ヨハネによる福音書


67
まことのぶどうの木に
ヨハネ 15:1−8
イザヤ  5:1−7

T 高らかな宣言は

 ヨハネ福音書の大きな特徴の一つに、「わたしは〜である(エゴー・エイミー)」と神さまの御名を用いたイエスさまの象徴語句と、象徴説話があります。これまでにもヨハネは、「わたしはいのちのパンである」(6:35)、「わたしは世の光である」(8:12)……と、多くの象徴語句を取り上げて来ました。「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です」(1)とこれは、「良い羊飼い」((10:14-18))と並んで象徴説話に数えられますが、「まことのぶどうの木」が何を象徴し、何を語ろうとしているのか、今朝はそのヨハネのメッセージを聞いていきたいと思います。

 「ぶどう」はいちじくと並ぶユダヤの主要な産物でしたが、旧約聖書では、しばしばイスラエルはぶどうの木に譬えられています。子どもの頃、山ぶどう狩りをしたことがあります。何の手入れもされない山ぶどうは、生き延びるために近くの木々に蔦を絡ませ多くの枝を伸ばしますが、実はたくさんつけるのに大きくはなりません。そして、あちこちに枝を伸ばしながら実をつけていないのもたくさんありました。ガリラヤ湖の漁師だったヨハネも、そんなことを良く知っていたのでしょう。神さまを農夫に見立てて、丁寧にその手入れの様子を描いています。

 ここに「わたしはまことのぶどうの木」と、排他的な「まことの」をつけたのは、「ぶどうの木」を自認する者が数多く出ていたからでしょう。当時、バプテスマ・ヨハネを祖と仰ぐマンダ教(使徒19:1-12にその痕跡が見られ、その一部は現代まで生き延びている)のグノーシス伝承には、生命の木をぶどうの幹に譬え、個々人の魂をその枝とする、「ぶどうの木」の象徴説話に似た二元論の教えが見られるそうです。この教えは、初期教会に深く関わり、教会の異端化、堕落化に大きな影響を及ぼしたと考えられています。ヨハネは、教会がそうした異なるものに惹かれて行く様子を見て、イエスさまこそ「まことの」ぶどうの木であると高らかに宣言しました。ところで、「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多くの実を結ぶために、刈り込みをなさいます。あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです」(2-3)と、これは6-8節にも繰り返されるテーマですが、奇妙なことに、裁きが祝福より先に語られています。これはもともとイスラエルにはなかった発想で、イスラエルが堕落と異教化を繰り返して来た中で、祝福と審判が逆転してしまったのでしょう。神さまの怒りや悲しみを暗示していると聞いていいのではないでしょうか。


U 主のうちにとどまる

 「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。」(3) この「きよい」は、2節の「刈り込む」も同じで、「きれい」という意味ですが、New English Bibleは2-3節とも「クリーン」と訳しています。「イエスさまが話したことばによって」と言われていますが、このことば(ロゴス)には定冠詞がついていますから、イエスさまご自身と聞いていいでしょう。イエスさまを信じ受け入れた者はクリーンであって、実を結んでいきますが、いくら手入れをしても、枝がイエスさまという幹につながっていなければ、何の意味もありません。御父が枝を刈り込むときの原則は、その枝がイエスさまにつながっている(信じている)かどうかなのです。

 4節以下では、そのことが問われています。「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることはできないからです。」(4-5) 「わたしも、あなたがたの中にとどまる」と聞きますと、このお方がイエスさまなのか聖霊なのか、区別がつきません。「助け主」の三つのステージのところで、「イエスさまは御父によって世に遣わされた。助け主もまた御父によって遣わされたが、『イエスさまの名によって』と言われている。それは、助け主がイエスさまの働きを引き継いで遣わされたからである。助け主の働きは、イエスさまとは別人格ながら、まるで分身のように、イエスさまのお働きを別のこととはせず、ご自分を遣わされた御父への責任として、イエスさまの働きを現在化することにある」と述べたように、イエスさまと聖霊は別のご人格ではありますが、私たちにとっては、理解することも、また区別することも難しい、三一の神さまなのです。

 14-16章は聖霊というお方を中心に展開されていると言ってきましたが、そのお方はご自分を主張されず、イエスさまを現在化するために働いておられるのです。当時も、今も……。ですから、イエスさまを信じることは、私たちの内に内在する聖霊のお働きによるのだと、私たちの信仰理解を深めておかなければならないでしょう。そのことを前提にした上で、ヨハネはこの先を、イエスさまのこととして進めて行こうとしているようです。「わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできない」は、その意味で聞くべきことなのです。


V まことのぶどうの木に

 先にヨハネは、「まことの」と排他的な言い方をしながら、教会に起きている問題を提起しました。それは今朝のテキストの中心主題であって、ここでヨハネは、もう一度それを取り上げます。「だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。」(6) 彼は、不信仰を告発しているのでしょう。これは、教会内にはびこる腐敗と堕落と異端化に対する戦いでした。かつてイスラエルは、「わが愛する者は、よく肥えた山腹にぶどう畑を持っていた。彼はそこを掘り起こし、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、酒ふねも掘って、甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた。ところが、酸いぶどうができてしまった」(イザヤ5:1-2)と言われましたが、今、ヨハネは、ローマ・ギリシャ世界に建てられたキリスト教会に、同じことを指摘しているのです。ヨハネ第三書簡には、「デオテレペスは意地悪いことばで私たちをののしり、それでもあきたらずに、自分が兄弟たちを受け入れないばかりか、受け入れたいと思う人々の邪魔をし、教会から追い出しているのです」(10)とあります。これは、ヨハネの弟子がアジヤ州のどこかの教会宛に、紀元90年前後に書いたと思われる事例ですが、当時の教会に起こっていた問題が、適確に指摘されているようです。エウセビオス教会史などにある聖徒たちの壮絶な殉教の記事から、当時の教会は極めて純粋な信仰に溢れていたと考えられていますが、そんな記事の隙間に、教会の儀礼化や異端化や宗教化があり、断片的な記事ではありますが、信仰を捨てて教会を離脱する者たちが多数いたであろうと、想像に難くありません。信頼に価する神さまを、教会自身が見失っていたからです。迫害や殉教はまだ始まったばかりでしたが、儀礼化に伴う聖徒たちの堕落や異端化は、もはや留めようがなくなっていたようです。心を痛めたヨハネは、イエスさまを信じる信仰に留まるよう強く強く勧めました。

 「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」(6-8) イエスさまのことばが聖徒たちに留まる。それは聖霊のことを言っているのでしょうか。「聖霊」と聞きますと私たちは、どうしてもロゴスとは真逆の、アミニズム的スピリチュアリズムを思い浮かべますが、ロゴスであるイエスさまの教えを引き継ぐお方が、茫漠とした霊である筈がありません。このお方も神さまのことばに立っておられました。ですから聖霊降臨時に弟子たちは、他国の言語で福音を伝えることが出来たのです。そのお方が私たちの祈りを聞いて下さる。「求めなさい。そうすれば、それがかなえられる」と主の約束です。そのように聖徒たちが聖霊とともに立つなら、天にはどんなに大きな喜びがあることでしょう。ともすれば異端化や宗教化に陥りがちな現代の私たちに、ヨハネは、イエスさまにつながる立ち方を願っているのです。排他的にも聞こえる「まことの」は、イエスさまこそ真のぶどうの木であるという、ヨハネの宣言なのです。



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