ヨハネによる福音書


63
主の啓示として
ヨハネ 14:5−14
詩篇  86:6−11

T 道である主が

 「わたしの行く道はあなたがたも知っている」(4)と聞いて、弟子たちは驚きました。トマスが言います。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」(5) トマスは、よみがえりのイエスさまにお会いしてひれ伏し、「わが主、わが神」と、弟子たちの中でも突出した告白をしたことで知られています(20:28)。しかし、そんなトマスもまだ、神さまの救いの道が、全世界という大きなキャンバスに描かれるほど壮大なものであるとは気づいていません。ヨハネは、自分もそうだったというイエスさまを信じる信仰の無知、こぢんまりとまとまりつつあった当時のキリスト者信仰を、トマスの質問を契機に、正しい認識へと導こうとしているようです。信仰の無知は、ローマ・ギリシャ世界の信仰者にとって、共通の事実でした。ヨハネはここで、信仰の正しい認識は極めて重大なことであると指摘したかったのでしょう。

 イエスさまを信じる信仰の、何が無知であったのか。それは、私たちの贖罪であるイエスさまの十字架をキリスト教のシンボルにしてしまった、当時の、儀礼化されつつある教会の宗教化であって、ヨハネは、もっと生き生きとした信仰の広く深い世界を知って欲しいと願ったのではないでしょうか。ヨハネは言います。「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。』」(6-7) ヨハネは、「イエスさまは道であり、真理であり、いのちである」と、ヨハネ福音書最高峰と言っていい信仰の世界を描き出しました。その一つは、イエス・キリストこそ、「エゴー・エイミー、わたしはある」と主張してやまない神さまご自身であるという証言です。「真理」は、多くの神々を街中に祀りながら唯一真の神さまがいない、ギリシャ人得意の思考の中心であり、「いのち」は、ユダヤ人が、自分たちこそ神さまからその息を吹き込まれたと言い張る、誇りでした。しかし、ギリシャ人の主張も、ユダヤ人の誇りも、実は、イエスさまに帰すべきものなのです。そして、もう一つは、「イエスさまは道である」ということです。「道」は、人の生き方を指すものとして、昔から多くの民族に用いられて来た哲学概念ですが、この「道」はそんな曖昧なものではなく、聖徒たちを招こうとする「目的・到達点」を見据えた道であり、「天の住まいに聖徒たちを迎える」(2-3)と、神さまご自身であるお方の証言なのです。「エゴー・エイミー」なるお方は、その住まいの主(あるじ)として私たちを迎えてくださるのです。


U エゴー・エイミーなるお方が

 ところが、「信仰の無知、あるいは誤解」は、トマスに代表される「分からない」「知らない」に加え、もっと根本的な、「神さまを見たい」という使徒ピリポの質問に集約されています。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」(8) ピリポ(フィリッポス)という名前は、マケドニア大王アレクサンドロスの父王に因んだもので、ギリシャ語圏ではかなりポピュラーな名前だったようです。そうしますと、ピリポを代表とするギリシャ人の「神を見たい」という願いは、ギリシャの宗教的ニュアンスで、街中に祀られている祭壇の神々の、どれがイエスさまの父君なのか教えて欲しい、そのお方がどこにいらっしゃるのか、私たちにも分かるように示して欲しいということだったのではないでしょうか。

 その願いはまさに、エペソ教会、ローマ・ギリシャ世界に建てられた教会の人たちに共通だったのでしょう。本来なら、とっくに教えられていていいことでした。教会はその教育に責任を持っていなければならなかったのに、次第に儀礼化して行くローマ・ギリシャ世界の教会は、その責務を果たす能力に欠けていたのではないでしょうか。ヨハネは、婉曲にですが、そのことを指摘し、教会の儀礼化に一石を投じたのかも知れません。イエスさまのことばをもって、ヨハネはこう指摘しました。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。」(9-11) ヨハネは、イエスさまを、人の子、つまり、「御父から遣わされた先在のロゴスで、地上を歩かれる神」としています。もっと正確に言うなら、イエスさまは、ご自分を遣わされたお方を具現化する啓示者であると言っているのです。ローマやギリシャの街々に祀られている祭壇の神々は、如何なる意味においても、啓示者たり得ません。まして、「エゴー・エイミー」と主張することばなど、持ち合わせていないのです。こうした宗教環境の中においても、真の「救いの神」であると認識されるお方は、唯一突出した「エゴー・エイミー」なるお方のみです。


V 主の啓示として

 きっと、トマスとピリポはここで、異邦人世界に建てられつつある教会を代表する者として、指名されたのでしょう。伝説によりますと、トマスは宣教者としてペルシャやインドに渡りました。ピリポのことは不明ですが、イエスさまに会いたいとやって来たギリシャ人たちが彼に仲介を頼んだことを考えますと(12:21)、ギリシャ語圏で伝道者として働いたのではないかと想像します。その二人を異邦人世界に建てられた教会の代表者としたのは、今、弟子たちが、宣教者として遣わされようとしているからです。イエスさまは、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、また、それよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう」(12-14)と言われました。

 「宣教」と言いましたが、イエスさまが願ったのは、御父から遣わされた啓示者としてのお働きを弟子たちが引き継ぐことでした。「わざ」とあるのは、その意味においてでしょう。「わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、また、それよりもさらに大きなわざを行なう」というのは、いついかなる時も弟子たちの祈りや求めを聞き届けるという、イエスさまの約束があるからです。トマスやピリポのように訳が分からなかった弟子たちがイエスさまを凌駕したように、彼らがユダヤの地よりはるかに広い世界で働き、ユダヤ人が神さまの民にあらずとした異邦人を主の民となし得たのは、ひとえに、イエスさまが御父のもとに帰られることで、全世界の人たちにご自分のご栄光を知らせるという、神さまの目的・壮大な世界戦略実現のために、働き人たる権威を弟子たちに纏わせたからではないでしょうか。そして、それは、聖霊降臨の後に実現するのです。聖霊の内住こそ、神さまの啓示を纏うしるしでした。

 ヨハネは、今、イエスさまが弟子たちに願ったように、エペソ教会の人たちに、そんな主の働き人になって欲しいと願っているのでしょう。いや、エペソ教会の人たちにばかりではなく、ヨハネは、現代の私たちにも、そんな者になって欲しいと願っているのです。全世界という広がりは、同時に、時の広がりでもあるからです。私たちが神さまの啓示とされるのです。それは神さまのご人格から溢れ出たことばであって、遣わされた御子イエスさまにおいて罪の赦しとなり、永遠の住まいへの招きという輝くばかりの恵みとなりました。私たちは、その恵みに招かれた者たちなのです。「クリスティアノス」は、その意味で名乗られなければなりません。私たちが福音宣教に遣わされるのは、神さまの道具としではなく、私たちが神さまの啓示とされることであり、私たちは、啓示そのものと認定されるのです。取るに足らない私たちが神さまの恵みの具現者である……と、なんとわくわくすることではありませんか。心をわくわくと燃え立たせながら、神さまのみことばである聖書が私たちに語りかけて来るメッセージに耳を傾け、その「啓示」を、私たちの内に築いて行こうではありませんか。


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