ヨハネによる福音書・補

Aiming over one step

25
主、ヤハウェなるお方を


<ヨハネ 6:15−21>
15そこで、イエスは人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。16夕方になって、弟子たちは湖畔に降りて行った。17そして、舟に乗り込み、カペナウムのほうへ湖を渡っていた。すでに暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった。18湖は吹きまくる強風に荒れ始めた。19こうして、四、五キロメートルほどこぎ出したころ、彼らは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られのを見て、恐れた。20しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしだ。恐れることはない。」21それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。舟はほどなく目的の地に着いた。

<詩篇 107:23−32>
23船に乗って海に出る者、大海であきないする者、24彼らは主のみわざを見、深い海でその奇しいわざを見た。25主が命じてあらしを起こすと、風が波を高くした。26彼らは天に上り、深みに下り、そのたましいはみじめにも、溶け去った。27彼らは酔った人のようによろめき、ふらついて分別が乱れた。28この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から連れ出された。29主があらしを静めると、波はないだ。30波はないだので彼らは喜んだ。そして主は、彼らをその望む港に導かれた。31彼らは主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。32また、主を民の集会であがめ、長老たちの座で、主を賛美せよ。


1、奇跡信仰に異を唱えて

 先週、「五千人の給食」というイエスさまの奇跡物語を見ました。そこでヨハネは、イエスさまが行なった奇跡を見て、このお方はまぎれもなくメシアであると認めながら、このお方を自分たちの王に迎えようではないかと、そんな思惑でしかイエスさまを受け入れようとしない民衆の思いを、間近に迫ったイエスさま十字架の発端として書き綴ったのです。

 しかし、その奇跡物語にはもう一つの出来事が重ねられています。今朝のテキスト「湖上歩行」(16-21)です。この記事はマタイ十四章22〜34節とマルコ六章45〜52節にもあるのですが、ヨハネの記事は、その二つに比べると、イエスさまの湖上歩行という中心部分はもちろん描かれていますが、それとても非常に簡単なものですし、イエスさまが船に乗り込まれると嵐が静まったとか、ペテロの湖上歩行といった付随する奇跡の部分はすべてそぎ落とされています。まるで奇跡そのものには興味はありませんとでも言いたげです。マタイとマルコは「湖上歩行」を「五千人の給食」と並べることで、その二つの奇跡物語をもってイエスさまのメシア性を強調しているのです。しかし、一世紀末にこの福音書を執筆しているヨハネは、もちろんその二つの福音書を読んでいましたから、彼らの論点を十分に承知していたのでしょうが、ヨハネには、すでに教会に定着していた「メシア神学」をなぞる必要性は全くありません。これは、並行記事として並べたのではなく、むしろ、「湖上歩行」の記事をここに並べたのは、「五千人の給食」では語られなかったことを補足する何らかの意図があるようです。
 そのヨハネの意図を聞いていきたいと思う。

 「人々は、イエスのなさったしるしを見て、『まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ』と言った。そこで、イエスは人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた」(14-15)とあります。

 新改訳は15節だけを独立句のようにしていますが、岩波訳のように14〜15節を独立句と見たほうがいい。この短い独立句は、恐らく、「五千人の給食」と「湖上歩行」とを結ぶヨハネ独自の記事ですが、「五千人の給食」という奇跡を経験した民衆は、イエスさまを異教徒支配からの独立という反ローマ運動の指導者に担ぎ出そうとしています。それは、メシア待望論がわき起こって来たハスモン王朝時代以来、ユダヤ人の定番の考え方でした。しかし、当のイエスさまは担ぎ上げられることを拒否されたのだと、ヨハネはユダヤ人のメシア観に異を唱えているのです。

 ある註解者が、「キリストは地上勢力や地上の王国の保証人ではない」と言うように、イエスさまの「湖上歩行」は、そんな文脈内で聞かなければならないのでしょう。


2、ヤハウェとの出会い

 「夕方になって、弟子たちは湖畔に降りて行った。そして、舟に乗り込み、カペナウムのほうへ湖を渡っていた。すでに暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった」(16-17)

 ヨハネは、「湖上歩行」の出来事を語り始めます。
 夕方が近づいて来たので、弟子たちはカペナウムへ帰ろうと舟を出しました。
 イエスさまは乗っていません。並行記事のマタイやマルコは、イエスさまが弟子たちを舟に乗せてこぎ出させ、ご自分は残って群衆を解散させています。そんな状景とはかなり違っていますが、細かなことをごちゃごちゃ言っても益ないことでしょう。

 ところが、こぎ出したときにはさほど強くなかったのに、湖は吹きまくる強風に荒れ始めました(18)。乗っていた人数は少なくとも十二人はいますから、小さな漁船といっても、かなり大きい。しかも、この湖で生まれ育った漁師たちが何人も乗っています。それが、わずか四〜五`ほどこぎ出したとろこで、強い向かい風のためにこぎ悩んでいる。とうとう夜になり、ついに夜中の三時ころになってしまいました。かれこれ十時間近くも湖上で立ち往生している。
 そんな中、漁師たちの鋭い目が、暗い湖上をすべるように近づいて来るものを察知しました。ヨハネはただ、「イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られた」(19)とだけ記します。湖の真ん中です。ただごとではないと弟子たちが怖がったのも無理からぬことでした。マタイとマルコは、弟子たちが「恐ろしさのあまり、『あれは幽霊だ』と叫んだ」と記しています。ヨハネの記事「恐れた」に比べると、彼らの恐怖心が桁違いに強調されている。ところが、ヨハネの記事では、そんなことは些細なことだと言わんばかりです。

 イエスさまは言われます。「わたしだ。恐れることはない。」(20)
 このことばは、マタイとマルコでは、弟子たちの「幽霊だ」という恐怖に対応するように、「わたしは、(幽霊ではない)イエスである」という意味で言われており、記事全体を彩るお方がイエスさまであると強調されているのですが、ヨハネの記事では、恐怖そのものの扱いが極めて小さいのですから、それに対応するものではありません。
 この記事の中心に置いた二つの主題のうちの一つがこの部分なのです。
 ある意味、イエスさまの湖上歩行さえもどうでもいい扱いに感じられる。恐怖の扱いが小さいことも、このイエスさまのこの「恐れるな」ということばを中心に据えるためと思われます。
 ある註解者はこう言います。「人の姿をした神の出現は、弟子たちに恐怖を起こさせる。しかし、イエスは、『わたしだ、恐れるな』と言って応ずる。これは人間に出会う神の定型的な合い言葉である」(NTD新約聖書註解ヨハネによる福音書)


3、主、ヤハウェなるお方を

 「わたしだ」というのは、「わたしはある」というイエスさまの宣言です。
 これは、「わたしは道である」「わたしは真理である」「わたしはぶどうの木である」「わたしはいのちである」……と、ヨハネ福音書の中にたくさん出ていまして、ヨハネ神学の極めて重要な特徴となっています。ギリシャ語で「エゴー・エイミイ」というものですが、英語など欧米語ではI am.に相当します。ギリシャ語でも英語でもドイツ語でも、それは、通常、補語を伴わなければ文章としての意味をなしません。ただ、例外的に、神さまが「わたしはある=I am.」と言われる場合のみ文法的にも有効であると認められています。He is.もそうですね。「神はおわしたもう」と訳します。そういった欧米人の感覚がどこから来たのかと言いますと、神さまの宣言からなのです。
 出エジプト記に、神さまが奴隷の民イスラエルをエジプトから連れ出そうとされたとき、その指導者にモーセを選び、イスラエルに遣わす記事があります。モーセが言いました。「私はイスラエルのところへ行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました』と言えば、彼らは、『その名は何ですか』と私に聞くでしょう。私は何と答えたらよいのでしょうか。」(3:13) 神さまが答えました。「わたしは、『わたしはある』という名である。あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた』と。」(14) これが神さまの呼び名になりました。新改訳聖書に太文字で「主」とあるのはヘブル語で四つの子音字、ヤハウェと呼ばれていますが、これはもともとbe動詞に由来する「存在する(わたしはある)」なのです。
 これをヨハネは、湖をも、嵐をも、そして、人間の生きる糧であるパンをも御手に治めたもうお方なのだと、イエスさまに重ねました。
 イエスさまは、「わたしはある」と存在を強調される神さまご自身なのです。
 たかがローマから独立するための指導者などではない。「世界の王」と呼ばれることさえも、イエスさまにとっては役不足でしょう。

 ついでに言っておきますと、そのイエスさまから私たちは、「あなたは世の光である」「あなたは地の塩である」等々と言われますが、これはもちろん「あなたはある」というものです。こんなにも取るに足らない者を、「あなたは、神さまの前にも人の前にも価値ある者である」と宣言されたのだとお聞きください。


 ここには、ヨハネがもう一つの中心主題とした奇跡があります。
 「そこで彼を舟に迎え入れようとした。すると舟は往こうとしていた地にすぐに着いてしまった」(21・岩波訳)とある。
 弟子たちがあんなにこぎ悩んでいたのに、イエスさまが乗り込まれますと、すぐに目的地に着きました。これは小さなことかも知れません。しかし、ヤハウェにして救い主なるお方は、私たちのどんなに小さなことをも見逃さず、覚えていてくださる。たとえ私たちが目的地を見失っても、「わたしはある」というお方、私たちの「神さまである主・ヤハウェ=イエスさま」は、私たちの往くべきところをご存じなのです。そして、このお方を迎え入れますと、「ただちに」往くべき港に連れて行ってくださいます。

 詩篇にこうあります。
 「主があらしを静めると、波はないだ。そして主は、彼らをその望む港に導かれた。彼らは、主の恵と、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ」(107:30-31)
 私たちの「主」は、紛れもなき天地の創造主であり、私たちにいのちの息を吹き込まれたお方であります。しかも、神さまから遠く離れ、嵐の中でもがいていても、そんな私たちを見出し、ご自分の民として招いてくださる十字架の救い主なのです。
 そのお方を、私たちの「主」としてお迎えしようではありませんか。



Home