ヨハネによる福音書


86
永遠の共同体を
ヨハネ 20:11-18
詩篇 118:25-29

Ⅰ 哀しむ者に寄り添って

 ペテロとヨハネが宿舎に帰った後、マグダラのマリヤは一人墓に残りました。彼女は、イエスさまの遺体が無くなったことをペテロとヨハネに報告し、彼らが墓に急行した後、だいぶ遅れて墓に戻ったものと思われます。そして、彼女は、よみがえりのイエスさまに出会いました。これは、マリヤから聞いた、イエスさまよみがえりの第一報なのです。ヨハネはこの記事の発端を、こう始めます。「しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。」(11) 彼女は、イエスさまが亡くなられたことに加え、その遺体まで無くなってしまったことで、深い悲しみに沈んでいました。彼女にはもう、「七つの悪霊に憑かれた女」(マルコ16:7)などと人々から後ろ指を指されていた、そんな面影など全くありません。頼りにしていたペテロとヨハネは、墓の中で見たことで頭が一杯になっていて、彼女が一人墓に残ったことも、その悲しみにも気がつかないまま、宿舎に戻ってしまいました。恐らく彼女は、天にも地にもひとりぼっちなってしまったと、深い孤独を感じていたのでしょう。それは、先に帰ったペテロやヨハネ、「ユダヤ人を恐れて戸を閉じて」(19)隠れていた弟子たちにも通じます。恐らく、ヨハネは、迫害と殉教の時代を迎えた、紀元一世紀末のローマ・ギリシャ世界の聖徒たちに、その時の心境を重ねているのでしょう。ローマの聖徒たちは、市内の地下に広がる地下墓所・カタコンベに潜り込んで息をひそめていたと伝えられています。

 しかし、マリヤも弟子たちも、そして、追い詰められた異邦人世界の聖徒たちも、神さまのところには測り知れない慰めや希望があることに気づいていません。そんなマリヤが、泣きながら墓を覗き込みました。「すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。彼らは彼女に言った。『なぜ泣いているですか。』彼女は言った。『だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。』」(12-13) きっとマリヤは、哀しみのあまり、恐怖も覚えず、彼らが天使であることにさえ気づかなかったのでしょう。彼女は、「だれかが私の主を……」と訴えます。この記事はそれで終了です。しかしこの時、孤独な彼女に寄り添う者が現われました。「天使」は普通、神さまのメッセージを伝える者を意味し、マタイ福音書に現われた天使は、イエスさまよみがえりを伝えています。しかし、ヨハネの記事に出て来る天使は、マリヤの訴えを聞くだけです。これは、福音宣教が第一に、孤独な者、哀しむ者、苦しむ者に寄り添い、ただ聞くことから始まるのだという、ヨハネの意識ではないでしょうか。現代においても、私たちは、「なぜ泣いているのか」と、そのように遣わされていると覚えておくのは、大切なことでしょう。


Ⅱ 「マリアーム」「ラボニ」と

 つい今し方まで「天使」さえ認識出来なかった「孤独な女」マリヤが、変わり始めました。天使たちが彼女の訴えをただ静かに聞いてくれた、それが彼女の慰めになったのではないでしょうか。人の気配を感じてうしろを振り向くと、そこにイエスさまが立っておられ、「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか」(15)と言われます。「だれを捜しているのか」とこれは、天使より一歩も二歩も彼女の哀しみに寄り添う、より踏み込んだ慰めのことばではないでしょうか。しかし彼女には、まだその方がイエスさまだとは分かりません。園の管理人だと思って、「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります」(15)と懇願します。しかし、ヨハネはここで、なぜ、たたみ込むように、イエスさまと対面しながらイエスさまと認めることが出来なかった、マリヤを描いているのでしょうか。

 マリヤだけでなく、ペテロやヨハネ、他の弟子たちにも言えることですが、十二弟子の一人トマスの記事でも取り上げられているように(25)、これは、ヨハネが重要と捉えた神学上の課題なのです。特に現代神学で、イエスさまよみがえりを、弟子たちが「こうであって欲しい」と願った、その願いから生まれたものであるとする見解があります。また、グノーシス主義が提唱した異端思想・ドケティズム(仮現説)のような夢・幻とする見解までささやかれ、そのような神学は、紀元一世紀末に、すでに広まっていたようです。ヨハネは、そのような「神学」に、「否」を唱えたのでしょう。イエスさまのよみがえりは、幻想や、弟子たちの希望や信仰の所産ではなく、彼らが想像だにしなかった事実であると。ですから、イエスさまのよみがえりは、気落ちした人を生かし、二千年を経てなお、私たちをいのちの源である神さまのもとに招いて止まないのです。

 それを見極めてヨハネは、よみがえりのイエスさまとマグダラのマリヤとの出会いを、わずか二行のシンプルなことばで描きました。これは、短いけれども、文学史上、最も美しく、感動的な場面と評価されています。「イエスは彼女に言われた。『マリアーム。』彼女は振り向いて、ヘブル語で、『ラボニ(すなわち、先生)。』とイエスに言った。」(16) 「マリアーム」「ラボニ」とこれは、イエスさまとマリヤの間でずっと交わされてきた、親しみと尊敬を込めた、二人だけの呼び名だったのでしょう。マリヤは、懐かしい名前で呼ばれて、この方がイエスさまだと分かりました。そして、「ラボニ」と答えました。


Ⅲ 永遠の共同体を

 大喜びでイエスさまにすがりつこうとしたマリヤに、イエスさまは言われます。「わたしにすがりついてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。』と告げなさい」(17) よみがりのイエスさまにお会いしたマリヤは、また以前のようなイエスさまとの日々が始まる……、と思ったようです。マリヤの「ラボニ」という呼びかけの中に、そんな彼女の気持ちが伝わって来るではありませんか。きっとヨハネや他の弟子たちも、同じ思いだったのでしょう。彼らにとって、イエスさまとともに過ごした日々は、楽しく、充実した時間だったのです。イエスさまがよみがえられたと知って、以前の素晴らしい日々を思い出し、その日々を再びと願ったとしても、おかしくはありません。

 けれども、イエスさまの復活は、そういうことではありませんでした。その理由は、第一に、十字架に人の罪を贖われたイエスさまは、地上に遣わされた務めを果たされたのですから、もはや地上でのお働きに戻る必要はありません。イエスさまは今、新しい務めを担って、その一歩を踏み出されたのです。第二に、イエスさまは、十字架に捨てた肉体を再び纏うために、この世の者として復活されたのではありません。地上に遣わされて人の子となられた先在のロゴスは、十字架上に滅ぶべき肉体を捨てて、もともとのロゴスなるお方に復活されたのです。第三に、イエスさまは、十字架の贖いによって主の民とされた聖徒たちの先駆けとして、復活を果たされたのです。それは、天上の御父のもとに聖徒たちの住まいを整え、聖徒たちを迎えるためでした。イエスさまが新しい一歩を踏み出されたのは、栄光の天上に向かうことに他なりません。

 この後イエスさまは、天上に帰還されます。イエスさまは、マリヤに言われました。「兄弟たちに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る』と告げなさい」と。神さまを「父」と呼びぶことを共有し、彼らを「兄弟」と呼ばれる。それは、神さまに属する者たちが、一つ家族になることを意味します。それは、地上に建てられた教会を指していますが、教会へのサポートは助け主・パラクレートスに委ね、イエスさまは、天上に永遠の共同体を形成すべく、新しい務めに向かわれます。「父のもとに上る」とは、その意味なのです。この、恐らく「昇天」を指すであろうマリヤに託された伝言は、その発端でした。しかし、マリヤはそのことを理解せず、弟子たちのところに戻って、ただ「私は主にお目にかかりました」(18)と告げました。永遠のことなど理解出来ないのは、私たちとて同じでしょう。しかし、今、この地上を這いつくばっているような私たちにも、主とともにある光栄な日々が待っているのだと、そのことに思いを馳せたいではありませんか。イエスさまは、パラクレートスとともに、今も、哀しむ者、孤独な者に寄り添って下さるお方なのですから。 


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