ヨハネによる福音書


82
信仰の目の高さを
ヨハネ  19:30
詩篇 121:1-6

Ⅰ 「完了した」と

 「イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、『完了した。』と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった」(30)と、今朝のテキストはこれだけです。ヨハネはイエスさまの死の、その瞬間を描写しています。少し理屈っぽくなりますが、初めに、この文章構造を理解しておきましょう。

 「完了した」とこれは、イエスさまの「十字架上の七つのことば」の六番目に来るものですが、五番目の「わたしは渇く」と七番目の「わが霊を御手に委ねます」の間にあって、ヨハネは、「完了した」ということばをもって、イエスさまの死の描写に終止符を打ちました。この終止符ということを少し補足しますと、ヨハネは、「完了した」ということばを、福音書で二回(新約聖書全体で28回)しか用いていないのですが、一度目は28節の「すべてのことが完了したのを知って」というところで、二度目は30節で「完了した」と、十字架上の六番目のことばで用いています。しかも、他の26回では用いられていない現在完了・受動態という用法を用い、二度とも「完了した」と言っています。現在完了には中学英語で習った「継続」という用法がありますが、ギリシャ語も同じです。ヨハネはその意味で完了形を用いているのです。ヨハネは、一つの明確な意図をもって、このことばでイエスさまの「十字架の死」を締め括ろうとしています。これは五番目の「わたしは渇く」で語り足りなかったところを補い、七番目の最後のことばを省いて、代わりに「霊をお渡しになった」と記しているのですが、それをもって「完了した」と言われたイエスさまの死を補強し、意味づけし、結論づけようとしているようです。
 つまり、「完了した」は、イエスさまの死を彩るヨハネの中心メッセージなのです。

 その中心メッセージの、まず初めに、「霊をお渡しになった」から見ていきましょう。ルカが記した七番目のことば・「父よ。わが霊を御手にゆだねます」(23:46)は、「完了した」を補足するかのように描写されていますが、ここは、日本語として多少難があっても、新共同訳の「息を引き取られた」より、新改訳のように「霊を渡した」とするほうが正確でしょう。「霊」とは、神さまが人を創造された時「いのちの息を吹き込まれた」(創世記2:7)とあるその「息」のことで、ヨハネがロゴス賛歌で「この方にいのちがあった」(1:4)とする、イエスさまの「いのち」そのものなのです。イエスさまはその「いのち」を、もともとの出所である父なる神さまに渡されたのです。イエスさまの死には、「継続」という要素が強調されていると言えましょう。


Ⅱ 主の愛で満たすために

 さて、「完了した」ということですが、ここでは、「すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、『わたしは渇く』と言われた」(28)が、解釈の鍵を握っているようです。そこで用いられた「完了した」は一度目に言われたもので、先に、ヨハネは、十字架上の五番目のことば・「わたしは渇く」で足りなかったところを補うという一つの明確な意図をもっていたと触れましたが、前回、「わたしは渇く」は、イエスさまがご自分の戦いを弟子たちに委ねられ、弟子たち(私たち異邦人信仰者を含む)がその戦いを引き継いだと聞きました。その委託を「聖書が成就するために」と受け止めたヨハネは、啓示者として召された思いを福音書執筆に込め、自分の戦いとしたのです。

 ところが、「聖書が成就するために」と証言する前に、ヨハネは、すべてのことが完了したのを「知って」と、イエスさまの思いに一語を加えました。「知って」と、そんな主の思いは、過越の食事の席ですでに触れられたものです。そこには「過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たのを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された」(13:1)とあります。ヨハネは、自分たちがイエスさまからどんなに愛されていたかを、十字架のすぐそばで痛いほど感じていたのでしょう。イエスさまが十字架に死なれたのは、私たちのためであったのだと。その時感じた「イエスさまの愛に生かされて来た」という思いは、共に福音宣教に携わった仲間たちを先に送り出し、一人紀元一世紀末まで生き延びたヨハネを、暖かく包み込んできたのではないでしょうか。この福音書全体に「愛」が散りばめられているのも、頷けます。それはパウロも証言しているとおりです。「愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました」(エペソ5:2) パウロはエペソ教会を開拓した人で、今、エペソ教会を基盤に働いているヨハネにとって、先輩でした。十字架上でイエスさまのすべてが「完了した」のは、その愛の究極的実現のためであったと、ヨハネの告白が聞こえてくるではありませんか。彼は、イエスさまの思いを込めたこの「完了した」を言いたいがために、一人残されたこの世界を、イエスさまの愛で満たそうと、百歳に近い老骨にむち打っていたのではないかと思われてなりません。
 そんなヨハネの思いを、私たちも、共有したいではありませんか。


Ⅲ 信仰の目の高さを

 「完了した」と、そこに込められたヨハネの、もう一つの思いを聞いておきたいと思います。
 これは、十字架が決定的に動き始めた契機ですが、「あなたがしようとしていることを今すぐしなさい」と言われ、一切れのパンを受け取ったイスカリオテ・ユダが、イエスさまを祭司長たちに売り渡すために、過越の食事の席から出て行った時のことです。ユダが出て行くと、イエスさまは弟子たちに言われました。「今こそ人の子は栄光を受けました。また、神は人の子によって栄光をお受けになりました。神が、人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も、ご自身によって人の子に栄光をお与えになります。しかも、ただちにお与えになります。」(13:31-32) ヨハネには、イエスさまの十字架を低いところから高いところへという視点、つまり、十字架の贖罪という視点はないと言われて来ました。しかし、そこには、イエスさまが神さまご自身でありながら、そのことに拘らず、自ら低くなって人の子となり、愛する者のために死なれたのであるという思いが、強烈なまでに主張されています。しかし、それにもかかわらず、ヨハネが見つめているイエスさまの到達点は、神さまとともにある輝かしい天上の栄光なのです。ヨハネにとってのイエスさまの十字架は、高挙として、よみがえりの前にやむなく低くされたということではなく、ヨハネが何度も証言しているように、十字架そのものが「挙げられる」ことなのです。その証言は、「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければならない」(3:14)、「あなたがたが人の子を上げてしまうと、あなたがたはわたしが何であるか……を知るようになります」(8:28)、「わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き上げます」(12:32)と、何カ所にも及びます。その意味で「完了した」は、この世を去って天上の父なる神さまのところへ帰還するという凱戦歌であって、高らかな勝利宣言なのです。これは、「完了した」という現在完了の継続にほかなりません。

 ヨハネ神学が、このように、イエスさまの高挙という勝利の凱歌に拘ったのは、恐らく、紀元一世紀末のイエスさま共同体に襲いかかった、ローマ・ギリシャ世界からの迫害と殉教の嵐に抗する、信仰の確立を目指していたからなのでしょう。当時のキリスト者たちには、希望が必要でした。もちろん、他の福音書記者や、とりわけ異邦人の使徒として立てられたパウロが提唱した、「十字架の神学」という目線が重要だったことに異論はありません。しかし、十字架に死なれたイエスさまの愛は、この世における一過性のものではなく(パウロ神学がそうだと言うわけではありませんが)、多くの異端や異教の激しい攻撃に遭ってなお信仰者を招いてやまないものであり、十字架に贖われ、招かれた者たちは永遠の神さまとともに住まうのであると、ヨハネは、信仰の目を高く高く上げているのです。それこそ、現代のイエスさまを信じる私たちに、最も欠けているところではないでしょうか。ヨハネの信仰の目の高さに、倣いたいではありませんか。その目の高さは、主の栄光の中へ招かれた者たちだけが到達し得るものであり、私たちもその高みへと招かれているのです。覚えたいではありませんか。


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