ヨハネによる福音書



主の愛に生きる者と
ヨハネ 15:9−17
ゼカリヤ 2:6−13

T 主に留ま

 「ぶどうの木」の象徴説話で、「イエスさまにとどまりなさい」と繰り返し語られました。そして今、ヨハネは、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい」(9)と、愛をテーマに、今朝のテキスト9-17節を始めます。「イエスさまの愛」を通して、ヨハネには、ローマ・ギリシャ世界に建てられた教会の人たちに、伝えなければならない大切なことがあったのでしょう。そもそも、この愛は、「あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです」(17)とあるように、「新しい戒め」(13:34)に見られる愛の勧めなのです。「イエスさまにとどまりなさい」と始めたところが「イエスさまの愛の中にとどまりなさい」となり、そして、「もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです」(10)と、ヨハネのメッセージは次第に深味を帯びて行きます。そのように変化して行くヨハネの意識の中に、何があったのでしょうか。彼の中心的なメッセージは何を指し、どこに向かおうとしているのかを、さぐってみたいと思います。

 そのことを理解するために、先週触れた二つのことを繰り返しておきましょう。一つは、「わたしはまことのぶどうの木」(1)と、排他的形容詞「まことの」をつけることで、「まこと」でないものが教会に蔓延りつつあると、ヨハネの危機意識が見られることです。紀元一世紀末の、迫害と殉教が激しくなって来る教会には、生き延びるためなのでしょうか、儀礼化や異端化といった誘惑が次第に表面化していました。「異端化」は、おもにグノーシス主義との接触から生まれて来たものですが、その一つであるマンダ教には、生命の木をぶどうの幹に譬え、個々人の魂をその枝とするグノーシスの特徴的二元論を骨子とした、「ぶどうの木」の象徴説話があります。そんなサタンの攻撃に打ち勝つには、「まことのぶどうの木」であるイエスさまに結びついていなければならないと、これがヨハネの勧めでした。もう一つのことは、「……枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。……何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられる」(6-8)を、イザヤ書の「わが愛する者は、よく肥えた山腹にぶどう畑を持っていた。彼はそこを掘り起こし、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、酒ふねも掘って、甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた。ところが、酸いぶどうができてしまった」(5:1-2)と比べますと、奇妙なことに、祝福より裁きが先に語られているのです。これは、もともと神さまに祝福されていたイスラエルが、儀礼化と異教化という信仰の堕落を繰り返して来た中で、祝福と審判が逆転してしまったということなのでしょう。


U 神さまを見失った世界に

 今、ヨハネが、「イエスさまにとどまりなさい」と勧めるのは、イエスさまにとどまる(=イエスさまを知る=信じる)ことで失われた大切なものを取り戻すため、と言えましょう。きっとヨハネは、ユダヤにいた時以上に、神さまなき人の心が荒れすさんで行くさまを実感していたのでしょう。当時のローマ・ギリシャ世界は他のどこよりも先進国であって、現代もそうなのですが、先進国と言われるところほど自分たちの力を過信し、神さまをないがしろにしています。そういった人間には、神さまとの関係を壊わしてしまう、「罪」という問題がありました。神さまに創造され、いのちの息を吹き込まれた人間は、サタンの誘惑に負け、いのちの主である神さまのもとを離れてしまったのです。「もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら……」と言われるのは、守って来なかった歴史があるからで、「新しい戒め」と言われるのも、「古い戒め・律法」があって、ユダヤ人が徹底的にそれに反抗して来たことを暗示しているではありませんか。ヨハネは、それをユダヤ人を代表するイエスさまの弟子たちに当て嵌めて言っているのです。それはローマ・ギリシャ世界の人たちや現代の私たちにも言えることで、現代人にとって、もはや、唯一全能の絶対者であり創造主である神さまの庇護のもとにあったという祝福はその痕跡すら失われ、神さまとの良好な関係はずたずたに引き裂かれて見る影もありません。ヨハネが教会の儀礼化や異端化や宗教化に異を唱え、祝福と審判の順序が逆転しているではないかと指摘するのも、そんな神さまとの関係が、人間の犯し続けて来た「罪」によって破壊され、神さまが見えなくなっていることに起因しているからなのです。

 「イエスさまにとどまりなさい」とこれは、そのように、見失われた神さまとの関係を修復するためでした。神さまは、「罪」によってご自分を見失った人たちのために、贖罪者としてイエスさまを私たちのところに遣わされたのです。仲介者イエスさまを介してでなければ、神さまのもとに帰ることは、断じて出来ません。すると、「わたしの愛の中にとどまりなさい」とイエスさまの愛が語られたのは、十字架の愛であると浮かんで来るではありませんか。ヨハネがこのテキストで言及しているのは、まさに、十字架の愛にほかなりません。「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです」(11)とヨハネは、イエスさまの喜びに触れていますが、それは、これから十字架に掛かかろうというのに、それを喜びでもあるかのように、いそいそと赴かれるイエスさまのお姿を映し出して余りあるものがあります。その辺りのことを、預言者イザヤは克明に描写しました。「(主の僕は、)自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪の咎を自ら負った」(53:11・新共同訳) イエスさまの尋常ではない私たちへの愛が、伝わって来るではありませんか。


V 主の愛に生きる者と

 その愛は、弟子たちの輝かしい未来へ向けられます。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」(12-15) イエスさまは弟子たちを伝道者に任じ、世界へ遣わされました。ヨハネもその一人です。彼は紀元二世紀初頭まで生き残り、アジア州で働いていましたが、その時、仲間たちはすでに世になく、その多くは殉教して行きました。イエスさまが十字架にいそいそと赴かれたように……。伝説でしょうか、ペテロの殉教の様子が伝えられています。逮捕されたペテロがヴァチカン丘の刑場に引き回されて行く時、ひと目大使徒を見ようと押しかけた大勢の人たちの前で、引いて行く役人たちが従者のようであり、ペテロの顔は喜びに輝いていて、まるで帝王のようであった(シェンキヴィッチ「クオヴァディス」)、とあります。まさに輝かしい未来をその手に握りしめた、誇らしげな凱旋ではありませんか。イエスさまが「友」と呼ばれたのも、そんな彼らの殉教をご存じだったからでしょう。こう言われます。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(16)

 イエスさまの愛に生きるようになったから、彼らは多くの実を結んだのではないでしょうか。神さまを見失った人たちに生ける神さまを示し、その恵みを伝え、神さまの民となるよう招いたその招きに、数え切れないほど多くの人たちが応え、イエスさまの愛につながる者となったのです。そんな人たちにでしょうか、ヨハネは、「あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。」(17)と言っています。信仰の儀礼化より、「互いに愛し合うこと」、これこそ最も大切なことであると、彼のメッセージが心に染み通って来るではありませんか。イエスさまの愛に生きる者になりたいと願わされます。



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