ヨハネによる福音書


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信仰の眼をもって
ヨハネ 14:15−17
詩篇 143:10−12

T 助け主、ヨハネの意図は

 先週、弟子たちに託された働きのことを取り上げました。「訳の分からなかった弟子たちが、ユダヤよりも広い世界で働き、ユダヤ人が神さまの民ではないとした異邦人を主の民とすることが出来たのは、イエスさまが御父のもとに帰ることによって、全世界にご自分のご栄光を知らしめようとの壮大な世界戦略実現のために、神さまが働き人たる権威を弟子たちに纏わせて遣わされたからではないか。それは聖霊降臨後に実現するが、聖霊の内住こそ神さまの啓示を纏うしるしであった。弟子たちはその啓示となったのである」 と、これはその一部を要約したものです。16章まで語られる聖徒たちに内住する「聖霊」のことが、今朝のテキストの中心主題です。14-16章全体が聖霊のことを語っていると思われますが、集中的に取り上げられる今朝のテキスト(14:15-17)を、その第一ステージとしましょう。「聖霊」のことは、ペンテコステの日に弟子たちに注がれ、以後、建てられたキリスト教会が歴史に刻んで来た歩みが「聖霊」のお働きであるとする、原始キリスト教団の伝承があります。それはルカ第二文書を中心に展開されていきますが、ルカ第一文書(福音書)では、「わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい」(24:49)とあり、それが第二文書(使徒行伝)では、「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまでわたしの証人となります」(1:8)と言われていて、これが二章の聖霊降臨へとつながって行くのです。そこに展開される「聖霊」は、聖徒たちに内在する神さまの力であると、ルカ文書(パウロ書簡も)は証言していますが、ヨハネは、それとは若干異なるニュアンスで「聖霊」のことを取り扱っているようです。
 今朝は、その聖霊のことを、ヨハネがどう受け止め教えたのか、考えてみたいと思います。

 「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためです」(15-16)とあります。「イエスさまの戒めを守る」、これは「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(13:34)と言われた「新しい戒め」のことで、イエスさまの共同体はイエスさまに倣う愛によって成り立つ、と言われているのです。ヨハネが「もうひとりの助け主」登場を描くのは、その共同体を根底から支えるお方として、聖徒たちの互いの愛を発芽させ育てるため、と聞かなければなりません。


U イエスさまと同じ働きに

 「助け主」、これは、17節で「御霊」、26節で「聖霊」とありますから、共観福音書と使徒行伝やパウロ書簡が「聖霊」と表記しているお方のことですが、なぜか「助け主」という表記は、ヨハネ文書(福音書に4回−14:16、26、15:26、16:7−、ヨハネ書簡に一回)にしか見られません。その一つ、ヨハネ書簡の「もしそれでも誰かが罪を犯す場合には、私たちには父のもとに義なるイエス・キリストが弁護者としていてくださる」(Tヨハネ2:1・岩波訳)という箇所で、ヨハネは、弁護者はイエス・キリストであるとするニュアンスに触れており、それは後期ユダヤ教の「メシア(=弁護者)」という伝承概念を踏襲したものではないかと指摘されていますので、それもパラクレートスなのですが、新改訳が「助け主」と訳したニュアンスでのヨハネ独自の呼称は、ヨハネ福音書だけに絞られるでしょう。ごちゃごちゃと言いましたが、14-16章の決別説教の、とりわけ第一ステージ(14:15-17)と第二ステージ(14:16-24)、第三ステージ(14:25-31)が、「聖霊・助け主」についてのヨハネの核心的証言と言っていいのではないかと思われます。

 イエスさまが「パラクレートス」であると、その呼称は、上述のTヨハネ2:1以外には用いられていませんが、確かに、イエスさまも、信じる者たち(=弟子たち)の助け主、慰め主であり、弁護者でした。しかし、ヨハネが「パラクレートス」と呼ぶ聖霊の呼称には、「もうひとりの」と形容詞がつけられていますから、明らかにイエスさまとは別人格であって、そのソースは諸説あって何に由来しているか分かりませんが、「求める、勧める」という動詞から作られた受動の動詞的形容詞で、「支援のために呼び寄せられた者」、すなわち、「弁護者」を指すと言われています(新約聖書釈義事典「パラクレートス」の項)。新改訳では「助け主」とありますが、これは口語訳を踏襲しているのでしょう。新共同訳と岩波訳は「弁護者」、永井訳は「慰め主」としていて、訳語も一定していません。しかし、この世(暗闇の主・サタンの牙城。サタンはいつの時代にもこの世を取り込み、イエスさまを信じる者たちに敵対していた)が牙を剥いて襲いかかって来る私たちのそばにいて、私たちの祈りを聞き、助け、慰めてくださるお方であり、神さまに取り成してくださるお方、十字架に死なれ、墓の中からよみがえられたことは別にしても、イエスさまと同じお働きのために父なる神さまが送って下さったお方であると、イエスさまへと同じ全幅の信頼を寄せていいのではないでしょうか。


V 信仰の眼をもって

 ヨハネは、「その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」(17)と続けます。ヨハネは、「世はその方を受け入れることができない。また見もせず、知りもしない」と断じていますが、それは、「世」が、少なくともこの二千年の間(いや、あらゆる人間の歴史を通して)サタンに取り込まれ、サタンに与して来たからです。ヨハネは、イエスさまがそんな「世」との戦いに十字架とよみがえりによって勝利し、御父のもとに凱旋して行かれたことを、自分をも含め弟子たち全員が目撃し、その証人とされたことを思い出しているのでしょう。天に上って行かれるイエスさまを見送ってから、すでに六十年以上も経っています。その長い年月を、自分たちが福音宣教に携わって来ることが出来たのは、主が「送る」と約束された聖霊の助けがあったからなのだと。彼がそのお方を「助け主」「慰め主」「パラクレートス」と呼んだのは、そんな六十年以上もの間を守り助けて頂いた……、という実感に裏付けされていたからではないでしょうか。

 今、ヨハネは、その助け主が、次第に激しくなりつつある迫害と殉教の時代に、愛してやまないエペソ教会とローマ・ギリシャ世界の教会を、幾重にも守ってくださるようにと願っているのでしょう。「真理の御霊」と呼んだのは、ギリシャの賢人たちが拘り、憧れて来た抽象的な哲学の世界が念頭にあったのかも知れませんが、隠されていた神さまの奥義(=啓示)が今や明らかにされたとの思いをもって、聖徒たちをその手に委ねたのです。「真理」はまさに、神さまの啓示であるイエスさまの恵みを指し示すものであって、「聖霊」は、その恵みの啓示を引き継ぐお方でした。口語訳や新改訳が「助け主」と呼んだのは、まことにふさわしい訳語ではありませんか。イエスさまを送り出した後、弟子たちが「世」にいて戦っていた時、「助け主」もまた、彼ら信仰の先輩たちとともにいて下さいました。今また、迫害の嵐に翻弄されようとしている聖徒たちの内に内在し、彼らを導き、助けて下さるのです。聖徒たちに「内在」してと言いましたが、正確には、聖徒たち「と共に」「のもとに」「の中に」住まわれた、と言った方が内容的にもいいでしょう。「助け主」は、聖徒たちのもとに赴き、彼らの内に住まわれ、彼らと共に「世(=サタン)」に戦いを挑んでいて下さるのです。そのことを現代の私たちも覚え、知らなくてはなりません。「あなたがたはその方を知っています」(17)と言われたのは、信仰者の眼のことではないでしょうか。「その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです」(17)と、それは、見えないものを見抜く信仰の眼を見開いてでなければ見えて来ない、啓示者の姿です。この世は刻一刻と変わって来ましたし、現代人の心の変わりようは、殊更に激しいと言えましょう。そんな中で、ずっと変わらずに聖徒たちとともに歩んで下さり、祈りに耳を傾けて下さる助け主に、信仰の眼を注ぎ続けようではありませんか。


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