ヨハネによる福音書


66
愛の交わりの中で
ヨハネ 14:25−31
エレミヤ  31:2−6

T イエスさまのお働きを

 今朝は14:25-31節から、「助け主・聖霊」の第三ステージです。このテキストは、「このことをわたしは、あなたがたといっしょにいる間に、あなたがたに話した」(25)と奇妙な導入で始まり、聖霊のことは、26節にあるだけです。そして、結論に当たる筈の27-31節は、イエスさまのことだけに絞られています。これがなぜ聖霊を重点的に扱った第三ステージなのかと、奇妙感がぬぐえませんが、ヨハネには何か目的があるようです。15章以下も聖霊が中心になっているようですが、聖霊を三つのステージに分けて重点的に取り上げるのは14章だけですので、結論の筈の今朝のテキストがなぜこんな奇妙な構造になっているのか、丁寧に見ていきたいと思います。

 「このことをわたしは、あなたがたといっしょにいる間に、あなたがたに話した」(25)と、まず、そこから始めましょう。「これらのこと」とは抽象的な言い方ですが、これが最後の晩餐の席で話された13-14章のことなのか、それとも三年間の公生涯の折々に話されたことなのか、特定することはできません。また、特定することに意味があるとも思われません。しかし、この導入部分は単なる回顧ではなく、ヨハネが、何らかの意図をもって「これらのこと……」を導入部分にしたと思われます。ところで、共観福音書では、ガリラヤ地方やユダヤ地方を巡り歩いた日々にイエスさまがなさったことの多くが、「会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された」(マタイ4:23、9:35)と、奇跡に重点が置きながらも、その奇跡さえ教えの一つであると、奇跡も教えも区別せずに、ともにイエスさまのなさったことであると言っているようです。そんな共観福音書に比べ、ヨハネ福音書では「奇跡」はわずか七つしか取り上げられておらず、それはそれでイエスさま福音の中心に踏み込んでいるのですが、ヨハネは、「イエスさまのなさったこと」の多くを、「話したこと(=教え)」に割いています。きっと、今朝のテキストの導入部分25節は、そのことを前提にしているのでしょう。ヨハネは、この導入部分をもって、イエスさまは「遣わされて私たちの世に住まわれた人の子・地上を歩く神」であると、再度、強調しているのです。
 なぜ? それは、「助け主」が、イエスさまのそのお働きを引き継ぐからです。


U イエスさまを現在化する

 ここでヨハネは、「パラクレートス主題」に戻ります。「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます」(26)と、「助け主・パラクレートス」のことはこれだけですが、これは、「助け主」の登場を予告した第一ステージの、「父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためです」(16)を反復すると同時に、そのお方の職能を、「いつまでも共同体とともにいて(内住)、助け、慰め、弁護してくださる」ことから、もう一歩具体的なお働きへとコマを進めているようです。

 ここで語られる「助け主」の職能は、御父から、「イエスさまの名によって」遣わされる、というところに浮かび上がって来ます。イエスさまが遣わされたのは、御父によってでした。しかし、「助け主」は、御父によって遣わされながら、「イエスさまの名によって(in名の中に)」と形容されているのです。それは、「助け主」が、イエスさまのお働きを引き継ぐために遣わされて来たからに他なりません。しかし、イエスさまの「名」はイエスさまの本質そのものですから、「助け主」は、イエスさまとは別人格ながら、まるで分身のように、イエスさまのお働きを別のこととはせず、ご自分を遣わされた御父への責任として、その職務に邁進するために来られたのです。その職能は、弟子たち(共同体)に「すべてのことを教え、また、イエスさまがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせる」ことであると、「助け主」のお働きを明確にしています。そこには「すべてを」と二回も繰り返されているように、「教える」「思い出させる」は、イエスさまにおいて啓示された神さまの意志を、あますところなく共同体において再教育し、新しく展開することなのでしょう。イエスさまの教えは、イエスさまが天に帰って終わったわけではありません。「助け主」によって、完全に引き継がれるのです。それは、イエスさまのお働きが不十分だったということではなく、御父と御子のお働きが、共同体の中で新たな段階へと踏み出していくためでした。共同体における新たな段階、それは、イエスさまが行われたこと、教えられたこと、苦しまれたことを、「現在化」して行くお働きと言っていいのではないでしょうか。ヨハネは、聖霊降臨という初期共同体のことを思い出しながら「助け主」のことを語っているのではなく、エペソ教会へのメッセージとしてこれを語っているのです。それは、すなわち、聖霊のお働きを現在のこととする、現代の私たちをも視野に入れたメッセージでもあるのではないでしょうか。


V 愛の交わりの中で

 27-31節のイエスさま決別説教を、ヨハネは、聖徒たちへの「世を支配する者」との戦いの勧めとしています。「わたしは、もう、あなたがたに多くは話すまい。この世を支配する者が来るからです。彼はわたしに対して何もすることはできません」(30)とあります。イエスさま(ヨハネ自身も?)が去った後、荒らす者(=サタン)が聖徒たちに敵対し、猛威を振るうようになるのです。第三回伝道旅行でギリシャ各地を巡回した後、パウロは、最後となるであろうエルサレムへの旅の途中で、寄港したミレトにエペソ教会の長老たちを喚び寄せ、こう語りました。「私が出発したあと、凶暴な狼があなたがたの中にはいり込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。ですから、目をさましていなさい。私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりを訓戒し続けて来たことを、思い出してください。いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。」(使徒20:29-32) それから30数年、エペソ教会には、その時のことを覚えている人たちもいたことでしょう。「みことば」を「助け主」に置き換えてヨハネのメッセージを聞いた人たちの、悲しみが伝わって来るようです。

 この箇所は、イエスさまがいろいろと語り、教えられたこと(25)をヨハネが繰り返し、「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がせてはなりません。恐れてはなりません。『わたしは去って行き、また、あなたがたのところに来る。』とわたしが言ったのを、あなたがたは聞いたではないか」(27-28)と、共同体に勧めているのです。「助け主」がいて下さるのだから、平安でいなさい……と。この平安は、十字架の愛がもたらす、互いの愛に基づくものなのでしょう。その愛のもとでは、別離の悲しみなど取るに足りないのです。それは束の間のことであって、イエスさまにも兄弟姉妹にもまた会うことが出来るのですから……。「あなたがたはわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを喜ぶはずです。父はわたしよりも偉大な方だからです。そして今わたしは、そのことの起こる前にあなたがたに話しました。それが起こったときに、あなたがたが信じるためです。」(29)と、その愛は、イエスさまを信じる信仰につながるのです。「しかしそのことは、わたしが父を愛しており、父の命じられたとおりに行なっていることを世が知るためです」(31)とイエスさまは、十字架の死を直前に控え、なお、それは御父への愛なのだと、そのことを覚えるよう弟子たちに求めました。ご自分が十字架に死ななければ、あなたたちに平安は巡って来ないのだと、イエスさまの思いが伝わって来るようです。「立ちなさい。さあ、ここから行くのです」(31)とこれは、ゲッセマネの園に出て行こうとする時のイエスさまのことばですが、福音の戦いのため世に遣わされようとする、弟子たちへの励ましとも聞こえて来るではありませんか。世との戦いがいよいよ熾烈になる中で、助け主が導いて下さる愛の交わりこそ、クリスティアノスの本領だと覚えたいのです。



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