ヨハネによる福音書・補

Aiming over one step

23
いのちと裁きの主を


<ヨハネ 5:31−47>

31「もしわたしだけが自分のことを証言するのなら、わたしの証言は真実ではありません。32わたしについて証言する方がほかにもあるのです。その方がわたしについて証言される証言が真実であることは、わたしが知っています。33あなたがたはヨハネのところに人をやりましたが、彼は真理について証言しました。34といっても、わたしは人の証言を受けるのではありません。わたしは、あなたがたが救われるために、そのことを言うのです。35彼は燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、その光の中で楽しむことを願ったのです。36しかし、わたしにはヨハネの証言よりもすぐれた証言があります。父がわたしに成し遂げさせようとしてお与えになったわざ、すなわちわたしが行なっているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わしたことを証言しているのです。37また、わたしを遣わした父ご自身がわたしについて証言しておられます。あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたこともなく、御姿を見たこともありません。38また、そのみことばをあなたがたのうちにとどめてもいません。父が遣わした者をあなたがたが信じないからです。39あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。40それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。41わたしは人からの栄誉は受けません。42ただ、わたしはあなたがたを知っています。あなたがたのうちには、神の愛がありません。43わたしはわたしの父の名によって来ましたが、あなたがたはわたしを受け入れません。ほかの人がその人自身の名において来れば、あなたがたはその人を受け入れるのです。44互いの栄誉は受け入れても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか。45わたしが、父の前にあなたがたを訴えようとしていると思ってはなりません。あなたがたを訴える者は、あなたがたが望みをおいているモーセです。46もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです。47しかし、あなたがたがモーセの書を信じないのであれば、どうしてわたしのことばを信じるでしょう。」

<詩篇 2:1−12>
1なぜ国々は騒ぎ立ち、国民はむなしくつぶやくのか。2地の王たちは立ち構え、治める者たちは相ともに集まり、主と、主に油をそそがれた者とに逆らう。3「さあ、彼らのかせを打ち砕き、彼らの綱を、解き捨てよう。」4天の御座も着いておられる方は笑う。主はその者どもをあざけられる。5ここに主は、怒りをもって彼らに告げ、燃える怒りで彼らを恐れおののかせる。6「しかし、わたしは、わたしの王を立てた。わたしの聖なる山、シオンに。」7「わたしは主の定めについて語ろう。主はわたしに言われた。『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。8わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。9あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、焼き物の器のように粉々にする。』」10それゆえ、今、王たちよ、悟れ。地のさばきづかさたちよ、慎め。11恐れつつ主に仕えよ。おののきつつ喜べ。12御子に口づけせよ。主が怒り、おまえたちが道で滅びないために。怒りは、いまにも燃えようとしている。幸いなことよ。主に身を避ける人は。


1、イエスさまをあかしする

 イエスさまのソリロギア(独白録)、その前半19〜30節で、ヨハネは、「アーメン、アーメン……」と、何度も立ち止まり、反芻しながら、父なる神さまから遣わされた方としての、イエスさまご自身の職責を展開しました。それは「いのちとさばき」という中心主題に絞られています。しかし、ヨハネの耳には、福音を聞き入れないばかりか、イエスさまがキリストであるというその証言をも疑う者たちの声が届いていたのでしょう。もちろん、それはベテスダ池での出来事に端を発していますから、その論争相手はエルサレムのパリサイ人でした。
 しかし、ヨハネは、今、ギリシャ・ローマの世界で、イエスさまのことを「あかし」しようとしているのです。そこにも頑固なユダヤ人たちがいましたし、さらに、たくさんの「キリスト教異端」が発生していたという事情もありました。そんな異端の教えに対応することも喫緊の課題でした。イエスさまのソリロギアは、もはや、ヨハネのメッセージと言ってもいいくらいに練り上げられて、恐らく、彼らへの最強の反証を目指したのでしょう。

 今朝のテキストは後半の31〜47節のところからです。
 このところの中心主題は「証言(あかし)」です。いや、このところの中心主題というよりも、福音書最後のところには、「これらのことについてあかしした者、またこれらのことを書いた者は、この弟子である。そして、私たちは、彼のあかしが真実であることを、知っている」(21:24)とありますから、この福音書そのものが、イエスさまを「証言」するために執筆されたと言ってもいいのではないでしょうか。

 「もしわたしだけが自分のことを証言するのなら、わたしの証言は真実ではありません」(31)と後半が始まります。「だけ」と、これは新改訳の補足ですから、「わたしが自分自身について証しをするなら」(新共同訳)としたほうがいいでしょう。「証言」は動詞や名詞なども含めて、共観福音書にはほんの数例出て来るだけで、ヨハネ文書に圧倒的に多いのです。
 そのほとんどを、ヨハネは、裁判用語として用いていますが、ある意味、イエスさまはユダヤ人の法廷に立たされているのです。総じて古代社会は、法廷での自己証言を、偽りであろうとして一切認めてはいませんでした。自己証言は効力を持たず、証明力もないとされていたわけです。ユダヤ人も同じ理由を上げています。
 少し後に、パリサイ人がイエスさまにこう言いました。
 「あなたは自分のことを自分で証言しています。だから、あなたの証言は真実ではありません」                                        (8:13)
 ヨハネにはそういったことが念頭にあったのでしょう。
 ですから、イエスさまの「わたしが自分自身について証しをするなら……」と、こんなことばで、メッセージ後半を切り出しました。


2、聖書はイエスさまを

 ヨハネはユダヤ人が良く知っている最高の証人を立てました。
 「あなたがたは(バプテスマの)ヨハネのところに人をやりましたが、彼は真理について証言しました」(33)

 「彼は真理について証言した」とある。
 真理が何を指しているのかは、一律ではないので、これだと簡単に言うことはできませんが、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(14:6)とあるように、福音書記者ヨハネは、しばしばイエスさまご自身を指すものとして「真理」というこのことばを用いています。この「真理について証言した」というのもそうなのでしょう。
 それはバプテスマ・ヨハネの証言です。
 きっと、福音書記者ヨハネは、読者たちに、バプテスマ・ヨハネの証言(1:19-)を想起させようとしているのでしょう。メシアが登場して来るための道備えのために、神さまから遣わされたバプテスマのヨハネは、イエスさまを、「見よ。世の罪を取り除く神の小羊」(1:29)、「神の子」(1:34)と証言しました。しかし、彼はイエスさまを指し示したのに、ほんの数名の彼の弟子たちを除いて、その証言を聞き入れた者はいません。イエスさまも言われます。
 「わたしは人間による証しは受けない。しかし、あなたがたが救われるために、これらのことを言っておく」(34・新共同訳)と。たとえバプテスマのヨハネといえども、イエスさまの証人としては十分ではないのです。

 そこでヨハネは、バプテスマ・ヨハネの証言をはるかに上回る証言者を、イエスさまソリロギアの中に巧みに織り込みました。
 「わたしについて証言する方がほかにもあるのです。その方がわたしについて証言される証言が真実であることは、わたしが知っています」(32)と。
 「わたしが知っている」というのは、聞き方によってはずいぶんと傲慢な物言いですが、「人間による証しは受けない」ということと一致して、イエスさまのことを証言できるのは、第一にイエスさまご自身なのだと、これがヨハネの一貫した主張なのです。そのことは、「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです」(39)という中にも現われています。
 この「聖書」は、旧約聖書を指していると思われていますが、恐らく、ヨハネがこの福音書を執筆している一世紀末、すでに出回っていたマタイやルカなどの文書やパウロの書簡など、今の新約聖書にある多くの文書が諸教会で読まれていましたから、それらの文書をも含めて「聖書」と言っている。もちろん、旧約聖書は、律法学者たちのように調べ上げることで永遠のいのちに辿り着くようなものではなく、そこには神さまの救済計画、つまり、イエスさまのことが証言されているのです。そして、特に新約聖書はイエスさまの教えに基づいて書かれたものですので、イエスさまご自身の証言と聞かなければなりません。
 いづれにしても、聖書はイエスさまを指し示しているわけです。


3、いのちと裁きの主を

 そして、ヨハネはもう一つの決定的な証言を掲げました。
 「しかし、わたしにはヨハネの証言よりもすぐれた証言があります。父がわたしに成し遂げさせようとしてお与えになったわざ、すなわちわたしが行なっているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わしたことを証言しているのです。また、わたしを遣わした父ご自身がわたしについて証言しておられます。あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたこともなく、御姿を見たこともありません。また、そのみことばをあなたがたのうちにとどめてもいません。父が遣わした者をあなたがたが信じないからです」(36-38)

 バプテスマ・ヨハネは、イエスさまにバプテスマを授けた時、御霊が鳩のように天から下って、イエスさまの上に留まるのを見ました。そして天からの声を聞いたのです。
 「聖霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのをあなたに見えたなら、その方こそ聖霊によってバプテスマを授ける方である」(1:33)と。
 マタイとルカの並行記事は、そのとき、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」(ルカ3:22)という天からの声があったことを明らかにしています。父なる神さまがイエスさまを「わが愛し子」であると宣言され、そのご人格とみわざとを承認なさったのです。
 イエスさまについて証言することの出来るもうお一方(ひとかた)は、父なる神さまである、とヨハネは、そのことをイエスさまのソリロギアに織り込みました。そのことは、先に上げた「わたしについて証言する方がほかにもある」(32)という中にも語られています。

 遣わされた方について証言することが出来るのは、遣わされた方と遣わした方と、そのお二方に限られるのではないでしょうか。そうしますと、自己証言を偽りとするのは、欺瞞に満ちた世界に生きる人間の言い分であって、真実なお方に当てはまらないのは明らかなのです。

 福音書記者ヨハネは、当時の諸国で習慣化されていた法規定のことも承知の上で、イエスさまの証言を正当であるとしました。
 しかし聞く者は聞きますが、聞かない者は頑なに聞かないのです。
 これをヨハネは信仰と不信仰のこととしました。
 ここには「わたしが行なっているわざ」とありますが、恐らく、それはソリロギア前半で語られたいのちと裁きのことを言っている。そのいのちと裁きを前にして、なおも信じない者たちは、神さまを見ようともしませんし、いのちと裁きの主を信じようともしません。イエスさまご自身の証言を認めないのは、ひとえに彼らの不信仰によるのです。
 「いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしない」(40)「あなたがたのうちには愛がない」(42)「あなたがたはわたしを受け入れない」(43)等々と、これらのことばは私たちも聞かなければなりません。ユダヤ人たちは、モーセならば信じると言いました。しかし、モーセは彼らを訴えているのです(45)。モーセの律法に、ラビたちの細かな規定を混入させたユダヤ人は、その律法によって裁かれ、流浪の民となりました。
 そのようなことが現代の私たちに起きないと誰が言えるでしょうか。
 私たち現代人が信じている科学や、そして、頼りになるはずのお金さえも、いろいろな局面ですでに私たちを訴えているのです。もうそろそろ、私たちを取り囲んでいる、そんな現実を受け入れてはいかがでしょうか。
 そして、遣わされた方、救い主イエスさまを信じる者となって、永遠のいのちに招かれたいではありませんか。



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