ヨハネによる福音書・補

Aiming over one step

16
信仰と賛美とを


<ヨハネ 4:16−26>
16イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」17女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫はないというのは、もっともです。18あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。」19女は言った。「主よ。あなたは預言者だと思います。20私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」21イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。22救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。23しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。24神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」25女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシアの来られることを知っています。その方が来られるときは、いっさいのことを知らせてくださるでしょう。」26イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」

<申命記 18:14−22>
14あなたが占領しようとしているこれらの異邦の民は、卜者や占い師に聞き従ってきたのは確かである。しかし、あなたには、あなたの神、主は、そうすることを許されない。15あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。16これはあなたが、ホレブであの集まりの日に、あなたの神、主に求めたそのことによるものである。あなたは、「私の神、主の声を二度と聞きたくありません。またこの大きな火をもう見たくありません。私は死にたくありません。」と言った。17それで主は私に言われた。「彼らの言ったことはもっともだ。18わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのようなひとりの預言者を起こそう。わたしは彼の口にわたしのことばを授けよう。彼は、わたしが命じることをみな、彼らに告げる。19わたしの名によって彼が告げるわたしのことばに聞き従わない者があれば、わたしが彼に責任を問う。20ただし、わたしが告げよと命じていないことを、不遜にもわたしの名によって告げたり、あるいは、ほかの神々の名によって告げたりする預言者があるなら、その預言者は死ななければならない。」21あなたが心の中で、「私たちは、主が言われたのでないことばを、どうして見分けることができようか。」と言うような場合は、22預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼を恐れてはならない。


1、村八分にされて

 先週、一人のサマリヤ人女性が、ヤコブの井戸のところで、イエスさまと問答をし、「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出る」(14)と言われたことを受けて、「その水を私にください」(15)とお願いしたところまで見ました。
 彼女の中に、まだかすかでぼんやりとであって、「神さまへの」かどうかはまだ不明であったとしても、淡い信仰が芽生えて来たのでしょう。

 彼女が拘ったヤコブの井戸は、旧約聖書にはどこにも出て来ないのですが、四世紀頃のキリスト教巡礼者の記録にそのことが出ているそうです。現在、サマリヤのギリシャ正教聖ヨセフ教会内に組み込まれている井戸があって、それがヤコブの井戸であると言われている。本当かどうかは分かりませんし、さほど重んじられていたとも思われませんが、サマリヤには聖なる井戸と伝えられていたところは確かにあったのでしょう。少なくともこのサマリヤの女のうちには、イエスさまと話しているうちに、自分もその伝承の中で生きる聖なる民であると誇りたい、そんな思いが溢れて来たようです。彼女に淡い信仰が芽生えて来たというのはその意味においてです。

 しかし、彼女には問題がありました。
 それは、彼女が誇りたいと願っているのに、最も認めてほしいスカルの町の人たちが彼女を受け入れてくれないということなのです。町の人たちに受け入れてほしいし、サマリヤ教団という聖なる民の一員に迎え入れてほしい。これが彼女の一番の願いでした。

 イエスさまは、そんな彼女がなぜ受け入れられないのか、その問題の根っ子の部分にメスをいれました。今朝のテキストはそのところから始まります。

 イエスさまが言われました。
 「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」「私には夫はありません」「私は夫はないというのは、もっともです。あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことは本当です」(16-18)
 この箇所を、イエスさまの超能力と解する人たちがいますが、この会話はおおまかなものであって、省略された部分もあると思われますので、彼女と話しているうちにイエスさまが鋭く洞察したのであろうと考えたほうがいいでしょう。現代流に言えば、一種のカウンセリングであって、コールド・リーディングというところでしょうか。
 彼女は結婚しないまま、幾人もの男たちと同棲を繰り返していました。
 娼婦とは言えないまでも、当時、いづれの古代社会もそうであったように、宗教が社会を規制しているサマリヤの宗教共同体という中では、決して受け入れられない彼女の身持ちの悪さが浮かび上がって来ます。そのことを解消せずに、彼女の解決はありません。それなのに、彼女は指摘された自分の問題から目をそらし、問題をすり替えてしまうのです。
 彼女に芽生えたはずの淡い信仰の思いは、どこに行ってしまったのでしょうか。それとも、信仰と思ったことが違っていたのでしょうか。


2、彼女の信仰は

 彼女は指摘された自分の傷口には触れないで、全く違うことを言いました。
 見方によっては、平気で自分に都合の悪い話題を無視してしまうなど、「したたかな」と思われても仕方ない女ではありました。きっと、何年も何年も人々から冷たい目で見られて来たことが、そんな彼女を造り上げてしまったのでしょう。共同体の核になる部分を宗教が握っているなど、現代社会では受け入れ難いことですが、道徳教育などと力まなくても、そんな宗教共同体の中では、案外と、自然にバランスのとれた人格形成が出来るのかも知れません。
 しかし、彼女にはそれがありませんでした。
 ともあれ、彼女は思っていたことをイエスさまにぶつけます。
 はすっぱな彼女にも、その内面にはいろいろな疑問が渦巻いている。
 「主よ。あなたは預言者だと思います。私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます」(19-20)
 イエスさまの指摘には答えませんでしたが、ある意味、否定しなかったことが彼女の答えになっているのかも知れません。

 彼女が受け入れて欲しいと願うサマリヤ教団は、ユダヤ教と同じくイスラエルの祭儀宗教におけるヤハウェ信仰を母体に、北イスラエル王国滅亡後に生まれた啓示宗教教団ですが、旧約聖書中、モーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)だけを聖典と信じている教団です。イザヤとかエレミヤなどの預言書は受け入れていない。つまりユダヤ人が信じている預言者たちを、彼らは認めていないのです。
 それなのに彼女はイエスさまを「預言者」ではないかと言いました。
 サマリヤ人たちが聖典とするモーセ五書の最後、申命記にこういうところがある。
 「わたし(神さま)は彼ら(イスラエル)の同胞のうちから、彼らのためにあなた(モーセ)のようなひとりの預言者を起こそう。わたしは彼の口にわたしのことばを授けよう。彼はわたしが命じることをみな、彼らに告げる」(18:18)

 彼女がイエスさまを「預言者」と呼んだのは、サマリヤ教団という枠組みの中でのことなのです。そのサマリヤ教団という宗教がいかなるものであったとしても、それは彼女にとって問題ではありません。
 芽生えたかに見えるかすかな信仰が、ほんの少しですが膨らんでいるようです。
 彼女はこう言いました。「私は、キリストと呼ばれるメシアの来られることを知っています。その方が来られるときは、いっさいのことを知らせてくださるでしょう」(25) この「いっさいのことを知らせてくれる」というのが、申命記18章18節の最後のことばと同じであると言い添えるまでもないでしょう。彼女はキリストとかメシアと言いましたが、サマリヤ人が期待しつつ待ち続けていた預言者は、あくまでもモーセのような預言者なのです。
 その預言者は、ゲジリム山で礼拝するのが正しいのか、エルサレムで礼拝するのが正しいのかを判定してくれると期待しているだけでした。

 しかし、今、イエスさまとこのサマリヤの女とが話しているヤコブの井戸のところから、すぐ近くに、彼女が復帰したいと願ってやまなかったサマリヤ人の聖所であるゲジリム山が(山頂にあった神殿は百年以上も前に破壊)見えています。
 これ以上はないというほどの絶好の場所で、今話しているこのお方が来たるべき預言者かも知れないと、そんな場面です。
 彼女はもう自分が抱えていた問題などはすっかり忘れてしまっている。もうサマリヤ社会から阻害されていることなどそっちのけで、一人のサマリヤ教団信者として、預言者と思われるイエスさまに聞こうと耳を傾けました。


3、信仰と賛美とを

 そんな彼女の質問に、イエスさまは正面から向き合います。
 「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています」(21-22)

 このイエスさまのお答えには、いくつかの重要なことが含まれています。
 第一に、真の礼拝は、「父」を礼拝するものであることです。彼女はそのことをうっかりと聞き漏らしてしまったようですが、神さまのことを父と呼ばれたお方が、今、彼女の目の前にいらっしゃるのです。そのお方がこんなにまでねんごろに話しかけているではないか!「わたしの言うことを信じなさい」というのは、その意味で言われていると、私たちも聞かなければなりません。第二にこの礼拝は、ユダヤ人のエルサレム神殿、サマリヤ人のゲジリム山神殿、どちらも純粋に神さまを礼拝するというよりも、民族的および政治的な意味合いから生まれて来たという経緯を持っています。それが争いの原因になっていました。そして、歴史上では、キリスト教絡みの戦争もたくさんありました。その多くが元祖とか正統の争いであったことは悲しいことです。宗教が争いの根本原因なのです。第三に、「わたしたちは知って礼拝しているが、あなたがたは知らないで礼拝している」とある点ですが、「わたしたち」とあるのはユダヤ人のことですから、その意味は、「父なる神さま」に近いのは、モーセ五書しか持たないサマリヤ人ではなく、旧約聖書三十九巻を読んでいるユダヤ人のほうであるということなのでしょう。しかし、彼らはエルサレム神殿に拘っているのですから、サマリヤ人に比べるとという程度でしかありません。もともとエルサレム神殿はダビデ王の個人的聖所でしかないのです。
 それならば、旧約聖書だけでなく、イエスさまをキリストであると証言してやまない新約聖書二十七巻までも「神さまのことばである」として持っている私たちは、尚更のこと、拝すべきお方のことをもっともっと覚え、そのお方の前にひれ伏したいではありませんか。


 イエスさまのお話、後半です。こうあります。
 「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません」(23-24)
 エルサレムもゲジリム山も、神殿の本領は祭儀儀礼でした。礼拝とは神殿内で繰り広げられる種々の祭儀儀礼なのです。ゲジリム山神殿のことは分かりませんが、エルサレム神殿の祭壇には、ヤハウェばかりでなく、バアルやイシュタルなど神々の名がその角(ツノ)に刻まれていたと、エレミヤ書で見た通りです。祭儀の中心は宗教様式なのです。
 そして、その祭儀宗教は、当時のギリシャ世界ばかりか、古代バビロンの都市神マルドゥク以来、現代まで、人間社会を支配して来ました。

 しかし、私たちが崇むべきは、エルサレムやゲジリム山の神殿でもなく、そこに祀られる祭壇でもない。まして祭儀儀礼そのものでもありません。また、キリスト教という宗教でもない。ある意味、礼拝場所としての教会でもないのです。
 私たちが崇めるべきお方は、私たちを創造し、御子をお遣わしになってまで恵みを与えてくださるお方、神さまなのです。何よりもそのお方に向かって、私たちのいのち(=息=霊)と感謝とをもって、その御前にひれ伏さなければなりません。
 そして、「わたしがそれです」(26)と言われた私たちの救い主に、それはヨハネの信仰告白であると聞かなければなりませんが、その救い主に、心からの信仰と賛美とまことを献げたいではありませんか。



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