ヨハネによる福音書


72
世に勝ったのです
ヨハネ 16:25−33
エレミヤ 1:17−19

T 神さまのことは神さまの次元で

 「これらのことを、わたしはあなたがたにたとえで話しました。もはやたとえでは話さないで、父についてははっきりと告げる時が来ます。」(25)ここは、「たとえで」というところを「謎めいたかたちで」と訳した、岩波訳が適訳であろうと思われます。それは、弟子たちが神さまの秘儀を理解出来なかった時のことを指していて、やがて「謎めいたかたち」ではなく「はっきりと告げる時が来る」と、「啓示」の形態が変わって来ることを暗示しているようです。神さまについての理解は、どんなに優れた能力であっても、「世」の次元で語り得るものではなく、神さまのことは神さまの次元でしか理解することは出来ないのだと、ヨハネの信仰(=立ち位置)が浮かんで来ます。肝に銘じておきたいところです。ヨハネは、パラクレートスの降臨と信仰者への内在に、今、時が移ろうとしていることを念頭に置いているのでしょう。

 「その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません。それはあなたがたがわたしを愛し、また、わたしを神から出て来た者と信じたので、父ご自身があなたがたを愛しておられるからです。わたしは父から出て、世に来ました。もう一度、わたしは世を去って父のみもとに行きます。」(26-28) 「その日には」という終末的言い方は、イエスさまが去った後の、パラクレートス降臨の時を指しているのでしょう。まさにパラクレートスは、天に帰られたイエスさまが御父と共に私たちのところへ遣わされたお方であり、「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです」(14:18)とあるように、私たちへのイエスさま(と御父)の愛を具現化されたお方と言うことが出来るでしょう。「あなたがたがわたしを愛し、また、わたしを神から出て来た者と信じたので、父ご自身があなたがたを愛しておられる」と聞いて、「世」の誰が「アーメン」と納得できるでしょうか。これは、内在のパラクレートスと共に、イエスさまをわが主と信じた者だけが告白し得ることなのです。パラクレートスは、神さまご自身として、父なる神さまと救い主イエスさまを、そして、その救いの全貌を私たちに教えて下さるお方と聞くことが出来るではありませんか。「イエスさまの名によって求める」、それは、祈りを指しているのでしょう。祈りを聞いて下さるお方はパラクレートスであると、先週、聞いたばかりです。


U 心の耳を澄まして

 弟子たちは、イエスさまのお話しをさえぎって言いました。「ああ、あなたははっきりとお話しになって、何一つたとえ話はなさいません。」(29) この「たとえ話」も岩波訳は、25節と同じく、「謎めいたこと」と訳していますが、イエスさまのお話しは以前と少しも変わっていないのに、弟子たちは突然、その謎めいたことが「分かった」と言うのです。これは彼らの思い込みでしょうか。そうではないようです。ヨハネは、自分もそこにいた者として、彼らのことばを「いま私たちは、あなたがいっさいのことをご存じで、だれもあなたにお尋ねする必要がないことがわかりました。これで、私たちはあなたが神から来られたことを信じます」(30)と続けますが、これは恐らくヨハネの創作と編集であって、ヨハネは、パラクレートス降臨を受け止めた使徒行伝二章を念頭に、迫害と殉教という終末的状況に直面している紀元一世紀末の世界の教会に、語りかけているのでしょう。だからと言って、紀元一世紀末のキリスト者たちがイエスさまのことばを正確に受け止めていたとは言い難く、少なくともヨハネは、イエスさまを信じるとはそのように聞くことであると、当時のクリスチャンたちの信仰告白がより高みへと達することを願っていたようです。かつての弟子団がパラクレートスに助けられながら危険一杯の時代を福音の証人として歩んで来たように、異邦人教会の人たちもまた、パラクレートスの保護の下で、この時代の証人とし立てられているのだと……。それは、現代の私たちにも当て嵌まることではないでしょうか。

 「イエスさまがいっさいのことをご存じで、」とは、神さまの全知能力を指しています。イエスさまは神さまから遣わされて世に来られた先在のロゴス・「地上を歩む神さま(=人の子)」であると、この福音書をそのように書き進んで来た、ヨハネ自身の信仰を言っているのでしょう。そこに到達してほしいとヨハネは、パラクレートスご自身が彼らを、そして現代の私たちをも、その高みへと引き上げて下さると期待しているのでしょうか。パラクレートスのお働きは、イエスさまの現代化であると何回も繰り返して来ましたが、それがヨハネの、イエスさまの啓示を引き継いだ者としての、信仰なのです。現代、その信仰がどこかおかしくなっているようです。しかし、心の耳を澄まして、声なき声をもって語りかけて下さる、パラクレートスの声を聞こうではありませんか。そこに、十字架に私たちの罪を贖い、よみがえって天の御父のもとに戻られた、イエスさまの声が聞こえて来るでしょう。何も神秘的な声を……、と言っているのではありません。それが「聖書に聞く」ということなのです。


V 世に勝ったのです

 弟子たちは、「見なくなる」「また見ることになる」(16)とはどういうことだろうかと、イエスさまのことばの意味を探りかねていました。それなのに、質問することをためらっていたのです。しかしイエスさまは、彼らの信仰告白(まだ、いくつもの疑問符がつく……)にはそれなりの痛みが伴うと、警告を込めて答えられました。「あなたがたは今、信じているのですか。見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれの家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています。しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです。」(31-32) すでに「世に属する者」と「神さまに属する者」との戦いが始まっていました。イエスさまが彼らと一緒にいる間は、「世(=サタン)」の憎しみはイエスさまに向けられていましたが、じきにその牙は弟子たちに向けられるでしょう。ここでは、その戦いにおいて、「世」は弟子たちを狙い、その信仰は非常な危機にさらされると予告されているのです。弟子たちは、その戦いが、極めて困難な戦いになることを覚悟しなければなりませんでした。「世」は、あらゆる権力を動員して来るからです。

 その中でヨハネが「イエスさまはひとりではない。御父がいっしょにおられるからだ」と強調したのは、世界に広がった教会が、イエスさまの死を、「世」との戦いにおける敗北と思っていたからでしょう。しかし、イエスさまの死は、十字架の救いであって、世が慕う罪に対する勝利でした。聖徒たちは、この戦いはパラクレートスばかりでなく、イエスさまと父なるお方までが参戦された、「神さまの」総力を挙げての勝利だと、知らなければなりませんでした。ヨハネは、イエスさまの長い決別説教(13:31-16:33)を、「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」(33)と、締め括ります。「世」が与えるのは患難であって、神さまの平安ではない。そもそも「世(=コスモス)」は、ギリシャ世界では「世界の事物をまとめる何らかの秩序ないし法則」を指し、そこから「世界」とか「宇宙」という概念が出て来たのですが、それは現代も踏襲している人間の価値基準であって、神さまが創造された「世界」や「宇宙」ではありません。その本質は人間賛美であり、そこでは、神さまは、コスモスの秩序を破壊する存在としか映っていません。ヨハネは、そんな「コスモス」を、「神さまの世界」に対立する「人間の世界」、実在する神さまを見つめる信仰者の前に立ちはだかる、敵対する実存と見ています。その二つの価値観がイエスさまを挟んで衝突したのはごく自然なことで、それはすでに、イエスさまの十字架において決着がついた筈でした。しかしそれは、聖徒たちの戦いへと軸足を移し、現代もなお続いているのです。そんな中で、イエスさまを救い主とする私たちは、十字架のイエスさまはすでに世に勝利したと宣言する、ヨハネの信仰に倣いたいのです。パラクレートスなしでも同じ表現になるのかも知れませんが、それは信仰告白ではなく、内在のパラクレートスに突き動かされた信仰告白とは全く違うものです。そこには、神さまがいるかいないかという、決定的な違いがあります。私たちも、ご自分を無にしてイエスさまを指し示すパラクレートスと共に、十字架のイエスさまを「わが主」と告白し、天に凱旋する日を待ち望みつつ、信仰の戦いを戦い続けようではありませんか。


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