ヨハネによる福音書


65
主を愛することを
ヨハネ   14:18−24
エゼキエル 37:26−28

T ただ信仰共同体だけが

 前回、第一ステージの15-17節で、「助け主」と呼ばれる聖霊なる神さまのことを聞きました。「真理の御霊」と呼ばれるそのお方は、天に帰られるイエスさまと引き替えのように、イエスさまの任務を引き継ぐために遣わされ、イエスさまがそうだったように、神さまの啓示となって信仰者のうちに内在し、祈りを聞き、世(=サタン)が敵対者として猛威を振るう中で、主の証人として立つ者たちを励まし、助けてくださるのです。イエスさまを天に送って、すでに六十年以上もの年月が経っています。その間、ヨハネは、そのお方にどれだけ支えられて来たことでしょう。エペソ教会とローマ・ギリシャ世界の教会に、聖霊のことを語る第二ステージの今朝のテキストは、前回よりもヨハネの溢れるような思いがぎっしりと詰まっていますが、今朝、そのことを汲み取っていきたいと願います。

 「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。いましばらくで世はわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。」(18-19) イエスさまと別れることで、弟子たちは、「孤児」になってしまうことを非常に心配していました。それはしごく現実的なことでした。なぜなら、イエスさまに出会いましたから、もう古巣のユダヤ教に戻ることはできませんし、他の人たちが右往左往しているように、新しいメシアを捜して鞍替えすることなど問題外だからです。そんな中でイエスさまは言われました。「わたしは、あなたがたのところに戻って来る」と。これは、イエスさま再臨の約束ですが、共観福音書にあるような、黙示文学で言われる終末における再臨ではなく、前回触れた、ペンテコステ時における聖霊とイエスさま共同体との結合を指しているのでしょう。それは新しいいのちの結びつきでした。これは、「わたしが生きるので、あなたがたも生きる」と、イエスさまよみがえりを暗示していますが、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(6)と言われた新しいいのちを、ヨハネは、今、自分と教会の人たちの生き方に適応しているのです。「いましばらくで世はわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る」と、これは、「もう」(新共同訳)とか、「もうしばらくすると」(岩波訳)と訳したほうが分かりやすいでしょう。聖霊に姿を変えたイエスさま(別人格なのでこんな言い方は正しくないが、三一の神であることを考えると、こうも言い得るのではないか)は、世に認識されることはなく、ただ、イエスさまを信じる共同体だけが、そのお方を認識することができるのです。これは「信仰の眼によって」であると、先週触れました。


U 新しい時代の到来を

 弟子たちは、信仰の眼をもってイエスさま共同体を支える「助け主」を見つめた時、「かの日には、イエスさまが御父の内におり、あなたがたがイエスさまの内におり、イエスさまもあなたがたの内におることが、あなたがたに分かる」(20・新共同訳)と言われたことが腑に落ちて来たのでしょう。「わたし」を「イエスさま」としたのは、これをヨハネのエペソ教会でのメッセージと聞くからです。ペンテコステの時にヨハネたちは、それまでの不安を一掃し、エルサレムの街に飛び出して行きました。そして、大胆にイエスさまのことを証言したのです。「これは、預言者ヨエルによって語られたことです。『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。……その日、わたしのしもべにも、はしためにもわたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。……主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと、不思議なわざと、あかしの奇跡を行なわれました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。……あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。しかし神は、この方を死の苦しみから解き放ってよみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。」(使徒行伝2:22-24)と。

 これはペテロの説教ですが、彼が「イエスさまなど知らない」と否認したのは、つい50日ほど前のことです。それほどの変化が弟子たちに起こっていました。ヨハネはそのことに触れていませんが、大部分の新約文書はすでに諸教会で読まれていましたから、ヨハネが書き加えなくても、「聖霊」や「イエスさま共同体」については、共通の認識が出来上がっていたと思われます。ただ、彼は、イエスさまにお会いできる「その日」が、彼独特の、「新しい愛の戒め」が実現する日であると指摘するに留めました。イエスさまに代わる「助け主」の存在は、「互いに愛し合う」愛のうちで確認されるものだからです。「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わす」(21)とヨハネは、教会の人たちに、父と子の天的一体性に共同体も加えられるという、新しい時代の到来を宣言しているのでしょう。しかし、「その日」のことは、世の人たちには隠されたままです。


V 主を愛することを

 すると、タダイと呼ばれるヤコブの子ユダが、イエスさまに尋ねました。彼が登場して来るのは、使徒名簿とヨハネのこの箇所だけです。「主よ。あなたは、私たちにはご自身を現わそうとしながら、世には現わそうとなさらないのは、どういうわけですか。」(22) ユダのこの質問は、共同体という枠を飛び出そうとしているようです。聖書をラテン語(ヴルガタ訳)に翻訳したヒエロニムス(AD340-420)によれば、彼は後に、シリヤの奥地にあるエデッサの王・アブガルスに福音を伝えるために派遣されたそうです。すると彼は、「世界伝道」を視野に入れながら、イエスさまの話しを聞いていたのでしょうか。先に登場したトマスやピリポも、ローマ・ギリシャの異邦人世界に建てられた教会を代表する人物でした。それは、彼らが、イエスさまから、異邦人社会への宣教者・神さまの啓示として遣わされようとしていたからです。ヨハネは、彼らを質問者として登場させることで、異邦人教会に渦巻いているさまざまな疑問を取り上げようとしたのでしょう。ユダの質問は、ずっと後の、世界宗教としての「キリスト教」という広がりを手中にした中での、疑問でもありました。ローマ・カトリック教会に代表されるキリスト教会は、イエスさまの名が冠せられた宗教が共同体だけに留まるのでは物足りず、その力(権力?)が万人の目の前で、世界中に示されることを願ったのです。そんなキリスト教会の世界宗教化という傾向は、まだ迫害と殉教が始まったばかりの紀元一世紀末のヨハネの時代に、願望としてでしょうが、すでに芽生えていたのでしょう。

 ヨハネは、イエスさまのことばで答えました。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです。」(23-24) イエスさまを愛すること、イエスさまのことばを守ること、それはイエスさまを信じることであって、同じなのです。イエスさまが戻って来られるという予告は、イエスさまのことばに生きる者が、その信仰において受け止めるべきであって、そう受け止めた時、御父と御子ご自身が助け主となって私たち共同体の内に内在して下さるという約束が、信仰者の耳に聞こえて来るのではないでしょうか。あたかも、「わたしの住まいは彼らとともにあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(エゼキエル37:27)とあるごとく、かつて、ヤハウェがイスラエルの中心に据えられた幕屋に住まわれた時のように。「助け主(聖霊)」の内在という約束は、信ずべき、権威ある最高の約束と聞くべきではないでしょうか。世界(この世)を視野に入れつつ出て行く前に、私たちはその信仰、主を愛することを確立しなければなりません。ヨハネの時代、宗教改革の時代、そして現代の私たちの時代も、同じように、この世(=サタン)の挑戦を受けているのです。内在したもう三一の神さま・聖霊を信仰の眼で見つめることをないがしろにして来たところに、信仰の破綻が広がりました。大切なことを大切にする信仰の姿勢を学びたいと願います。



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