ヨハネによる福音書・補

Aiming over one step

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愛のゆえに


<ヨハネ 3:31−36>
31上から来る方は、すべてのものの上におられ、地から出る者は地に属し、地のことばを話す。天から来る方は、すべての上におられる。32この方は見たこと、また聞いたことをあかしされるが、だれもそのあかしを受け入れない。33そのあかしを受け入れた者は、神は真実であるということに確証の印を押したのである。34神がお遣わしになった方は、神のことばを話される。神が御霊を無限に与えられるからである。35父は御子を愛しておられ、万物を御子の手にお渡しになった。36御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。

<エレミヤ 31:3−6>
3主は遠くから、私に現われた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。4おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び笑う者たちの踊りの輪に出て行こう。5再びあなたはサマリヤの山々に、ぶどう畑を作り、植える者たちは植えて、その実を食べることができる。6エフライムの山では見張る者たちが、『さあ、シオンに上って、私たちの神、主のもとに行こう。』と呼ばわるからだ。」


1、地に来られたお方

 22〜30節は、バプテスマ・ヨハネの弟子たちの証言をもとにした、挿入句であると指摘しました。その挿入句を挟んで、今朝のテキスト31〜36節は、16〜21節で語られたイエスさまのソリロギアの続きが、福音書記者ヨハネの長い年月をかけて練り上げられた信仰告白・ヨハネ神学として語られます。なぜ22〜30節という挿入句を挟んだのかと言いますと、それもまた燦然と輝く信仰告白だったからです。バプテスマ・ヨハネと福音書記者ヨハネと、その二人のヨハネの「彼は栄える」というイエスさまの卓越性が、今朝のテキストでさらに語られます。

 「上から来る方は、すべてのものの上におられ、地から出る者は地に属し、地のことばを(地に属する者として=新共同訳)話す。天から来る方は、すべての上におられる」(31)
 ちょっと読んだだけでは何のことか分からない。哲学的と言うか、抽象的と言うか、ここばかりではなく難解な言い方が続きます。少々こみ入った説明になるかも知れませんが、どうか忍耐して聞いて頂きたい。ヨハネは、しばしばこのような難解な言い方をしていますが、それはエペソというギリシャ圏にいるためと思われます。確かに、ギリシャ人の思考はこれくらいの理論にはびくともしなかったのでしょう。驚きです。
 ここから出て来る「ヨハネ」は福音書記者ヨハネを指しています。

 「来たる者」というのは、ユダヤの伝統的な言い方で、メシアを指しています。
 ヨハネは、そのメシアを「天から」と言って、神さまに由来し、徹底的に神さまの側に属する方であると宣言しているのですが、これは、イエスさまが神さまご自身であるという彼の証言と聞いて頂きたい。それが彼の信仰告白であり、彼の基本となる神学なのでしょう。一章のロゴス賛歌(序文)で語られた「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。……すべてのものは、この方によって造られた」という先在=永遠のロゴスがここにも顔を出している。ですから、「すべての(万物の)上におられる」と繰り返しました。
 と同時に、ヨハネは地に属する私たちのことをもここに織り込みます。イエスさまは、「地から出る者は地に属し、地のことばを話す」私たちとは、全く違う次元におられる方なのだと、ヨハネのメッセージはそのように聞かなければなりません。

 「天と地」と、これは「光と闇」と同じくヨハネ独特の二元論です。光が闇と交わらなかったように、天と地は重ならず、闇が光を知らなかったように、地もまた天のことを理解出来ないのです。「知らない」「分からない」「理解できない」というヨハネのモチーフ、そんな彼の人間理解が「地のことばを話す」となったのでしょう。人は「地のことばしか話せない」のです。
 しかし、そんな地に、先在のロゴスが天から下って来られました。
 人の子として地上を歩まれた神・イエスさまは、天と地、光と闇のことを身をもって知っておられる唯一のお方として、その「聖と俗」の壁を取り払われるために苦闘されるのです。
 十字架に死なれたとき、神殿の至聖所を隔てる幕が真っ二つに裂けたことをご存じでしょう。これがこのところで語られるイエスさまなのです。


2、主のあかしを

 「聖と俗」と言いました。聖は神さまに、俗は人間に属するという意味です。
 天で見聞きした聖なることを、イエスさまは、「この方は見たこと、また聞いたことをあかしされる」(32)とあるように、俗の世界で証言されました。
 では、その「見聞きしたこと」とは何を指しているのでしょうか。
 先在のロゴスが見聞きした神さまのことなのでしょうが、人間が知り得ない神さまのことを、ギリシャ神話のように、人間の言葉に置き換えて語ったとしても、そのことに意味があるとは思えません。私たち人間にとって意味あることが語られたと聞くのが妥当でしょう。

 しかし、「だれもそのあかしを受け入れなかった」(32)とあります。
 ここには「分からない」「理解しない」も含まれるのかも知れませんが、むしろ、聞いたのに受け入れないのです。イエスさまが、神さまの世界でのことを、私たちに伝えたのは、ご自分に関することではなかったかと思う。そのことをイエスさまは、ことばで説明されたというだけではなく、ご自分の全ご人格をもって伝えられた。それを私たちは自分の目と耳で確かめ、理解し、だが、信じなかったのだと、ヨハネは告発しているのではないでしょうか。全く「分からなかった」わけではない。自分が聞きたいようには理解しました。けれども、信じなかったのです。それが人間でした。「御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる」(36)と言われるのはその告発ではなかったかと思うのですが。

 今、イエスさまの二つのことに触れました。
 「ことばで説明された」と「全ご人格をもって伝えた」という「あかし」(32)のことです。
 この、「ことばで説明された」というのは、イエスさま三年間の公生涯、もう一つの「全ご人格をもって」というのは、イエスさまの中心的出来事である十字架とよみがえりに適合しているのかも知れませんが、しかし、イエスさまの公生涯は、その中心に向かう歩みなのですから、いづれにしても、先在のロゴスが天において見聞きしたことは、神さまの私たちに対する救済計画ではあったのでしょう。いや、もう一歩踏み込んでみますと、イエスさまはロゴス・ことば自身でしたから、「あかし」は、その救済計画を遂行なさるイエスさまご自身、「ことば」そのものをも内包する全ご人格を指し示すと聞かなくてはなりません。

 そのあかしを、受け入れない者が大部分という中で、受け入れる者もいました。ヨハネは、「そのあかしを受け入れた者は、神は真実であるということに確証の印を押したのである」(33)と言います。「確証の印」は法律用語であって、あかしを受け入れた者は、その全人格をもって、私はイエスさまのものであるという書類に印を押して、神さまに差し出し、神さまがその書類を受け取ったと認証されたことを意味しています。ヨハネはこれを、教会という神さまの舞台を念頭に置きながら、神さまの真実という書類に印を!と言っているのでしょう。神さまの「真実」は、人の「信仰」ということばに置き換えられるのですから。


3、愛のゆえに

 これまでに何度も、イエスさまは神さまご自身であると言って来ました。
 ですが、その意味は、イエスさまと神さまが同一であるということではありません。むしろ、ヨハネは違いに拘っているようです。なぜなら、イエスさまは、天における父神から遣わされた者として、その救済計画を実現する者の立ち位置に終始しようとしているからです。御父と御子と、その関係はしばしばアウグスティヌスの三位一体論に依拠して理解されて来ましたが、その極めて難解なところに踏み込むまでもなく、イエスさまは神さまご自身でありながら、遣わされた者であるところに留まるのだと、その断固たる意志を聞くだけで十分ではないでしょうか。
 ヨハネは、イエスさまのすぐそばにいた弟子として、そんなイエスさまの決意を感じて来たのでしょう。
 然り!  私たちの主は、神さまご自身でありながら、十字架に死にたもうまでに、私たち人間とともにあることを選ばれたのです。

 ヨハネはその拘りの中でこう証言しました。
 「神がお遣わしになった方は、神のことばを話される。神が御霊を無限に与えられるからである。父は御子を愛しておられ、万物を御子の手にお渡しになった。御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる」(34-36)

 「御子を信じる者は永遠のいのちを持つ」とは、伝道者ヨハネの信仰告白であり、宣言でした。御父が御子に注がれた御霊は私たちにも注がれます。そのときに、「永遠のいのち……」の宣言は私たちに向かっての約束でもあるのでしょう。
 きっと、その、地の上での一切を、御霊がコーディネイトしておられる。
 それが御子に注がれた父君の深いご愛でした。
 この御霊は、父なる神さまが注がれたご自分の霊であると、ヨハネは慎重にことばを選びながら特定しているようです。父なる神さまの霊を注がれて、御子はご自分のお働きに邁進されました。そうしなければならない責任を、御子は自分を遣わしてくださった父君に対して負っていたのでしょうか。いや、責任とか義務とかいうことではなく、イエスさまは、ご自分を愛してくださった父君を愛していたがゆえに、父君が愛された「罪のために滅ぶべき私たち」を愛して、十字架におかかりになったのです。愛のゆえに御父は、「万物を御子の手にお渡しになった」のであり、愛のゆえに御子は、「ご自分を信じる者に永遠のいのちを与え」ました。御父と御子のすべての動機を、そこのところで理解しようではないかと、これは、イエスさまに愛されたヨハネの、愛ゆえの感性でもあったのでしょう。「愛」は、この福音書で、ヨハネが何よりも心を込めて伝えたいと願っているモチーフなのです。
 
 私たちは、御父にも御子にも御霊にも、そしてヨハネにも愛されているのだと聞こえるではありませんか。

 「しかし……」とヨハネは続けます。
 「御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる」と。
 これはヨハネのモチーフである「愛」の裏返しではないでしょうか。
 どんなに愛されてもその愛を受け入れようとはしない。わけても、自己主張の強い現代人にそんな傾向があるようですが、力いっぱいの愛を注がれた御父と御子と御霊、そして、ヨハネの哀しみが伝わって来るではありませんか。そんな怒りや哀しみをも含めながら、私たち、「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した」(エレミヤ31:3)と言われるその愛を覚え、その愛に応えていきたいと願います。



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