ヨハネによる福音書


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神さまの民とされて
ヨハネ   17:1-8
レビ記 16:29-34

Ⅰ 大祭司の祈り

 「イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた」(1)と、17章が始まります。これはイエスさまの祈りです。イエスさまはしばしば夜を徹して祈られ(ルカ6:12)、朝早く山に登り、ガリラヤ湖のほとりに行って(マルコ1:35)祈られました。しかし、その祈りの内容が記された記事は、主の祈りとゲッセマネの祈り、そしてこの17章と、三回しか見られません。その意味で今朝のテキストは、ヨハネの加筆や編集があったとは思われますが、イエスさまの祈りを知る上で、極めて貴重な記録と言えましょう。時期的にはゲッセマネの祈りに近いのですが、内容が全く異なりますので、最後の晩餐の席、あるいは、オリーブ山山腹での祈りと思われます。今、イエスさまは、この世を去るに当たり、残して行く弟子たちのために執り成しの祈りをしているのですが、これはアレクサンドリアのキュロス総主教(376-444年)によって「大祭司の祈り」と呼ばれ、その名は定着して今に続いています。出エジプト以来、イスラエルが守り抜いて来た聖所には、幕屋でも神殿でも、大祭司だけが入ることの出来る至聖所があり、大祭司は年に一度そこに入り、民の罪のために神さまに執り成しの祈りをささげました。これが「大祭司の祈り」と呼ばれています。今、イエスさまは、人々の罪の身代わり(=贖罪)となって十字架に死のうされていますが、それは弟子たちとの別れを意味しています。しかしイエスさまは、それらのことを見据えながら、彼らを神さまの御手に委ねたのです。「大祭司の祈り」とは、まことにふさわしい呼び名ではありませんか。

 「父よ。時が来ました」(1)とヨハネは、「イエスさまの時」が来たことを強調しています。「あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください」(1)「今は、父よ。みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください」(6)と、このフレーズで何回も繰り返される「栄光」は、この「時」の中で現わされると聞かなければなりません。これは、「あなたがわたしに行わせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました」(5)とあるように、イエスさまの十字架の死を指しているのでしょう。それは、「よみがえり」と、それに続く「高挙(天に帰られる)」をも含んでいます。天に帰られたイエスさまは、この世に来られる前に持っておられた栄光を御父から受けられるのです。それは御子イエスさまの栄光だけに留まらず、本来、御父が有しておられた栄光であって、一括して「神さまの栄光」と言っていいのではないでしょうか。


Ⅱ 主の前に膝をかがめ

 その「神さまの栄光」が、今、最高の輝きを輝かそうとしています。「それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。その永遠のいのちとは、彼らが唯一まことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」(2-4) 「すべての人を支配する権威」とあります。この「権威」は、「栄光」の具体的内容に踏み込んだもので、新共同訳や岩波訳は「権能」、New Engulish Bibleは「主権」と訳していますが、それらの訳の方がいいでしょう。しかし、権能にしても、主権にしても、それは本来イエスさまが神さまご自身として持っておられたもので、ここに「与えられた」とあるのは、聖徒たちを含んでのことであると、これはヨハネ神学の全貌を示す言い方と聞こえます。彼ら聖徒たちには、「永遠のいのち」が約束されました。「永遠のいのち」は、ヨハネがこれまでに何度も繰り返して来た、この福音書の中心主題です。これは最初に3:15で取り上げられましたが、そこで私たちは、「永遠のいのちとは、十字架に贖われた新しいいのちに満たされ、私たちが天上の御国へ移されることを意味する」と学びました。「新しいいのち」は、もともと先在のロゴスであるイエスさまが持っておられた「いのち」のことなのでしょう。1:4には、「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった」とあります。その箇所をNTDは、「人を生きたものたらしめる真の神的生命を意味する」と印象深く註解しています。

 「すべての者」とは、「すべての肉なる者」という一個の塊を指すヘブル的言い方で、もともとそれは全人類を指しますが、そこには「永遠のいのちを与える」と条件が付いていますから、肉なる者が永遠のいのちを授与されるために、「永遠のいのちとは、彼らが唯一まことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることである」という、条件がクリアされなければなりません。ここで言われる「知る」は、ユダヤ人的ニュアンスでいう全人格的体験のことですから、信仰告白と聞いていいでしょう。イエスさまの十字架に罪を贖われ、救いに招かれた「すべての肉なる者」の共同体は、イエスさまのよみがえり、高挙、そして、イエスさまを遣わして救いの計画を成就されたすべての「神さまの恩寵」を、信仰告白をもって受け止めるのだと覚えて頂きたいのです。「神さまの栄光」が、今、最高の輝きを輝かそうとしている。それは、イエスさまの共同体が一つ心となって、主の前に膝をかがめ、賛美し、礼拝することではないでしょうか。現代神学には「gott für uns. 我らのための神」という言い方がありますが、「神さまは私たちの神であることを望んでおられる」という意味です。今、ヨハネが構築しようとしている神学には、その片鱗が見られるようです。


Ⅲ 神さまの民とされて

 「イエスさまの時が来た」とヨハネは、「イエスさまの祈り」の第一フレーズを、イエスさまの「栄光」から始め、その「栄光」は、私たちが主を礼拝することで最も輝いていくと語っています。今、ヨハネはこのフレーズを、このように閉じます。「わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました。彼らはあなたのものであって、あなたは彼らをわたしに下さいました。彼らはあなたのみことばを守りました。いま彼らは、あなたがわたしに下さったものはみな、あなたから出ていることを知っています。それは、あなたがわたしにくださったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、また、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。」(6-8)

 「世から取り出して」とあります。ギリシャ世界で「世・コスモス」は人間主権の秩序を意味しますが、その「世」は、創造主にして唯一全能なる神さまを否定し、しばしば、教会に敵対して来ました。紀元一世紀末の教会には、そんな「世」の迫害とそれによる殉教もあって、いくつもの問題が生じていました。ヨハネは、それらの問題と向き合いながら、「神さまが聖徒たちを世から選び出し、ご自分の民として下さった」と、確信に満ちた証言をしています。彼らは神さまのもので、神さまが彼らをイエスさまに下さったのです。聖徒たちは、「自分たちが神さまに属する者である」ことを、知らなければなりませんでした。ヨハネの断定は、神さまの決定と聞いていいでしょう。それは、現代の私たちにも言えることです。「イエスさまを信じた」というその信仰に確信が持てないまま、何らかの誘惑や試練があって、教会から離れてしまう。そんな人たちが続出している現代です。しかし、聞いて下さい。あなたがイエスさまを選んだのではなく、神さまがあなたを選んで下さったのです。これまで私たちは、ヨハネから、「イエスさまは天上のロゴスであり、御父に遣わされて世に来られ、人の子として地上を歩む神となられた」、「私たちは、そのお方に招かれ、そのお方と共に、神さまご自身の不思議を見、その啓示を聞いて来たではないか」と聞いて来ました。この福音書は、パラクレートスに支えられた、ヨハネの信仰告白でもあるのです。同じ信仰告白にあなたがたも招かれていると、ヨハネは、現代にまで建てられ続いて来た、イエスさまを頭とする共同体に語りかけているのです。この問いかけに、あなたがたも信仰の告白をもって応えて欲しい。喜びに溢れる礼拝を主に献げて欲しい。これがヨハネの願いでした。ヨハネを支えて来られたパラクレートスが、現代も黙々と働かれ、私たちを「神さまの民」とすべく、イエスさまの十字架のもとに、信仰に招いていて下さるのです。その招きに応え、神さまの民に加えられた私たちが、途方もないことですが、「神さまの栄光」を輝かすのです。


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