ヨハネによる福音書・補

Aiming over one step

その麗しい告白を


<ヨハネ 1:1>
1初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

<創世記 1:1>
1初めに、神が天と地を創造した。


1、主の証人として

 今朝から「ヨハネ福音書」に入ります。
 近代の批評的聖書学者たちは否定していますが、一世紀末という初期教会の時代から、この福音書は、十二使徒の一人、ゼベダイの子ヨハネによるものと伝えられて来ました。

 ヨハネは十字架の下でイエスさまから母マリヤを託され(19:26)、伝説によりますと、マリヤを伴ってエペソに移り住んだと伝えられます。エペソにはヨハネの墓もあり、マリヤの住まい跡と言われる記念会堂も現存している。マリヤを伴ってということですと、恐らく、ユダヤ人からの迫害が始まったときだったのでしょう。それは、ステパノの殉教を契機として始まりましたから、かなり早い時期です。もっとも、ヨハネはエペソに移り住みましたが、マリヤの墓はエルサレムにもあって、そちらのほうが本物らしいのですが……。
 マリヤを伴わなかったとするなら、それでも、ヨハネはエペソに移住していますから、その移住は、マリヤの没後であって、遅い時期ではなかったかと思われます。ヨハネのエペソ移住は、紀元六十六―七十年のユダヤ戦役の直前か初期の頃で、情勢が緊迫して来たころだった可能性が大きいようです。紀元四世紀初頭の古代教会史家エウセビオスはその著書「教会史」で、ユダヤ戦争勃発の危機がはらむ中、「わたしたちの救い主の聖なる使徒や弟子たちは、全世界に散らされた。トマスはくじでパルティアを、アンデレはスキティアを、ヨハネはアジアを割り当てられた」と言っています……。そのころのユダヤ本国におけるキリスト教に関する情報は極めて少なく、キリスト教に関する資料のほとんどがローマ・ギリシャ世界に集中していることも、そんな想像を裏付けてくれるようです。

 ヨハネがエペソに移り住んでどれくらい経ってからなのでしょうか。
 彼はエペソ教会の牧師をしています。
 ネロ帝以降途絶えていたキリスト教徒迫害が、二十数年ぶりに、ドミティアヌス帝のもとで再開され、当時、ローマ・ギリシャ世界に建てられたキリスト教会の指導者と目されたヨハネは、エーゲ海に浮かぶパトモス島に流罪とされました。そこで見たさまざまな幻をもとに黙示録を書き上げるのですが、ドミティアヌス帝没後、新皇帝となったネルヴァ帝によって釈放され、再びエペソに戻って来ます。紀元九十六年のことでした。
 この福音書は、赦免されたヨハネがエペソに戻って来てから書かれました。一世紀も終わりころのことです。彼は恐らく百歳近くになっています。その高齢でと驚かされますが、21章24節に「これらのことについてあかしした者、またこれらのことを書いた者は、その弟子(イエスが愛した弟子=24:20)である。そして、私たちは、彼のあかしが真実であることを知っている」とあり、紀元一〜三世紀のキリスト教動向を記したエウセビオスの教会史は、アレクサンドリアのクレメンスという使徒後教父が「ヨハネはその人たちに助けられてこの書を書いた」と述べたことを紹介しています。もちろん、エペソ教会でヨハネが語ったメッセージが原形となって、ヨハネ自身が著したものなのでしょうが、ヨハネ没後、アジヤ属州に建てられた諸教会の記念事業として、ヨハネの弟子たちが編集に取りかかり、この福音書完成には多くの人たちの手が加えられたと言っていい。
 他の共観福音書と視点や内容に違いがあって当然と言えます。

 イエスさまと弟子たちは四六時中いっしょに行動していましたから、イエスさまのことはほとんど弟子たちに覚えられていましたが、それはおもにお働きがガリラヤで始まった時からのことで、ユダヤ地方で働かれていたそれ以前のことは、三つの共観福音書にはほとんど取り上げられてはおりません。前述のエウセビオスは「教会史」で、この福音書がその欠けた部分を埋めるために企てられたのだと証言していますが、恐らくその通りでしょう。しかし、それだけではない。弟子たちがイエスさまといっしょにいた時から六十年以上も経っていて、イエスさまの出来事は幾度も反芻され、語られ、単なる事実としてだけではなく、内面的にも深められてこの福音書となりました。
 この福音書は、ローマ・ギリシャ世界に建てられたキリスト教会を念頭に、そこから更に後の時代をも見通し、ある意味、現代の私たちの時代をも含めながら、イエスさまを信じる信仰に立つことを勧めているのです。終末的と言ってもいい。パウロ文書など他の新約文書が出回り、ヨハネがそれらを読んでいたことも影響しているのではと思われます。


2、初めにことばが……

  本文は1章19節から始まります。
 1〜18節は「ロゴス賛歌」と呼ばれ、序文と考えられています。

 この序文は、すでに流布していた、共観福音書とは別のお姿であるイエスさまの、その物語を執筆しようとする、その理由として書かれたものなのでしょう。この福音書は新約聖書中の諸文書としても、またヨハネ文書としても一番最後、紀元一世紀末のものです。背景には特に黙示録が考えられなければなりません。そこに描かれるイエスさまのお姿は、幻のうちに示されたものでした。ヨハネはその幻のうちにイエスさまにお会いして、そのお姿を描きたいと願ったのでしょう。これはヨハネ自身の証言と聞かなければなりません。しかし、それが近現代の批評的聖書学者たちには違和感を持つものと映っているようで、至るところで、これがヨハネ文書であることに異議が唱えられています。この福音書中にヨハネがこの文書の記者であるとは一言も言及されていないのです。が、私たちは、教会伝承に従って、使徒ヨハネがこの文書を執筆したと受け止め、読み進んでいくこととします。


 ロゴス賛歌、ヨハネの証言から聞いていきましょう。
 今朝のテキストは一章1節です。
 「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」(1)

 キイワードの「ことば」はギリシャ語でロゴス、理性などと訳されます。冒頭からいかにもギリシャ人好みの主題が語られる。難解なところです。インターネットで検索しますと、たくさんの方たちがこの福音書からのメッセージに挑戦していますが、ものすごく難解なこの箇所をなんとか理解しようと、みなさん非常に苦労していらっしゃる。しかし、避けて通るわけにはいきません。正面からぶつかってみましょう。
 「ことば(ロゴス)」という、ギリシャ賢人の世界では絶対的概念として議論の的となっていたことがこのところのモチーフになっているのですが、ヨハネは、ギリシャ的な思惟でその正体を突き止めようとしているのではなく、神さまに絡めるというセム系民族に極めて固有な伝統神学の中で、その絶対的概念を再構築しようとしているようです。
 いきなり訳の分からないことを言いましたが、少なくともエウセビオスはイエスさまのことを「神のロゴス」という言い方で始めようとしています。それは、恐らく、ヨハネ福音書が広く流布していたことによるのでしょうが、イエスさまのことを相当深く煮詰めていたヨハネ神学が支持されていたことを示しています。その辺りのことから考えてみたい。

 黙示録の主題に、「神のことばとイエスのあかしのゆえに」(1:9、20:4)とあります。並列に並べていますが、ヨハネはこれを同一のお方としています。福音書を著そうとするに及んで、イエスさまのご人格にまで深められ、高められたのでしょうか。イエスさまは神さまのロゴスそのものなのだというところにまで深められていきました。
 そして、それは恐らく、創世記の第一行目にある「初めに神、天と地とを創造された」(1:1)というところにまで思いが及んでいる。ですから、とても似た言い方を採用した。特に七十人訳と呼ばれるギリシャ語訳創世記一章1節と比べてみますと、リズムやイメージなどが非常に似ている。恐らくギリシャ語世界に移り住んでから、七十人訳聖書を読んでいたのでしょう。当時のキリスト教徒たちにはそれが当たり前になっていました。ヨハネの意識にはそんなイメージがあったということなのです。
 それは、神さまのロゴスであるイエスさまが父君のことばとなって世界が創造されたということではなく、イエスさまは、神さまご自身として、「光あれ」と言われ、「光があった」のです。「とともに」という言い方は共同作業という意味ではなく、神さまに「向かう」ことであり、神さまの中に溶け込むようにご人格が融合しつつ創造に向かわれたのです。
 イエスさまは、もともと唯一全能のお方でした。
 「ロゴス」とは、天上のイエスさま、神さまの御子の本質に属することだったのでしょう。そのロゴスが天上でどのようなお方であったのか、それは神さまの秘儀に属しますから、ヨハネのように幻にでも知らされなければ、私たちが理解することはないでしょう。邦訳は「ことば」と訳しましたが、ご人格(神格)を有していますから、「ロゴス」と呼ぶのが正しい。この先、この栄光のお方を「先在のロゴス」と呼んで行くこととします。


3、その麗しい告白を

 しかし、「ことば(ロゴス)」などと聞きますと、堅苦しい理詰めの神学、ヨハネは神秘主義的福音などと言われていますので、そんな神学者のように聞こえますが、「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」というのは美しい詩的表現なのです。ちなみに創世記一章1節のヘブル語と、七十人訳ギリシャ語、ヨハネ一章1節のギリシャ語を紹介してみましょう。
「ブレーシート バラー エロヒーム エト ハ シャマイーム ブ エト ハ アレーツ」
                             (ヘブル語・創世記一章1節)
「エン アルケー エポイエーセン ホ セオス トン ウーラノン カイ テーン ゲーン」
                       (ギリシャ語・七十人訳・創世記一章1節)
「エン アルケー エーン ホ ロゴス、カイ ホ ロゴス エーン プロス トン セオン、カイ セオス エーン ホ ロゴス」
                        (ギリシャ語新約聖書・ヨハネ一章1節)

 分からなくても、何となく心地よいリズムが感じられるでしょう。つまり韻を踏むその響きが詩的なのです。この詩がどこから生まれたのでしょうか。

 荒っぽいガリラヤの漁師たちの中で、自らも漁師だったヨハネ、なのに荒っぽさを少しも感じさせない、まるで女性のような優しく瑞々しい感性が、知性とともに福音書全体に溢れている。それは、イエスさまに愛されて、その感性に触れたからヨハネの琴線がイエスさまを感じた。まるで、イエスさまの感性に共鳴しているように感じられるではありませんか。パトモス島で神さまの秘めた幻を見たことも、理詰めではないその感性によると聞いていいのではないかと思うのです。イエスさまから「ボアネルゲ(雷の子)」と呼ばれた若いときのヨハネには見られないところです。きっと、ギリシャ世界に移り住み、そこで教会の指導者として責任を持つようになってからのことと思われますが、奥手だった資質が花開いたのでしょう。若い頃のヨハネは、取り立ててこれといった活動も行なってはいませんし、使徒と呼ばれても、それに見合うような記録はほとんど見当たりません。
 それなのに、これはロゴス賛歌であり、まるで賛美歌のようではないかと、これは、著者がヨハネであることを否定する近代聖書学者のコメントなのです。彼らは、知られざる著者が、伝承として共同体にあった賛歌を取り出し、その原形に手を加えたのであろうと推測しますが、よしんば、原形に相当するものがあったとしても、ここに見られるヨハネの信仰を形造っている、最も中心の部分がイエスさまの愛であり、その愛にヨハネが応えていることはいささかも値引きされないでしょう。私たちが、今、手にして口ずさんでいるたぐいまれなことばがヨハネから溢れ出た信仰の告白であり、それはヨハネの愛してやまない主、救い主、故郷のように彼を招いてくださるお方に献げる最高の香ばしい香りでしたから、美しい詩となった。
 その詩(ウタ)を、ヨハネの内に育ててくださったのは、紛れもなくイエスさまご自身であったと言えるのではないでしょうか。

 ヨハネよりほんの少し後、エウセビオスが描いた「教会史」の時代に、たくさんの殉教者たちは、イエスさまを「神さまのロゴス」と受け止めました。それは紛れもなく神さまご自身なのだと。これも間違いなく彼らの信仰告白でした。それは、彼らがヨハネの瑞々しい信仰を継承したからにほかなりません。
 その信仰を、麗しい告白を、私たちも継承したいではありませんか。



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