ヨハネによる福音書


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主、共におらせたまわんことを!
ヨハネ  17:20-26
 エゼキエル 34:25-31

Ⅰ 聖徒たちのために

 17章の長いイエスさまの祈り、今朝はその最後の部分です。
 「わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです」(20-21)と、イエスさまを信じる者たち(の教会)が「一つになる」ことが強調されています。これは、ローマ・ギリシャ世界に建てられたエペソ教会に遣わされ、90歳を過ぎてなお宣教のために働いて来た、ヨハネの強い願いでした。しかしその願いには、「一つではない」紀元一世紀末当時の教会が陥っていた状況が反映されているようです。

 紀元一世紀末、教会はローマ・ギリシャ世界に広がっていました。その教会が、次第に激しくなって来る迫害にさらされようとしています。個々の教会はまだ小さな家の教会といった風情でしたが、各地に浸透しつつあるそれら群れの影響が広まるにつれ、特にユダヤ教との衝突が頻繁に起こり、その争いに巻き込まれたローマ市民の懸念が、迫害となりました。つまり、新しい宗教とされるキリスト教会には、勢いがあったのです。キリスト教徒に改宗する人たちが非常に多く、教会自身もその勢いに乗じて、近隣地域の教会を統合しつつ、勢力拡大に動いていました。そんな動きは当然一つだけではありませんから、勢力拡大を目指すグループ同士の対立は避けられません。当時の教会は、そんな状況下にあったと思われます。エウセビオスの教会史は、ほとんどが異端絡みですが、そんな動きも多くあったと指摘しています。

 地域教会の結束が強いのは、先に出来た教会が近隣の町や村で働いて新しい群れが誕生するのですから、ごく自然なことです。アジヤ州の諸教会はパウロによって建てられ、エペソ教会を中心に一つ群れという意識がありましたから、ヨハネもエペソ教会に着任するとすぐに、それら教会を巡回し、牧会していたようです。ですからヨハネは、同じ地域の教会が一つ共同体であることに反対したのではなく、それら教会の「一つ群れ」になろうとする動機が、勢力拡大のための人間的欲望であったり、対抗心であったりと、イエスさまの名が冠せられた教会らしからぬ在り方に、異議を唱えたのでしょう。そんな在り方は、信仰云々は脇に置いて、とりあえず一緒に何かをやりましょうとする、現代の「教会一致運動(エキュメニズム)」などに見られます。それは、大手教団を擁するプロテスタント教会から始まったのですが、ローマ・カトリック教会ばかりか、仏教やイスラムまで迎え入れ、一緒に祈ったりしています。「世界平和のために」、それが彼らの合い言葉です。


Ⅱ 信仰の一致のもとで

 そんな状況を念頭にヨハネのメッセージを聞きますと、「彼ら(使徒たち)のことばによってわたしを信じる人々のために」(20)という表現には、ある意味、ヨハネの苦々しい思いが伝わって来るようです。本来、神さまのことばであるイエスさまの福音によって立つはずの教会が、イエスさまを信じる信仰によってではなく、儀礼化や教団化など、人数の多さと組織を武器に勢力拡大を図っている。そんな中でヨハネは、イエスさまの祈りの原点にまで遡って、イエスさまの教会が何によって立たなければならないのかを明らかにします。一つ、教会の広がりはみことばの宣教によるものでなければならない、としていることです。ヨハネが、「あなたのみことば」(8、14)を、わざわざ「彼らのことば」と言い換えているのは、宣教に遣わされた人たちが神さまのことばを語り、その「彼らのことば」が人々をイエスさまの福音に招くのだと、神さまの原則を言っているのです。そこにはイエスさまの思いを踏襲したパラクレートスのお働きがあって、個々の教会がイエスさまの贖いによって立てられ、そこで初めて、全教会がイエスさまの名前を冠せられた一つ共同体となるのです。

 そして、もう一つは、「彼らがみな一つとなるためです」と、教会が向かうべき指針を定めた、ヨハネの意図に見られます。ヨハネが意図した「一つ」とは、「御父と御子が一つであるように」という、その「一つ」に倣うものです。これは、「またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて、一つになるためです」(22-23)と、更に明確にされます。神さまの民とされた彼らが神さまを賛美し、礼拝する、それが神さまの栄光の輝きを最高のものにすると先週聞きましたが、イエスさまを信じる信仰の一致がなければ、共に祈り、賛美し、礼拝することなど、とても出来ないでしょう。その賛美は、「イエスさまを信じる信仰の一致」なしに、無理矢理「世界平和」などという目的を掲げて共同作業をしようとする、そんなことから生まれるものでは断じてありません。「一つに」とは、御父と御子が一つであるように、何よりも、イエスさまを信じる者たちは時間的にも空間的にも一つ群れであるという神さまの思いが先にあって、そこにパラクレートスが働かれることで、初めてなし得ることなのです。


Ⅲ 主、共におらせたまわんことを!

 「信仰の一致」と言いましたが、イエスさまを信じる信仰は、神さまから出て来るもので、「神さま」が下さったすべての「みことば(旧新約の聖書正典)」を聞き、父なる神さまとイエスさまと、パラクレートスのお働きを受け入れることを総称している、と言っていいでしょう。その信仰が、本来一つではなかった者が「一つになる」、大切な結び目なのです。「そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです」(21)とあり、「あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたことを、この世が知るためです」(23)とあるのは、聖徒たちの信仰は、神さまに愛された愛によって「一つ」になることから始まるという、ヨハネの宣言ではないでしょうか。「世が信じるため」、「この世が知るため」とは、世に属する人々が聖徒たちを「神さまの民」と認識することを意味しています。彼らはもはや自分たちの陣営にはいないのだと……。まさに、その通りです。

 「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」(24-26・新共同訳) 新改訳のほうが原典に近いのですが、分かりにくい訳になっていますので、日本語としてすっきりしている新共同訳を採用しました。しかし、これは17章全体の結語と位置づけられていますので、その意味で、「共におらせてください」とあるところは、永井訳がこの結語を祝祷としたように、「共におらせたまわんことを」と訳したほうがいいでしょう。

 聖徒たちが「一つになる」というその一体性は、天に帰られたイエスさまとの一体性をも含んでおり、それは終末・永遠のことであろうと言われて来ました。新改訳では、この最後のフレーズにそれが色濃く出ているようです。イエスさまは、すべての聖徒たちがご自分のいる所・天に凱旋して、神さまの永遠の栄光に与るよう祈りました。そして、ヨハネもまた、私たちは肉体の死でいのちの一切を終えるのではなく、天上の神さまのもとで永遠の営みが続くのだと、究極の望みである信仰の希望を語っています。「また、これからも知らせます」とあるのは、天上での信仰の営みを言っているのでしょう。信仰は神さまとのつながりですから、天上で不要というわけではありません。しかしヨハネは、天上におけるイエスさま共同体の一体性を先取りするかのように、そこにもパラクレートスの助けがあるのだと、地上に続く天上での信仰の営みへの励ましを、この祈りに込めました。この祝祷には、そんなヨハネの思いがぎっしりと詰まっているのです。そんな「愛の使徒ヨハネ」の思いを、わくわくしながら聞きたいではありませんか。今、ヨハネと共に心から願います。愛する兄弟姉妹のこの地上での歩みが、天上での永遠の営みに続くように、主、共におらせたまわんことを!


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