ヨハネによる福音書


69
静まって神さまを
ヨハネ 15:18−16:4a
詩篇     46:1−11

T 神さまに敵対する世が

 「もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。」(18) 先週、神さまを忘れた人たちに、イエスさまこそ神さまと人とをつなぐ中保者であり贖罪者であると、ヨハネの強烈なメッセージを聞きました。彼は、そのように遣わされて自分たちのところに来られた「人の子」を受け入れない世のことを、教会の人たちに伝えておかなければと思ったのでしょう。今朝のテキストでヨハネは、これまでにも断片的に語って来た、イエスさまの福音とは別のもう一つの中心主題、「世」のことを集中的に取り上げます。ユダヤ人がイエスさまと弟子たちの迫害に走ったのも、また、ローマ・ギリシャ世界に迫害と殉教の時代が訪れたことも、世がイエスさまを憎んだことに端を発しているのです。その「世」の憎しみを、考えてみたいと思います。

 ヨハネは続けました。「もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。」(19) イエスさまが君たちを選び出し、ご自分のものとしたために、世は君たちを憎んだのだと、ヨハネの論理は明確です。「世」は、君たちを、自分に属する者と思っていたのですから。この世が属する世界と神さまの世界、ヨハネは彼の特徴的二元論を展開しながら、「世」のことを掘り下げていきます。「この世」と「神さま」は互いに相容れない対立概念ですが、ヨハネはそれを、この世が神さまに敵対する「罪」によって立っているからだと指摘します。しかし、世のことを語りながらヨハネは、教会の人たちに、神さまの世界をもっとよく知って欲しいと願っているのでしょう。

 ところで、ちょっと心に留めて頂きたいのですが、ヨハネの時代と現代には、宗教を受け入れることで、共通点があります。それは、アミニズム的宗教形態を取るものであっても、高度に神学化された宗教形態を取るものであっても、ある意味、自分たちの社会形態に沿った「宗教」は受け入れるが、自分たちの理解を超えたものは徹底して排除しようとする姿勢です。つまり、自分たちの側につかない福音は、異次元のものとして排除されるのです。その意味で、古代社会はキリスト教を無神論と決めつけました。祭壇もなければ、祭祇も見当たらないからです。恐らく、当時の教会が儀礼化や異教化や宗教化に拘ったのは、その辺りの事情を映し出しているのでしょう。「世が自分のものを愛し、イエスさまとイエスさまを信じる者を憎んだ」とあるのは、その意味においてなのです。


U 膨らみつつある聖徒への憎しみは

 ヨハネはさらに言葉を変えて続けます。「世・コスモス」という意識はヘブル語で書かれた旧約聖書にはなく、宗教を意識し始めた後期ユダヤ教が用い始めたものですが、そんなユダヤ人の意識をローマ・ギリシャ世界における教会の儀礼化等に重ねたヨハネは、「この(神さまに敵対する罪の)世」への挑戦を試みました。「しもべはその主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい」(20)とこの序文は、聖徒たちがイエスさまにつく者であることを強調する修飾句になっていて、ヨハネは、教会の人々に、イエスさまにつく者としての信仰告白を求めているのです。その上で、「世の人々」の「イエスさまにつく者」への憎しみが激化するのだと予告しています。

 「もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。もし彼らがわたしのことばを守ったなら、あなたがたのことばをも守ります。しかし彼らは、わたしの名のゆえに、あなたがたに対してそれらのことをみな行ないます。それは彼らがわたしを遣わした方を知らないからです。もしわたしが来て彼らに話さなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。しかし今では、その罪について弁解の余地はありません。わたしを憎んでいる者は、わたしの父をも憎んでいるのです。もしわたしが、ほかのだれも行なったことのないわざを、彼らの間で行わなかったのなら、彼らには罪がなかったでしょう。しかし今、彼らはわたしをも、わたしの父をも見て、そのうえで憎んだのです。これは、『彼らは理由なしにわたしを憎んだ。』と彼らの律法に書かれていることばが成就するためです。」(20-25)

 イエスさまのことばと行為は、人々を罪に定めましたが、それは神さまからの、恵みへの招きだったのです。しかし、彼らはそうは受け止めず、それは自分たちを神さまへの敵対者にしていると聞きました。これは彼らの誤解なのでしょうか。そうではありません。彼らにとって、イエスさまがそこにおられるということ自体が、目障りだったのでしょう。自分たちを見ているお方が存在する、それは、彼らが心を閉ざす立派な理由だったのではないでしょうか。「彼らは理由なしにわたしを憎んだ」と、これは詩篇35:19の預言ですが、まさに神さまに対する人間の言い分が集約されているようです。ヨハネの時代も現代も、そして、キリスト教の全盛時代を通しても、神さまを排除する唯一の理由は、「私は断じて神さまを認めない」とする人間の本性が溢れてのことなのです。


V 静まって神さまを

 「世に属する者」と「神さまに属する者」の、戦いが始まりました。「世に属する者」は「神さまに属する者」を迫害し、棄教を迫りました。ところが、「神さまに属する者」は、「世に属する者」がイエスさまを信じ、仲間になることを願ったのです。「世に属する者」は皇帝と世のあらゆる権力を味方につけましたが、「神さまに属する者」の味方となったのは「助け主」でした。「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。あなたがたもあかしするのです。初めからわたしといっしょにいたからです」(26-27)と、ヨハネは懐かしい主の目を感じていたのかも知れません。イエスさまを天に送った後、聖徒たちは、「助け主」と共にイエスさまを証しするようになるのです。「初めからわたしといっしょにいたからである」と、この句は象徴的です。弟子たちもなのでしょうが、聖霊はなおのことイエスさまを良く知っておられ、その助けによって語られる証言(聖書)は、イエスさまの「今」を余すところなく指し示しているからです。イエスさまの福音は、決して過去の空虚な繰り返しではなく、現在も、輝く光に照らされながら、繰り返し想起するものなのです。「世に属する人たち」の一番手は、後期ユダヤ教の人たちでした。彼らはまず、キリスト者たちを会堂から追放する決定をします。「人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。事実、あなたがたを殺す者がみな、そうすることで自分は神に奉仕しているのだと思う時が来ます」(16:2)と、追放令は、ユダヤ戦争後の紀元85年、ユダヤ人学校が開かれたヤブネで出されましたが、ヨハネはそれを念頭にユダヤ人による迫害を、そして、「あなたがたを殺す」という一文をも加え、ローマ皇帝たちによる激しい迫害が始まることに言及しました。すぐに迎える紀元二世紀の、トラヤヌス帝治下のクリスチャンたちは、キリスト教徒であることが判明し、棄教を強要されながらも同意しない場合、殉教の道を辿ることになります。

 「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずくことのないためです」(16:1)「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、その時が来れば、わたしがそれについて話したことを、あなたがたが思い出すためです」(4a)とヨハネは、この箇所を締め括ります。「つまずく」は「罠にかかる」の意です。権力者は「世」の知恵を総動員して聖徒たちを罠にかけ、棄教に追い込んで行くのですが、今、多くの人たちが教会から離れていることを考えますと、私たちへの「世」の攻撃は、私たちをイエスさまから引き離すことであり、これからも恐らく、この方法が踏襲されると思っていいのではないでしょうか。そして、キリスト教自身が、多くの人を異端審問にかけ、神さまの名において殺して来た歴史を持ちます。人を罠にかけ、つまずかせたキリスト教、それほどに世(=サタン)の策略は巧妙で、悪意に満ちているのです。そんな中で、「彼らがこういうことを行なうのは、父をもわたしをも知らないからです」(3)と言われます。「知る」とは、全人格的なあらゆる機能を駆使して選択や判断を決定する行程を意味し、「信仰」と言い換えていいでしょう。その信仰を、聖霊が整えて下さるのです。その助け主のもとで、「静まって、われの神たるを知れ」(詩篇46:10・文語訳)とあるように、静まって、創造主にして救い主なる御父とイエスさまを覚えようではありませんか。



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