の戸を開き、24食べ物としてマナを、彼らの上に降らせ、天の穀物を彼らに与えられた。25それで人々は御使いのパンを食べた。神は飽きるほど食物を送られた。26神は東風を天に起こし、御力をもって、南風を吹かせられた。27神は彼らの上に肉をちりのように、翼のある鳥を海辺の砂のように降らせた。28それを宿営の中、住まいの回りに落とした。29そこで彼らは食べ、十分に満ち足りた。こうして彼らの欲望を、かなえてくださった。30彼らがその欲望から離れず、まだ、その食べ物が口にあるうちに、31神の怒りは彼らに向かって燃え上がり、彼らのうちの最もがんじょうな者たちを殺し、イスラエルの若い男たちを打ちのめされた。


1、福音と真っ正面から

 「五千人の給食」(6:1-15)の発端なのですが、舟に乗ってどこかに行ってしまわれたイエスさまを追って、大ぜいの群衆が、いつもイエスさまが行かれるガリラヤ湖北端の山まで駆けつけました。イエスさまを追いかけ回す人々の群れ、それは、彼らに希望のないことを物語っています。貧しく、その日の食べ物にも事欠くような中で、そんな民衆の生活には全く目を向けようともしない為政者たちに期待できることは何もありません。
 そんなユダヤ社会の中で、メシアかも知れないイエスさまに、彼らは一縷の望みを託して……、ですから、追いかけ回していたのでしょう。


 「その翌日……」と始まる今朝のテキストもその記事に似ています。
 「その翌日、湖の向こう岸にいた群衆は、そこには小舟が一隻あっただけで、ほかにはなかったこと、また、その舟にイエスは弟子たちといっしょに乗られないで、弟子たちだけが行ったということに気づいた」(22)とあります。
 「五千人の給食」のあと、弟子たちを舟に乗せて帰らせたイエスさまが、人々を解散させましたが、相当数の人々が帰らないで、そのままそこに残り、一夜を野宿していたのでしょうか。そこにテベリヤから別の人々が何隻もの小舟でやって来ました(23)。彼らもまたイエスさまを捜していたのです。残っていた人々と、新しく加わった人々は、イエスさまを捜しながらカペナウムにやって来ます。そして、彼らはとうとうイエスさまを探し出しました(24-25)。カペナウムはイエスさま活動の拠点でしたから。
 この間に、一夜、イエスさまの「湖上歩行」の出来事がありました。

 「先生。いつここにおいでになりましたか」(25)と、ようやくイエスさまを見つけた彼らの安堵が伝わって来ます。彼らは、夜の間にそんなことがあったとは知りませんが、てっきり、まだ山の上にいると思ったイエスさまが、いつの間にかカペナウムにいらっしゃる。そんなことにも、彼らは一層、イエスさまのメシア性というか、ミステリアスなところに惹かれています。だからなのでしょう。彼ら民衆の思いは、貧しさからの脱却というばかりではなく、ローマ支配からの解放にはこのお方が欠かせないと、そんな彼らの確信とか、盲信といったがむしゃらな、しかし、悲鳴にも似た叫び(出エジプト2:23)みたいものが感じられるようです。
 「五千人の給食」の後、イエスさまを自分たちの王に祭り上げようとした彼らです。

 このころ、ユダヤ人は、ローマへの反抗という形に凝り固まっていました。

 それは六十年も前のことでしたが、ヨハネはこれを、一世期末のローマ・ギリシャ世界の、特にエペソ教会の人たちに重ねているのでしょう。当時の人たちにとっても、イエスさまがさまざまな奇跡を行われたということは、非常な魅力だったに違いありません。そんなイエスさまを王に! あるいは、その王は、イエスさまを旗印に掲げるヨハネだったのかも知れません。しかし、それはキリストの王国という、皇帝統治のローマとは別次元の夢であって、現実逃避に過ぎませんが、そんな夢を見させてくれる王であると聞くことは、迫害と殉教の時代に、ある意味、彼らの信仰を鼓舞するものだったことでしょう。

 ところが、ヨハネにはそんな気は毛頭ありません。
 ヨハネがそんな人々に、真っ正面から福音と向き合って欲しいと願ったことは当然のことでしょう。福音には、彼らが願う現実逃避の夢よりもはるかに現実的な、神さまの御国へと彼らを誘う(いざなう)希望があったからです。
 五章の後半で語られた「あかし」は、殉教を指す教会用語になりつつあります。迫害と殉教の時代だから、本物の信仰を、そんなヨハネの思いが伝わって来ます。


2、神さまを拝し、喜ぶ住まいに

 さて、今朝のテキストは22〜31節のところです。
 ここからヨハネは、イエスさまと人々との会話や弟子たちのことも織り交ぜながら、59節(ある意味71節)まで、イエスさまの長い長い「パンの説話」と呼ばれるお話を記していくのですが、これは、恐らく、いろいろな場面で語られたものをここにまとめたものと思われます。長いところを何回も区切りながらですから、どこで区切ったらいいのか、それさえも難しいのですが、できるだけ丁寧に見ていきましょう。


 大ぜいの人々がイエスさまを捜しながら追いかけて来ました。
 「ラビ。いつ、ここにおいでになったのですか」(25・新共同訳)と、これは、ついに見つけたぞという彼らの感情の高ぶりを示しているようです。イエスさまにしてみれば、別に隠れていたわけではありませんので、いつもと同じように彼らを迎え入れました。
 けれども、彼らが何を求めているのか、そのことはご存じです。
 彼らはイエスさまに、力を行使されるメシア像を求めていました。ですから、力=武力よりもずっと大切なものがあると、教えなくてはなりません。ここから語られる「パンの説話」は、何度も繰り返されたイエスさまのお話が土台になっているのでしょう。
 この辺りから、語り手がイエスさまなのかヨハネなのかの区別がつきにくくなっている。
 ヨハネは、イエスさまの出来事「五千人の給食」に関するところを取り上げながら、ローマ・ギリシャ世界に建てられた教会の人たちに向かって、この記事を書いています。そこにはユダヤ人もギリシャ人もいました。彼らにとってパンの問題は、イエスさま当時のガリラヤのユダヤ人と同じように切実なものであって、それは現代の私たちにとっても同じです。きっと、ヨハネはこれを、現代の私たちにも聞いて欲しいと願っているのでしょう。そう聞きながら、このところに耳を傾けていきたいと思うのです。

 ヨハネはまた「アーメン、アーメン……」と仕切り直しをして次へと筆を進めます。
 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです」(26-27)

 パンを食べた人たちは五千人もいましたから、そのパンがたった五つだけだったとは知らなかったと思いますが、弟子たちが買いに行った形跡もないのに、どこからかパンを取り出して、自分たちが満腹したではないかと、イエスさまを担ぎ上げる動機となりました。この時代、民衆はほとんど例外なく貧しかったのです。新しい王は、自分たちを貧しさから解放してくれる人でなければなりませんでした。

 しかしヨハネは、そんな本能的な欲求によって動こうとする人間の在り方を否定します。
 腹を空かせてうろうろと食べ物を探し歩くだけならば、野の獸と同じではないか。いや、野の獸さえも、神さまは養ってくださるのです。神さまは人間をパンのために創造されたのではありません。お造りになった神さまを覚えることこそが、人間の真骨頂なのです。ですから、「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい」と言われます。イエスさまがなさる「しるし」は、手品のようにパンを出すことではなく、いのちをお与えになったお方を覚えるためでした。
 「いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい」とは、そのことを言っている。
 これは、現代人が見失った生き方ではないでしょうか。
 「永遠のいのち」などと聞くと、現代人はすぐに小難しい哲学とか神学のことだろうと思うのですが、神さまを拝し、喜ぶ住まいに招かれると聞くなら、そんな抽象的な哲学ではないとお分かりでしょう。信仰の事柄なのです。ヨハネは、いのちのパンを与えるお方は、「人の子」イエスさまであると言い切りました。信仰とは、そのお方を見つめることなのです。


3、遣わされた方を

 イエスさまは、「人の子」と神さまから認証されたお方であると、これは、ヨハネの宣言なのでしょう。「認証する」と、小難しい言い方ですが、これは、正式な書類に印を押すという法律用語であって、神さまがイエスさまを「人の子」と正式に認めて印を押したという言い方なのです。「人の子」という尊称は、「地上を歩かれる神さま」という意味で、ユダヤ人はその方の世界に生きていました。神さまは、ユダヤ人の先となり後となって自分たちを導いて来たという意識です。恐らく、彼らが待ち続けていたメシアも「人の子」として意識されていたのでしょう。
 しかし、これまでに現われては消えて行った自称他称のメシアを多く見て来て、ある意味、メシアに失望していたユダヤ人たちは、イエスさまをメシアとは認めない。まして神さまご自身であるなどとんでもないことでした。ですから、イエスさまがご自分を「人の子」と言いますと、ユダヤ人は「お前は自分を神とするのか」と反発して来たわけです。

 しかし、「五千人の給食」を始め、イエスさまのさまざまな不思議を目の当たりにして来たこの人たちは、もはや反発しません。それはきっと、イエスさまが神さまによって力あるわざを行われる方であると認めたからなのでしょう。しかし、彼らのその意識は、イエスさまをエリシャのような預言者に仕立てたと言い換えてもいいものでした。それは、確かに神さまの力を纏う方であろうとはするのですが、自分たちを、ささやかではあっても、貧しさからの脱却という欲望の実現をイエスさまに見たからなのです。

 そんな彼らの受け入れ方には、重大な問題があると、ヨハネは、彼らとイエスさまの会話という形を通して異を唱えているようです。

 彼らは言いました。
 「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか」(28)と、一見へりくだっているようですが、この人を王として迎えるために何をすべきかという実利的なものが見え隠れしている。だから、イエスさまが、「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです」(29)と言われたことに反応が鈍い。「それでは、私たちが見てあなたを信じるために、しるしとして何をなさいますか。私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『彼は彼らに天からパンを与えて食べさせた。』と書いてあるとおりです。」(30-31)
 自分たちがパンに拘わって何が悪い。モーセだって先祖たちに天からのパンを与えたではないか。きっと彼らは、イエスさまを、神さまが遣わされた、永遠のいのちに至るパンを与える方であると言われ、預言者であろうとか、メシアであろうとか期待しながら、モーセ以上のお方であるとは認めません。彼らユダヤ人にとって、モーセは第一の、メシアは第二番目の救済者なのです。それほどに言うのなら、もっともっとしるしを見せてみよ。そうすれば信じてやろうじゃないの。それは、まさに現代人そのものではありませんか。
 よくよく考えて頂きたい。
 自分たちの好む救済者を望むのでしょうか。
 そうではなくて、神さまが遣わされたイエスさまを見つめて頂きたいのです。



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