ヨハネによる福音書・補

Aiming over one step

22
いのちか、さばきか?


<ヨハネ 5:19−30>
19そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。20それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。また、これよりもさらに大きなわざを子に示されます。それは、あなたがたが驚き怪しむためです。21父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。22また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。23それは、すべての者が、父を敬うように子を敬うためです。子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません。24まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。25まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。26それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。27また、父はさばきを行なう権を子に与えられました。子は人の子だからです。28このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。29善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。30わたしは、自分からは何事も行なうことができません。ただ聞く通りにさばくのです。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこころを求めるからです。」

<申命記 30:15−20>
15見よ。私は、確かにきょう、あなたの前にいのちと幸い、死とわざわいを置く。16私が、きょう、あなたに、あなたの神、主を愛し、主の道に歩み、主の命令とおきてと定めとを守るように命じるからである。確かに、あなたは生きて、その数はふえる。あなたの神、主は、あなたが、はいって行って、所有しようとしている地で、あなたを祝福される。17しかし、もし、あなたが心をそむけ、聞き従わず、誘惑されて、ほかの神々を拝み、これに仕えるなら、18きょう、私は、あなたがたに宣言する。あなたがたは、必ず滅びうせる。あなたがたは、あなたが、ヨルダンを渡り、はいって行って、所有しようとしている地で、長く生きることはできない。19私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、20あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ。確かに主はあなたのいのちであり、あなたは主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地で、長く生きて住む。


1、遣わされた方を見つめて

 水が動くとき、最初に池に入ると、病気が癒やされると言い伝えられるベテスダの池で、三十八年間もその順番を逃しながら、待ち続け、不平や不満がいっぱい溜まっていた男を、イエスさまが癒やされたことから、イエスさまとユダヤ人との論争が沸き上がりました。論争の中心は、最初、安息日問題でしたが、イエスさまが神さまを父と呼ばれたことから、猛烈な反発を受けることとなります。そして、ユダヤ人の激しい反発にイエスさまがお答えになる。

 今朝のテキストは、その前半の部分、19〜30節のところです。
 ヨハネは、教会文書の定式であると以前に触れた「アーメン、アーメン、あなたがたに言う」という、一種の休止符でもある、確認と強調の様式を繰り返しながら、この福音書を執筆している。これは、イエスさまのことをどう受け止め、どう信じるのかというヨハネの神学なのです。
 何度も仕切り直しをしなければならないほど難しい。
 何度も立ち止まり、沈思黙考しながら筆を進めているのでしょう。

 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。」(19-20a)

 ここには、神さまの秘儀に関することで、私たちには理解不能のことながら、御父と御子の同一性とともに、あくまでも別人格であると、その両方ともが絶妙なバランスで語られているようです。その通りに、父なるお方とイエスさまは別のご人格でありながら、しかし、唯一の神さまでした。恐らく、ヨハネは、ロゴス賛歌にも出て来た彼の神学のモチーフである、「遣わされた者」をイエスさまの意識の中に見ているのでしょう。
 ちなみに、この問題についての先駆者であり、研究者として今も最高峰と目される古代キリスト教の神学者アウグスティヌス(354ー430年)は、御父と御子の同等性と同一性とは、人間の語り得る範囲を超えるが、それを神さまの神秘として思考することを止めるならば、神さまと人間との近さ(愛・フィレオー)を失いかねないと警告しています。確かに、理解不能と思われるほどの難問ですが、先人のそのことばを心して聞かなければなりません。

 これは、ご自分を神さまに等しい者とされたことを咎めた、ユダヤ人への回答でした。

 彼らが拘ったのは、神さまが唯一のお方であるということです。
 当時、世界の諸宗教の中で、唯一神を誇るのはユダヤ教だけでしたから、ローマ、ギリシャ世界に生きるディアスポラのユダヤ人たちは、そのことをよくよく承知していて、ですから、ユダヤ人たちは石や木で彫られた偶像ではない唯一の神さまを、そして、その神さまから選ばれた民であるイスラエルを、その末裔の自分たちを誇っていました。彼らは、神さまを誇っているつもりが、その実、神さまの権威を笠に着て自分たちを誇ってしまったのです。
 そのお方の前で培わなければならなかった生き方を、彼らは取り違えてしまいました。それは、先の安息日問題の論争に如実に表われています。彼らは、安息日に床を移動させることは律法違反であると断じましたが、イエスさまは、細かな律法を策定して人を縛る、彼らの生き方に異を唱えたのです。


2、わが主、わが神よと

 彼らは、本当は、イエスさまが安息日に病人を癒やしたことを咎めたかったのでしょう。共観福音書ではそうなっている。
 ところが、イエスさまは、「これよりもさらに大きなわざを(父が)お示しになる」(20b)と言われます。そのことで、論争点は、彼らが望んだ安息日問題を超えてしまいました。
 その「大きなわざ」は、細かな律法違反を咎める彼らの生き様からは、想像もつかない神さまの壮大なご計画だったのです。

 「それは、あなたがたが驚き怪しむためだ」(20c)とあります。イエスさまはそのご計画のために遣わされて来ました。「父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました」(21-22)と言われます。神さまの壮大なご計画とは、地の上をごそごそと這いずりまわるだけの者たちに、「いのち」か「さばき」かを定めることでした。それが、遣わされた者、イエスさまの務めであり、このところの中心主題であると、ヨハネは、何度も何度も「アーメン、アーメン……」と仕切り直しをしながら見続けたことだったのです。

 ユダヤ人たちが、神さまは唯一のお方であると、アブラハム以来ずっとたたき込まれて来たユダヤ教神学を、キリスト者たちが反故にしているわけではありません。しかし、同一にして別ご人格である父と子と、そんな、唯一の神さまの秘儀を、どうして地の上を這いずりまわっている者たちに想像することが出来るでしょうか。ただ、イエスさまを見つめることなしに、神さまを思うことは出来ないのです。「すべての者が、父を敬うように子を敬うためです。子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません」(23)と言われたのはそのことを指している。神さまの前に膝をかがめ、拝するように、私たちは、イエスさまの前で、「わが主、わが神」と告白し、その救いの恩恵に感謝と喜びの双手を差し出すことしか出来ません。
 しばしば、「唯一神」という宗教観を持つユダヤ教とイスラム教とキリスト教のうち、純粋な一神教はユダヤ教とイスラム教であって、キリスト教は、プラスαのようにイエス・キリストを崇拝対象に加えていると言われ、キリスト者たちにも、イエスさまの位置関係がはっきりしていないところがありました。訳の分からないある人たちは、イエスさまをキリスト教の教祖とさえ考えています。

 しかし、イエスさまは、断じて神さまの刺身のつまでないと明確にして頂きたいのです。
 繰り返しましょう。
 父君と御子は、同一にして別ご人格という神さまの秘儀なのです。
 神さまご自身であるイエスさまの前で、「わが主、わが神」と膝をかがめ、その恩恵に感謝する。そのときに、一神教信徒であることを誇るのではない、イエスさまに見出された光栄を、心から喜ぶ者となることが出来るのではないでしょうか。


3、いのちか、さばきか?

 「まことに、まことに、あなたがたに告げます」
 「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです」(24)
 イエスさまの、もはやソリロギアと言っていい、ヨハネが渾身の力を込めて再現しているメッセージですが、「いのちとさばき」という本題に入って来ました。

 「アーメン、アーメン……」と一息入れて、ヨハネは続けます。
 「死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです」(25-26)

 第一番目に聞くべきはいのちのことです。
 「聞く者は生きる」と言われました。
 死人が聞くとありますが、これは死んだに等しい者、罪のために神さまから遠く離れた者という意味です。ある註解者が、「子の言葉に出会う者は、神自身に出会うのである」と言いましたが、少しだけ訂正しましょう。「言葉」とある部分は不要なのです。なぜなら、イエスさまはロゴス、ことばそのものというヨハネのテーゼが前提になっているからです。それゆえ、ヨハネは今まで「子」とだけ言って来たのに、ここでは、わざわざ「神の子の声を……」とした。ある写本は「人の子」と言い換えていますが、間違いなく、ヨハネは慎重にロゴス賛歌(一章)における信仰告白をここにも投入していると聞かなければなりません。
 そこには、「この方にいのちがあった」(1:4)とありました。
 「聞く者は生きる」と、ロゴスなるお方は、ご自分と出会った者たちに、ご自身の内にあるいのちを注がれたのです。ヨハネの胸中には、イエスさまの十字架の出来事があったとのだと、もうお分かりでしょう。イエスさまが発する「声」は、死んだに等しい者をいのちに引き上げる十字架の贖いなのです。

 今朝のテキストで聞きたいことが、もう一つ残っています。
 「また、父はさばきを行なう権を子に与えられました。子は人の子だからです。このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです」(27-29)

 イエスさまが父君から委託された「さばき」のことです。
 「善を行なう」「悪を行なう」とヨハネは、いのちとさばきに選別する判断を、あたかも世の常識的現世的な価値観を取り入れているようですが、きっと、ギリシャ世界にいて、そんな価値観を持つ者たちを念頭に置いているのでしょう。
 そんな者たちにとって、彼らの善悪の判断を覆す出来事が進行していました。
 キリスト教徒たちへの迫害と彼らの殉教という出来事です。
 その激しい迫害の中で、従容として殉教して行く者たちを見ながら、「彼らは罪人なんかではない。良い者たちである」と、迫害最中の迫害者たち自身が密かに驚嘆していたことを、エウセビオスの教会史は明らかにしています。
 ヨハネはそんな密やかな評判を受けて、善を行なう者とはこんな者たちのことなのだと、こんな言い方をしたのであろうと思われます。良い者とは、イエスさまを信じた者たちに他なりません。さばきが「墓の中にいる者が……」と言われるのは、イエスさまが終末の主であることによります。その時にそんなことが起こる。

 私たちのこの時代が、そろそろその終末に差し掛かっているのではと思われる現代に、神さまご自身である主から「いのちとさばきと、どちらを望むか」と問われていると、これはヨハネからの問いかけなのでしょう。さばきに定められる者が圧倒的に多い中で、「いのちを!」「主にあるいのちを!」と答えたいではありませんか。



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