ヨハネによる福音書


71
聞いてくださるお方と
ヨハネ 16:16−24
出エジプト    3:7

T 「また見ることになる」と

 「しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます。」(16)とこれは、14:23から16:16まで続く切れ目のない、ヨハネが鉤括弧で一括りにした、イエスさまのことばの最後に置かれているものです。このことばを弟子たちが繰り返し、その意味が何であるか、彼らの間で議論が起こりました。そして、イエスさま最後のメッセージが始まります。

 弟子たちのうちのある者たちが、互いに言いました。「『しばらくするとあなたがたは、わたしを見なくなる。しかし、またしばらくするとわたしを見る。』また『わたしは父のもとに行くからだ。』と主が言われるのは、どういうことなのだろう。」(17) そしてヨハネは、もう一度同じ議論があったことを明らかにし、「しばらくすると、と主が言われるのは何のことだろうか。私たちには主の言われることがわからない」(18)と繰り返します。分からないままに、議論だけが沸騰していたのでしょう。この議論を現場にいたヨハネは、省略したりまとめたりせずに、19節を含め三度も繰り返したのは、彼らの疑問とそれにお答えになったイエスさまのメッセージが、14-16章と続いた決別説教を飾る最後の部分の中心主題となっているからです。

 ところで、「しばらくすると」「見なくなる」「また見ることになる」とイエスさまが言われたことで、ここには語られていませんが、これまでヨハネが伏線として来たことに触れておきましょう。一つは、間もなくゲッセマネの園でのイエスさま逮捕という出来事があり、イエスさまの受難が始まるということです。イエスさまの死が刻一刻と近づいていました。しかし、その死は一時のもので、弟子たちはよみがえりのイエスさまにお会いすることになるのです。「また見ることになる」と言われたのは、そのことを指しているのでしょう。と同時に、イエスさまを信じる者たちの共同体は、昇天されたイエスさまが「わたしはあなたがたに助け主を遣わす」(14:16、15:26、16:7)と繰り返し言われた、パラクレートスなるお方を介しての再会と、そして、終末時の再会も覚えなくてはなりません。

 ヨハネのこのメッセージは16章の終わりまで続きますが、長いので今回は24節までにします。
ヨハネ自身も含め弟子たちは、数時間後に迫っているイエスさまの死が、全く見えていません。ぼんやりと、何らかの危機を感じてはいましたが、これまでにもそんなことは何度もあり、その度にイエスさまはそれをくぐり抜けて来られたのです。ですから、自分の命と引き替えにしていいとさえ思っている愛するイエスさまが死に渡される、しかも、十字架という極刑で逝ってしまうなど、想像すらしていませんでした。それで、「主は、なぜそんなことを言われるのか」と、彼らの議論は、イエスさまのことばに反応したのです。しかし、彼らの本能は今回の危機の重大さを感知していて、直接お尋ねすることをためらっていたと言えるでしょう。


U 世との戦いの中で

 イエスさまは、弟子たちが質問したがっているのを知って、言われました。
 「『しばらくするとあなたがたは、わたしを見なくなる。しかし、またしばらくするとわたしを見る。』とわたしが言ったことについて、互いに論じ合っているのですか。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたは泣き、悲しむが、世は喜ぶのです。あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。」(19-23)

 「アーメン、アーメン、汝らに告ぐ」と定型の注意喚起文で一呼吸置いたヨハネは、弟子たちがイエスさまを「見なくなる」、そして「また見ることになる」ということの内容に踏み込みます。「あなたがたは泣き、悲しむが、世は喜ぶ」とヨハネは、そこからこの16節以降16章終わりまでのフレーズを始めようとしていますが、この対立は、ヨハネが15:18から述べて来た「世に属する者と神さまに属する者との戦い」を、このフレーズでも語り継ごうとしているからです。隠されてはいますが、「世」と「神さま」との戦いが、このフレーズの中心主題なのです。イエスさまが十字架に処刑され、墓に葬られた後、弟子たちは最後の晩餐を行なった部屋に閉じこもり、自分たちにまで危害が及ばないよう閂をかけて、途方に暮れていました。しかし「世に属する者」たちは、これは自分たちの勝利であると、喜びに浸っていたのです。イエスさまを信じる者たちの悲しみや苦痛が「世」の喜びであると、ヨハネは、イエスさまを天に送って後、七十年にも及ぶ戦いの中で、痛みと共にいやと言うほど味わって来たのではないでしょうか。いや、七十年どころではない。その戦いは私たちをも巻き込み、今なお続いているのです。


V 祈りを聞いてくださるお方とともに

 しかし、「世の勝利と喜び」は錯覚に過ぎないのだと、ヨハネは、迫害と殉教のさ中にあるローマ・ギリシャ世界のイエスさま共同体に向かって、そう言いたかったのでしょう。なぜなら、このフレーズを閉じる最後をヨハネは、「わたしはすでに世に勝ったのです」(33)と、イエスさまを信じる者たちの勝利宣言で飾っているからです。ヨハネは、イエスさまにまたお会いできる喜びを、子どもを産んだ時の母親の喜びに譬えました。いのちとはそのように受け継がれて行くものだと、迫害と殉教の苦しみの中でなお生まれて来る、新しいいのち(クリスチャンたち)のことを言っているのでしょう。その喜びは断じて錯覚などではなく、生まれた子どもたちが、自分たちを証拠として、それを教えてくれるのです。母親は、生まれて来た我が子を見た時、産みの苦しみを忘れてしまいます。母なる教会も、同じではないでしょうか。しかし現代、しばしばクリスチャンたちでさえ、世の現実味ある生き方に比べ、イエスさまを信じる信仰など実体のない幻影に過ぎないのではないかと錯覚し、教会から脱落して行くのですが、ヨハネは、「世に属する者と神さまに属する者との戦い」の中で生まれた子どもこそその実体であると、イエスさまを信じる信仰に軍配を上げているのです。その通り、激しい迫害のさ中にも、イエスさまの共同体は大きく膨らんで来ました。それは、「ご自分に属する者の広がり」にこそ勝利の実体があるとする、神さまの判定ではないでしょうか(イザヤ54:2-8)。「世に属する者」の勝利は、錯覚に過ぎないのです。

 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。あなたがたは今まで。何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです」(23-24)とあります。「求めなさい。そうすれば受けるのです」と、ここでは「祈り」のことが語られているのでしょう。私たちに内在し、「世」と「神さま」との戦いに全力を傾けつつ参戦して来られたパラクレートスが、私たちの祈りを聞いて下さるのです。パラクレートスの存在は、ご自身の意志もあって、表には出て来ませんから、実体などないもののように感じてしまうのですが、そのお方は、よみがえりのイエスさまが、私たちに会い、喜びとなってくださる、その実存の中核を担い、私たちにイエスさまを示して下さるのです。このお方を通して、イエスさまは私たちにご自分を現わして下さると聞いていいでしょう。そして、そのように聞いている私たちの内なる魂に確信を与え、救いの喜びを満たし、父なる神さまの恵みとイエスさまの愛を保証して下さるのも、パラクレートスなのです。私たちの祈りは、「世」よりもずっとずっと私たちに近く、すぐそばにおられるパラクレートスが聞いて下さるのですから、迷わず祈り続けようではありませんか。祈りを聞いて下さるお方と共にいる。これがヨハネの変わらぬ立ち位置でした。現代の私たちも、どんなに世の人たちにあざ笑われようとも、ヨハネが立っていた主のそばに、立ち続けようではありませんか。


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