ヨハネによる福音書・補

Aiming over one step

20
限りなき愛を


<ヨハネ 5:1−9a>
1その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。2さて、エルサレムには、羊の門の近くにヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。3その中に大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていた。(彼らは水の動くのを待っていたのである。4それは、時々、主の御使いがこの池に降りてきて水を動かすことがあるが、水が動いた時まっ先にはいる者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。=口語訳)5そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。6イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」7病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中にいれてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」8イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」9aすると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。

<申命記 10:12−19>
12イスラエルよ。今、あなたの神、主が、あなたに求めておられることは何か。それは、ただ、あなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、主に仕え、13あなたのしあわせのために、私が、きょう、あなたに命じる主の命令と主のおきてとを守ることである。14見よ。天ともろもろの天の天、地とそこにあるすべてものは、あなたの神、主のものである。15主は、ただあなたの先祖たちを恋い慕って、彼らを愛された。そのため彼らの後の子孫、あなたがたを、すべての国々の民のうちから選ばれた。今日あるとおりである。16あなたがたは、心の包皮を切り捨てなさい。もううなじのこわい者であってはならない。17あなたがたの神、主は、神の神、主の主、偉大で、力あり、怖ろしい神、かたよって愛することなく、わいろを取らず、18みなしごや、やもめのためにさばきを行ない、在留異国人を愛してこれに食物と着物を与えられる。19あなたがたは在留異国人を愛しなさい。あなたがたもエジプトの国で在留異国人であったからである。


1、ベテスダの池で

 「その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。さて、エルサレムには、羊の門の近くにヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた」(1-2)

 この箇所には異読の写本が多く、新改訳の脚注にはいろいろと書かれています。「ユダヤ人の祭」というのは、時期や重要度にも触れていない何らかの祭ですし、ベテスダというのも、写本によってはベトザタ(新共同訳)という別の読み方があったり、門という言葉が欠けていたりと、いろいろな問題もありそうです。しかし、ベテスダは「一対の噴水するところの家」という意味ですから、一応、テキストには新改訳の本文がふさわしいかなと思います。

 城壁で囲まれたエルサレム旧市街から、オリーブ山に上って行くエリコ街道へ直近の、北東の出口付近に、今では城壁内になっているのですが、フランスが所有権を取得した聖アンナ教会という建物があって、その近くに、失われた羊門と、その奥のほうに、1880年、隣合わせたところが回廊で仕切られ、一対となった二つの池が発掘されました。その壁には、天使が水をかき混ぜている絵や、天使に願掛けをしている文章が描かれていたことから、これがベテスダの池であろうとされています。その周囲は五つの回廊もいれて116×87bと非常に大きなものでした。ここは古くから病人の癒やしに効くと言い伝えられていたようです。


 その池で一人の男がイエスさまに癒やされる記事、これが今朝のテキストです。
 「その中に大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていた。(彼らは水の動くのを待っていたのである。それは、時々、主の御使いがこの池に降りてきて水を動かすことがあるが、水が動いた時まっ先にはいる者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。=口語訳)そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた」(3-5)
 括弧に入れたところは新改訳にはなく、口語訳から挿入したものですが、これは、もともとギリシャ語原典にはなく、比較的新しい写本だけに保存されていましたから、古くから言い伝えられていた民間信仰・迷信のたぐいを、後世の人が書き加えたのでしょう。

 三十八年もの間病気にかかっていた人は、何の病気か分かりませんが、床に伏せったままで、歩くにも不自由でした。その人が迷信を信じ、長い間、この池で癒やされたいと願って、恐らく、毎日のようにこの池に来ていました。誰かに連れて来てもらっていたものと思われます。「水が動く」というのは、この池が、ときどき大量の水が噴き出す間欠泉のような泉だったのかも知れません。この池にまつわる古くからの言い伝えは、水が動くときに、最初に水に入った者の病気が治るというものでしたから、誰もが我先に池に入ろうと待ち構えていました。ところが彼は、足が不自由だったためか、水が動くときに、いつも人よりも遅れてしまうのです。
 もしかしたら、病気が治るという迷信そのものを、もう信じることができなくなっていたのかも知れません。
 イエスさまと彼の会話があります。
 「よくなりたいか」「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中にいれてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです」(6-7)


2、よくなりたいのか?

 この会話には、とても奇妙なと思われるところがある。考えてみましょう。

 彼は、イエスさまの質問に、「主よ」と呼び掛けながらも、正面から向き合って答えようとしてはいません。「主よ」という言い方は、必ずしも神的お方を指すとは限りませんが、少なくとも尊称であって、彼はイエスさまをラビ以上のお方と認めていました。それなのに、その問いに答えようとはしていない。そればかりか、池に入れない理由を他の人に転嫁している。もし、彼の足が全く動かなくて池に入れないとしたら、そこに毎日連れて来てくれた介添人がいただろうと想像するのですが、その介添人も彼を見限ったのか、助けようとはしていません。恐らくそれは、彼自身の意欲に問題があったからと思われるのですが。
 彼は、真っ先に池に入ろうとしていません。「行きかけると」とありますから、多少は歩くことが出来て、入ろうとはしていたのでしょう。そうしますと、何回でも真っ先に入る機会を自分で工夫することが出来たはずです。が、彼はそうはしなかった。
 つまり、真っ先に池に飛び込むのだという意志が感じられません。
 迷信を信じていなかったのかも知れませんが、それにしては、ぐずぐずと未練がましく毎日のようにここに通って来ている。直りたいという思いよりも、諦めのほうが強いのに、どこかでそんな不幸に陥った自分を憐れんでいるのではと感じます。
 直っても仕方がないと、人生であるとか、生きるということを、もう投げ出していたと思われても仕方のない、そんな彼の立ち方であったと言えるのではないでしょうか。そんな無気力ばかりか、病気にかかったことも、彼は、他人のせいだと転嫁しているのかも知れませんが、きっと、ヨハネの時代にも、そんな人たちがたくさんいたのではと思われます。そして、現代にもそんな人たちが実に多い。彼は、生きる気力を失い、人にも社会にも何も期待せず、不満と精一杯の反抗心が内面に充満していたのではないでしょうか。

 そんな人たちにヨハネは問いかけたかった。
 「あなたは、本当によくなりたいのか」と。
 昭和二十年代のころを描いたテレビドラマを見ていて、戦後の混乱期、人々は生きることに必死で、不平や不満をぶつぶつとつぶやいているゆとりなどなかったと、まだ小学生になったばかりでしたが、そのころのことを思い出しました。ぼろぼろになるまで働いて働いて、とうとう逝ってしまった人たちも、母や姉など身近にたくさんいます。が、だれもが「よくなりたい」と願い、懸命に働けば、「今よりもよくなる」と希望を見つめていたように思います。そういう中で、涙もたくさん流しましたが、神さまの前に、真っ正面を向いて立とうとしていた人たちもたくさんいたなあと思い出すのです。教会には人が溢れていました。

 ところが、社会が安定し、生活にもゆとりが出てくると、反対に、不平や不満が溢れて、巷に犯罪が充満し始める。この男のように、自分の不幸を他の人に転嫁するようになってなって来たのです。この物語がそんな現代と同じだとは言いませんが、昔も今も、人の心はさほど変わっていないのではないでしょうか。


3、限りなき愛を

 イエスさまは彼に言われました。
 「起きて、床を取り上げて歩きなさい」(8)
 このイエスさまのご命令は、直ることも、そして、ある意味生きることさえも放棄していた男に、決定的な変化をもたらしました。

 「すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した」(9)とある。

 あまりにも唐突で、ヨハネの記事は極めて簡潔ですので、余計な詮索をするのはどうかと思いますが、少しだけ想像してみたい。
 イエスさまは、この男の内面に沈殿しているものを見通されたのでしょう。
 人を創造された先在のロゴスとして、人間というものをよくご存じの方です。そして何よりも、天上から父君に遣わされて地上に来られたお方でした。それは、父なる神さまの人間救済計画を遂行するためでしたから、人間の心に巣くう不平や不満、あるいは無気力、諦め、挙げ句の果てには、神さまへの反抗心といった「罪」までも含めて、その全人格を新しい神さまのいのちの息で満たさなければならないとの思いに溢れていたことでしょう。
 イエスさまが、癒やされた男に、「あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません」(14)と言わたのは、そんな無気力になった者たちへの憐れみではなかったでしょうか。
 ご自分が造られた者たちへの愛に溢れていたと言ってもいい。

 その愛のゆえに、イエスさまは十字架におかかりになるまで、地上でのお働きを全うされたのです。「起きて、床を取り上げて歩け」ということばには、そんなイエスさまの思いがぎっしり詰まっていると感じられるではありませんか。
 この記事は、二章以下に主題となった、「しるし」を求める人たちとの間に繰り返されて来た葛藤の続きのように、もう一つの新しい「しるし」を加えようと、奇跡の人として「起きよ。歩け」と言われたわけではありません。これはそんな売名行為ではなかったから、イエスさまは、この男がまだ呆然と立ちすくんでいるうちに、そこを去って行きました。

 彼は命じられた通りに「床を取り上げて歩き出し」ました。
 「すぐに直って」とある。
 それは、不平不満で一杯だったこの男に、新しいいのちを吹き込むものでした。
 ヨハネがこれ以上余分な説明はいらないと思ったのも、彼自身がその情景を目撃していた証人だったからなのでしょう。他のことばを混えず、その目撃証言だけをこのように短く記録したのは、イエスさまのご命令と、彼の身に起こったことに、圧倒されたからではと想像するのです。そして、ヨハネがここに込めた思い、これを読む人たちが(もちろん現代の私たちをも含めて)、彼が圧倒された救い主の御業の前に、きみたちもひれ伏して主をほめたたえようではないかと語りかけている、と聞きたいではありませんか。

 イエスさまは私たちのために十字架におかかりになり、よみがえって、天の住まいに戻られ、今も私たちのために住まいを用意なさっておられるのですから。

 あわれみの主は、今も、心萎えた者たちに、限りない愛を注いでくださっているのです。
 そのお方を信じて歩む者となりたい。それで十分ではないか、それ以上、何が不足だというのか、とヨハネは、現代の私たちに問いかけているのではないでしょうか。



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