ヨハネによる福音書・補

Aiming over one step

11
天上の御国に


<ヨハネ 3:9−15>
9ニコデモは答えて言った。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」10イエスは答えて言った。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。11まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。12あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。13だれも天に上った者はいません。しかし、天から下った者はいます。すなわち人の子です。14モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。15それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」

<民数記 21:4−9>
4彼らはホル山から、エドムの地を迂回して、葦の海の道に旅立った。しかし民は、途中でがまんができなくなり、5民は神とモーセに逆らって言った。「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」6そこで主は民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだ。7民はモーセのところに来て言った。「私たちは主とあなたを非難して罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう、主に祈ってください。」モーセは民のために祈った。8すると、主はモーセに仰せられた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」9モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇がかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。


1、信仰によってのみ主を

 イエスさまとニコデモの会話、その後半です。
 前半だとか後半だとか、この区分の仕方には、1〜12節や1〜10節に区切るなど別の見解もあって一様ではありませんが、一応、1〜8節と9〜15節に区分する伝統的な分け方に従いました。しかし、11節からは文体が新しくなっていますので、会話は10節で終了しているのかなとも思われます。ともあれ、後半、最後の「ニコデモの質問とイエスさまの答え」がある9〜10節から見ていきましょう。

 「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」(9)
 「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。」(10)

 「分からないのか」と言われる。
 それは、前回学んだことですが、「新しく生まれる」とか「御霊によって生まれる」と言われたことが、神さまからいのちの息を吹き込まれて生きる者となったという、創造の原点とも言うべきところを理解していないということでした。それは、「しるし」を見て信じた人たち全員に当てはまります。
 そもそも、奇跡というものは魔術的なものであって、その力は人間にとっては極めて魅力的なものでしょう。自分にはない力だから、その力を行使できる人をすぐにもてはやしてしてしまう(使徒8:9-11)。イエスさまを誘惑したサタンもその魅力を振りかざしました(マタイ4:3-11)。これが信心を産み、宗教へと変わっていった例は数え切れないほど多い。民間信仰とか民俗信仰と呼ばれるもの、そして、現代のカルト宗教と呼ばれる新興宗教は、ほとんどがそんな形態を取っているようです。まして、古代社会のことです。たとえからくりがあったとしても、人々のめに不思議と映ることは、「神々の力」であると歓迎してしまう。
 それは、イスラエルの神殿祭儀に入り込んで来たバアル神やイシュタル女神など異教の神々に端を発していると思われますが、古代世界は、デルフォイ神殿の託宣のように非常にどろどろした祭司の宗教的神秘に支配されているところがありました。もっとも、託宣の世界では、奇跡と言っても、何らかの人的仕掛けがあったようですが。ディアスポラのユダヤ人がそのようなものに毒されていたことは言うまでもありません。

 しかし、イエスさまとイエスさまを信じる人たちの世界は違っていました。
 「アーメン、アーメン、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。」(11)
「わたしたち」「あなたがた」と複数になっているのは、ヨハネ自身をも含めたイエスさまを信じる共同体と、ニコデモに代表されるこの世に毒されたユダヤ人共同体とを対立させているかのようです。ニコデモの名誉のために一言加えるなら、彼を「この世に毒された代表」と言いましたが、ユダヤ人指導者の中でも、彼は極めてまともな常識人、ただ、その時の彼には、ユダヤ人指導者層に共通の「保身」が見られるという意味での「代表」に上げました。ヨハネは、彼を何が何でも悪者に仕立てているわけではありません。ただ、時々顔を覗かせる「二元論」思考で、イエスさまを信じる共同体とこの世を対比させる中で、ニコデモを引っ張り出したわけです。
 それは、現代にまで続くイエスさまとこの世との対決でもあるのでしょう。
 この世は目撃し、経験したことだけを受け入れますが、先在のロゴスであるイエスさまを証言するものは信仰のみであって、そのお方を「見ていない」「知らない」「受け入れない」というこの世の姿勢は、経験した「しるし」は受け入れても、まことの神さまご自身であるお方に向かっては、抵抗と無視することしか出て来ないのです。


2、走り通された人の子

 イエスさまのお話が続きます。
 「あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。だれも天に上った者はいません。しかし、天から下った者はいます。すなわち人の子です」(12-13)
 ここからヨハネは、「わたしたち」を単数の「わたし」に戻し、イエスさまがお語りになったものとしていますが、それは、ロゴスであるイエスさまだけが語り得る「天上のこと」に進展していくからです。「地上のこと」と「天上のこと」というヨハネの二元論が顔を覗かせます。しかし、この二つのことは反発したり、否定しあってはいません。このヨハネ独特の二元論を通してヨハネは、イエスさまの登場に関する、最も中心的なヨハネ神学を明らかにしようとしているようです。

 ヨハネをも含む「私たち」、つまり、信仰共同体としての「教会」が語り得るのは、「地上のこと」でした。「天に上った者はいない」とは、そんな私たちを指しています。今まで「新しく生きる」「御霊によって生きる」ことが語られて来ましたが、それは、「しるし」を信じる人たちに向かって、新しく御霊によって生きるのでなければ、「神さまの御国を見ることはできない」というヨハネの思いを込めたメッセージでした。それは、御国を目指すものではありましたが、あくまでも「地上のこと」なのです。御霊は地上で働いておられるからです。

 しかし私たちは、そのヨハネのメッセージに、イエスさまの思いも込められていると覚えなければならないでしょう。「地上のこと」さえも分からないとニコデモは言われましたが、「地上のこと」、つまり、「御霊によって生きる」ことを理解するには、そこにイエスさまがどのようにご介入されたのかを知らなければなりません。私たちへのご介入、それは、この世のことに囚われた私たちを解放し、御国に招き入れてくださるためでした。イエスさまはそのために来られた。「天から下った者はいます。すなわち人の子です」とはその意味なのです。

 「人の子」というのは、新約聖書中、四つの福音書に多数用いられているイエスさまの自己呼称ですが、恐らく、ダニエル書7章13節にある「人の子のような者」に由来している。これはメシアの称号であると受け止められて来ました。が、これを特にヨハネの福音書は、「遣わされた者」という意味でイエスさまへの尊称として用いている。イエスさまは神さまから遣わされて地上を歩むロゴスなのです。しかし、「人の子」は、イエスさまの自己呼称以外には見当たりませんから、「遣わされた」はイエスさまの意識なのでしょう。
 その意識のもと、イエスさまは、地上に遣わされた者として走り抜きました。
 どのようになのでしょうか?
 「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです」(14-15)と、この段落では、イエスさまがなぜ遣わされて地の上にいらっしゃったのか、そのことが取り扱われます。


3、天上の御国に

 「モーセが荒野で蛇を上げた」出来事は、民数記21章に出て来るもので、イスラエル民族にとって忘れることのできない事件でした。
 エジプトを脱出して来たイスラエルが、シナイ半島の荒野を移動していたときのことです。
 神さまから頂いた「マナとウズラ」で命をつないで来た彼らはモーセに逆らって言います。「私たちにはパンも水もない。このみじめな食物に飽き飽きしてしまった」(21:5)と。そこで神さまは人々の中に「燃える蛇」を送り込みました。これは猛毒を持つ蛇のことでしょう。そんな神さまの怒りのために、たくさんの人たちがこの蛇に噛まれて亡くなったのです。慌てたイスラエルの人々はモーセに訴えます。「私たちは主とあなたを非難して罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう、主に祈ってください」(7)。そこでモーセが祈りますと、「(青銅で)燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる」(8)という神さまのことばがあって、その通りになりました。

 イエスさまはこの故事にご自分を重ね合わせ、「上げられなければならない」と言われるのです。これは十字架を指している。
 遣わされて「地上」に来られた方が、地上で走り通したというその出来事が十字架に凝縮していることがお分かりでしょう。

 ところで、「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければならない」とありますが、これは、イエスさまが、まるで、「遣わされて世に来た者」の使命ででもあるかのように、その故事にご自分を重ね合わせています。そして、ヨハネのそんな言い方は、きっと、ユダヤ人にとって、イエスさまが旧約聖書に基づいてご自分の地上での御業の行程表を作成したかのように聞こえたことでしょう。
 彼らが「僭越だ」と感じたのは、そんな受け止め方をしたためです。

 しかし、はっきりさせておかなければなりません。
 決してそうではないのです。
 モーセの故事が先にあったのではなく、これは、ご自分も先在のロゴスとしてその立案に関わった人間の救済計画を、イエスさまは、ご自分で遂行されたということなのです。
 ヨハネは、その順番を取り違えないように、細心の注意を払いながら、この記事を書き上げました。なぜなら、その順番にこそ、イエスさまの本分があるからです。

 どういうことかと言いますと、ここに用いられる「上げられる」ということばは、「十字架に上げられる」ことを指すと同時に、天上の、もともと先在のロゴスという栄光へと帰還することを指しているのです。
 これがヨハネ福音書の最も中心的な神学主題になっている。
 ヨハネ福音書において、十字架におかかりになることと天にお帰りになることとは、同一とは言えないまでも、深く連動していることなのです。いくつかの用例をあげますと、12:23、32、14:2-3、16:5などがあり、十字架を目前にして言われた「人の子が栄光を受けるその時が来ました」(12:23)や、「わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます」(同32)などはその典型でしょう。
 そう聞きますと、「それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです」(15)と言われたことも良く分かるではありませんか。
 永遠のいのちとは、十字架に贖われた新しいいのちに満たされて、私たちが天上の御国へと移されることを意味しています。地上を這いつくばっているような私たちが、創造主たるお方で先在のロゴス、遣わされた贖罪者イエス・キリストを知っている者と呼ばれるのです。その通りにヨハネは、啓示者としてこれほどの証言をしました。
 私たちもと言われる。ハレルヤ! 何と光栄なことではありませんか。



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