ヨハネによる福音書


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パラクレートスに委ねて
ヨハネ 16:4b−15
詩篇 119:41−48

T 助け主をあなたがたに
 
 「世に属する者」と「神さまに属する者」との戦いが語られています。ヨハネは、イエスさまのお話しとしながら、ローマ・ギリシャ世界に建てられた教会の立ち方に心を砕いているのでしょう。今朝のテキストは先週の続きですが、「わたしが初めからこれらのことをあなたがたに話さなかったのは、わたしがあなたがたといっしょにいたからです」(4b)と始まります。先週、「もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい」(15:18)と聞きました。イエスさまが弟子たちと一緒にいる間は、「世」の憎しみはイエスさまに集中し、弟子たちにまでは至らなかったのですが、イエスさまが盾になって下さるそんな状況は、いつまでも続きません。「今わたしは、わたしを遣わした方のもとに行こうとしています」(5)と、イエスさまとの別離を境に、「世」の弟子たちに対する憎しみが噴き上がって来るのでしょう。第一段階である十字架の出来事は、数時間後に迫っていました。好奇心からか、のんびりと、「主よ。どこにおいでになるのですか」(13:36)などと尋ねている、そんな状況ではありません。「しかし、あなたがたのうちには、ひとりとして、どこに行くのですかと尋ねる者がありません」(5)とこれは、その時、切迫した空気が弟子たちを覆っていたことを示しているようです。「かえって、わたしがこれらのことをあなたがたに話したために、あなたがたの心は悲しみでいっぱいになっています」(6)とヨハネは、その時の弟子たちの動揺を思い出しています。

 「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします」(7)と、イエスさま約束のパラクレートスが弟子団の要として来られたことを、ヨハネは回想しているのでしょう。あれから六十年以上もの年月が経っています。ユダヤにいた時も、エペソに来てからも、どれほどパラクレートスに助けられて来たことでしょう。ヨハネにとってそのお方は、イエスさまの暖かい目をいつも感じさせて下さる存在だったのではないでしょうか。そのお方が助けてくださっての、教会の広がりでした。


U 神さまの法廷で

 「世」を中心主題とするヨハネのメッセージが、佳境に入って来ます。「彼(助け主・パラクレートス)が来るとき、罪について、義について、さばきについて、世を咎めるであろう」(8・King James Version)とヨハネは、「世に属する者」と「神さまに属する者」との戦いに、「神さまに属する者」の力強い味方として参戦された、パラクレートスの働きを総括しているのでしょう。手持ちの翻訳聖書から、最も原典に近いと思われる欽定訳を採用しました。「罪について」「義について」「さばきについて」とあります。そのいづれについても「世」は、咎められていることとどう向き合うのかが問われている、と認識しなければなりません。それなのに「世」は、ヨハネの時代だけでなく、現代まで続くどの時代においても答えて来なかったばかりか、その問いの前に立つことさえ拒否して来ました。なぜ拒否したのかということも含め、これらの問題を世が正しく認識して来なかったのはなぜでしょうか。そもそも、「咎める」は「責める」「摘発する」「きびしく咎める」という裁判用語ですが、今、パラクレートスは、ユダヤ社会や後期ユダヤ教だけでなく、異教社会という世界的規模での「世」を、罪ありと、神さまの法廷に告発しているのです。

 9-11節に、「罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです」と、「世」が向き合わなければならない告発状が読み上げられます。第一に、イエスさまを信じない状態を「罪」とするこの信仰に「世」は「否」を唱えましたが、その「世」が、不信仰者として告発されているのです。第二に、イエスさまの死は神さまに棄てられたのであって、それは、イエスさまとパラクレートス側の敗北を意味し、「世」は勝利と義を獲得したはずでした。しかし、イエスさまは、「死」と「罪」に勝利して天へ凱旋、高挙されたのであって、だからこそ、告発者パラクレートスが遣わされて来ました。「神さまの義」はイエスさまとパラクレートス側にあって、「世」は義なき者として告発されているのです。第三に、「世」はイエスさまの十字架の死を、裁かれて刑に服したと見なしましたが、神さまは、十字架にお掛かりになったイエスさまこそ、この世に属する者とその支配者・サタンを征服し、告発者パラクレートスと共に裁きの座に着かれると言われるのです。裁きの座に被告として立たされるのは「世」であって、神さまの法廷で「世」は、有罪と判定されるのでしょう。


V パラクレートスに委ねて

 パラクレートスのことで、ヨハネは更に二つのことを語ろうとしています。
一つは、「わたしは、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。しかしその方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです」(12-13)、とあるところからです。ここでヨハネが書き記したのは、イエスさまのお話すべてではありません。特に、「あなたがたはそれに耐える力がない」「やがて起ころうとしている」とあることを考えますと、ヨハネがここで取り上げなかったのは、共観福音書が大きく扱った「終末」(マタイ24章)のことではないかと思われます。イエスさまが遣わされ戻られるところを御父の御国としていることを基軸に、ヨハネの「終末」に関する説話がここで取り上げられたなら、きっとそれは、共観福音書の記事をはるかに超えた、黙示録を著したヨハネならではの壮大な記事になったことでしょう。しかし、神さまを知らない異邦人社会では、たとえ「神さまに属する者」であっても、天変地異のことはともかく、迫害と苦難と忍耐と審判と……、そんなすさまじい信仰の戦いを戦い抜く備えの必要を理解することは、難しかったに違いありません。神さまの選民とされたイスラエルでさえ信仰の離脱を起こしましたし、神学等十分な訓練を受けた人たちの中でさえ脱落者が耐えなかった……と、それが現代まで続く、長い歴史を刻んで来た教会の現状です。

 そこから抜け出て神さまの世界に入る、その鍵を握るお方がパラクレートスなのです。そのお方の助けがあって私たちは、苦難や困難を切り抜け、神さまの真理と向き合うことが出来るのでしょう。信仰とは、パラクレートスが私たちの内に形成してくださる、神さまの力なのですから。

 もう一つ、「御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです」(14-15)とあります。「わたしのもの」とか「父が持っておられるもの」と曖昧な言い方が続きますので、註解者たちの解釈も、「イエスさまが持つ啓示の働き」とか「天より来る真理」など漠然としたものが多いのですが、「御父のもの」も「イエスさまのも」のも、その文章構造が意図し向かうところは「イエスさまの栄光」であって、それは唯一、よみがえりと昇天をもって補填される、イエスさまの十字架を指しているのです。イエスさまの十字架は私たちの罪の赦しであり、神さまとの和解も、御国への招きも、この世における証し(=福音の宣教)も、一切がそこに根ざしているのです。これを御父神さまと御子イエスさまが計画された「救いのみわざ」として、それを私たちに取り次ぐために、パラクレートスが来られたのです。パラクレートスのお働きは、イエスさますべての啓示の現代化であって、私たちの目を神さま(御父と御子イエスさま)に、その啓示の中心である十字架による神さまとの和解に、向けて下さるのです。私たちも、多様な価値観が乱立するこの現代社会で、パラクレートスなるお方に一切を委ね、臆することなく、「私たちはイエス・キリストの十字架によって救われた者である」と、最高の旗印を掲げて立ち続けようではありませんか。


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