ヨハネによる福音書


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聖別された者と
ヨハネ  17:9-19
イザヤ 61:10-11

Ⅰ 聖徒たちのために

 「わたしの栄光を輝かせてください」(1、5)と始まったイエスさまの祈りは、「世」が憎しみを込めて挑んで来た、戦い最中の祈りであると聞かなければなりません。それは、聖徒たちの戦いへと軸足を移し、パラクレートスも参戦し、「神さまの総力」を挙げた戦いとなります。その中で、天に帰られてもイエスさまはご自分の聖徒たちを見捨てることはないと、ヨハネは、今、そんな思いを込めて、このイエスさまの祈りを書き上げようとしています。「わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしにくださった者たちのためにです。なぜなら彼らはあなたのものだからです。わたしのものはみなあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。そして、わたしは彼らによって栄光を受けました。」(9-10) イエスさまはその愛を惜しみなく聖徒たちに注いでおられるのですが、この祈りは、ご自身の愛する者たちのための祈りなのです。ヨハネは、この長い祈りを、「聖徒たちへのとりなし」と性格づけています。まさに、「大祭司の祈り」と呼ばれるにふさわしい祈りと言えましょう。「イエスさまは彼らによって栄光を受けた」とあります。先週、「神さまの栄光は、聖徒たちの賛美と礼拝によって最高の輝きを輝かせる」と聞きました。神さまは、この広大な宇宙にあって、誰からも神さまであると認定される必要はなく、本来、神さまの栄光は神さまだけで完結するのですが、それにもかかわらず、神さまは、私たちのための神であることを願い、私たちからの賛美と礼拝を強く望んでおられるのです。現代神学に「我らのための神、Gott für uns」とあるその片鱗が、ヨハネ神学に見られると言っていいでしょう。

 「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ。わたしに与えてくださった御名によって彼らを守って下さい。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」(11・新共同訳)と、イエスさまの祈りは、「世」に残して行く聖徒たちの身に起ころうとしている多くの苦難に、彼らが耐えることが出来るようにというものでした。この「世」は「コスモス」であって、神さまを知らないと嘯き、むしろ神さまに敵対しているのですが、「世」から取り出されたとは言え「世」に残った聖徒たちは、「神さまの民」として、厳然と「世」から聖別されているのです。ヨハネは、自分も残された者の一人として、「残された者の」哀しみを身に染みて味わって来たのでしょう。「聖なる父よ」という呼び掛けや、「御名によって、彼らを守って下さい」という祈りに、そんなヨハネの思いがにじみ出ているようです。


Ⅱ 聖徒たちこそ

 「聖なる父よ」は、「世のためにではなく」(9)と連動し、「世」とは全く異なる、神さまだけが構築し得る聖なる世界を念頭に置いた呼びかけであって、ヨハネは、聖徒たちはそこに招き入れられているのだと明らかにしています。ですから、「御名によって、彼らを守って下さい」という祈りは、〈もはや、世があなたたちを守ってくれることはないのだよ。あなたたちは神さまのものとなったのだから。御父よ、どうか、あなたの栄光が現わされるために、栄光の輝きである御名の中に彼らを堅く保ち続けて下さい〉と言っているのです。ここに用いられている「守る」は、「内にあるものが出ないように守る」という意味で、「(汚さないで清いまま)保つ」(新改訳)、「見張る、監視する」などの訳語が用いられ、一般的に用いられる「外敵を防ぐ」という意味での「守る」とは区別されています。そのような意識下での「世」のための祈りは、「世」が「世」でなくなること以外にあり得ないでしょう。そんなニュアンスを込めてヨハネは、「世のためにではなく」と言っているのです。

 そのようなことを念頭に置きながら聞いて頂きたいのですが、「御名によって、彼らを守って下さい」という祈りは、「わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が成就するためです」(12・新共同訳)と変化します。そこには、滅びの子イスカリオテ・ユダを別にして、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、この世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(3:16)、との宣言が繰り返されているのでしょう。「聖書(旧約)が成就するため」とありますが、そこには、先駆者パウロとともに、旧約聖書の義人たち、アブラハム、モーセ、イザヤ、預言者たちが啓示者・イエスさまを指し示し、神さまご自身が立案された救いの計画が、パラクレートスの助けのもとでイエスさまにおいて実現したとする、ヨハネの壮大な神学的確信が浮かび上がって来るようです。

 イエスさまは今、世を去ろうとしています。しかしヨハネは、その確信のゆえに、「今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです」(13・新共同訳)と、聖徒たちこそ、世を去ろうとするこの時の「私の喜び」なのだと、イエスさまの喜びに自分の喜びを重ねています。その喜びはやがて信仰の確信となって、残されるエペソ教会など、ローマ・ギリシャ世界の聖徒たちの内に溢れて行くのでしょう。


Ⅲ 聖別された者と

 イエスさまの救いに招かれた聖徒たちは、神さまの聖なる世界に属する者であって、この「世に属する者」ではないと、くどいほど言って来ました。もはや、そう聞いた私たちに、「世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないからです。彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません」(14-16)について、繰り返しの説明はいらないでしょう。イエスさまを「わが主」と信じる者たちにとって最も重要なことは、自分の立ち位置は「この世」ではなく、神さまの聖なる世界にあるということです。そのことをはっきりさせた上で、ヨハネは、もう一歩先へ歩みを進めます。

 ヨハネが見ている先の一つは、「わたしは彼らにあなたのみことばを与えた」(14)とあるところです。「あなたのみことば」とヨハネは、ユダヤ人が伝統として引き継いで来た旧約聖書を意識しているのでしょうが、その頃すでに、マタイ、マルコ、ルカなどの福音書ばかりか、使徒行伝やパウロ書簡も筆写されて諸教会に広まっており、いわゆる「新約聖書」が出来上がりつつありました。その中にヨハネによる黙示録や福音書も加えられて行くのですが、それら新約聖書は、未完ではありますが、「神さまのみことば」に数えられつつありました。ヨハネが壮大なイエスさま福音の神学を意図し、構築しつつこの福音書を書いているのは、聖徒たちの信仰にとって、「カノン(基準・正典)」となるべきものを遺しておきたいと思ったからに他なりません。〈教会はローマ・ギリシャの社会に迎合し、儀礼化や宗教化が進行しているが、そんなものを目指し、基準にしてはいけない。「神さまのことば」こそ、イエスさまの聖徒たちが聞くべきものである。みことばが聞かれるところでは、パラクレートスご自身も助けてくださるのだから……〉と。

 彼が見ている先のもう一つは、「真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです」(17-19)とあるところです。何回も「聖別」ということばが出て来ますが、これは、先に触れたように、「神さまに属する者となる」ということです。イザヤ書にこうあります。「主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ……」(61:10) それは、バプテスマを受けるなどの儀礼的入会式を指すのではなく、魂の奥底から神さまのものになることを意味しています。神さまの民となるには、神さまからの招きと清めが絶対条件なのです。招かれた者は、その招きを聞いて、応えるかと問われているのです。「はい」と応えて、神さまの世界を受け継ぐ者となりたいではありませんか。真理とは、神さまの世界、神さまの価値観、神さまの恩寵、神さまの知恵……、を指しているのですから。


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