ヨハネによる福音書


62
今、道に歩む者は
ヨハネ  14:1−4
詩篇 22:19−22

T 迫害期に生きる者たちの戦いが

 ヨハネ福音書第二部の序文(13章)を終えて、14-16章と続くイエスさま説話が始まります。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」(1)と、ヨハネは冒頭から、「わたしが行く所へは、あなたがたは来ることができない」(13:33)と聞いた弟子たちへの配慮から始めようとしています。ペテロがイエスさまから「行く」と聞いて不安になり、「あなたのためにはいのちも捨てます」(13:36-38)と言ったことも、トマスが「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません」(5)と言ったことも、ピリポが「私たちに父を見せてください」(8)と言ったことも、イエスさまとの別離予告によって生じた弟子たちの不安や困惑でした。恐らく、紀元一世紀末のエペソ教会、ローマ・ギリシャ世界の諸教会にも、同じような状況が生まれていたのでしょう。14-16章の長い説話は、イエスさまが過越の食事の席で語られたもののように描かれていますが、これはイエスさまの説話を元にしたヨハネのメッセージと聞いていいでしょう。ヨハネはこれを、エペソ教会の人たちを念頭に書いているのです。その原形は、折々にした彼のメッセージではなかったかと想像します。先週も触れたように、彼らのもとを、今、去ろうとしているのは、間もなく百歳を迎えようとしているヨハネなのです。彼は、迫害と殉教の嵐に翻弄されようとしているローマ・ギリシャ世界の教会、わけても、彼が精魂込めて牧会して来たエペソ教会の人たちに、イエスさまを信じる信仰には望みがあるのだと、それをイエスさまが話された説話としながら、伝えておきたいと願ったのです。

 イエスさまとの別離に不安を覚えた弟子たちに一番必要なものは何か、ヨハネはそこに、「神さまを信じること」を掲げました。それは、「神さまの啓示(ロゴス)であるイエスさまを信じること」なのです。「神を信じ、またわたしを信じなさい」とは、その意味でした。それは同時にエペソ教会、ローマ・ギリシャ世界の教会にも当て嵌まります。イエスさまを信じることで、世から虐げられている者たちが神さまに結びつけられ、その関係構築の中でキリスト者としてふさわしく生きることができる……。NTDの註解者は、こう指摘しています。「彼らが別れに臨んだイエスから、信じるよう要請されねばならないのは、この闇の世はその憎悪の故に、彼らがこのようにイエスの言葉に守られていることを論難しようとしているからである」 それが迫害期に生きる者たちの戦いでした。


U 神さまが全責任を

 ところで、「わたしを信じなさい」(1)には、もう一つの極めて重要な意味が込められています。ここには、対応するように、「心を騒がせてはならない」とあります。この二つのことばは、互いに重ね合わせながら聞かなければなりません。「心を騒がせる」は、これまで、ラザロが死の力に奪い去られた時「心の動揺を感じて」(11:33)と、一粒の麦が死んで豊かな実を結ぶとイエスさまがご自分の死をお語りになった時「わたしの心は騒いでいる」(12:27)と、サタンがイスカリオテ・ユダに働いて彼が裏切ることを予告された時「霊の激動を感じて」(13:21)と三度(口語訳はすべて「心を騒がせ」)ありましたが、いづれも、イエスさまが悪の力と対決される時の緊張感を言ったものです。ここで「心を騒がせるな」という勧めは、単なる「心配するな」、「落ち着いて対処しなさい」ということではなく、「神さまの力のもとに身を寄せなければ、サタンの暗黒の力に対抗することはできない」という意味で語られているのです。その意味を理解した上で、「イエスさまを信じなさい」と聞くべきでしょう。イエスさまを信じる信仰は、私たちの心の問題(=信心)などではなく、神さまが私たちの内に確立してくださる絶対的安心であり、私たちが自分自身を神さまに委ねる時、神さまが私たちのいのちと平安に全責任を負ってくださるということなのです。パウロは、それを自分の経験から確信していたのでしょう。「キリスト・イエスを信じる信仰」を、「キリスト・イエスの信仰」(ロマ3:22、原典、永井訳)と言い換えています。

 イエスさまは、弟子たちの一切に責任を負うと約束された後、信じることの意味を一歩先へ進めました。「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。」(2) この後半は、前半を強調する意味で、「もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか」(新共同訳)と、強調疑問文と解するのがいいでしょう。天には、私たちのための住まいがたくさんあるのです。イエスさまが「行く」と言われたのは、その住まいを用意するためでした。それはまるで、東京やニューヨークに広がる無数の高層マンションででもあるかのように聞こえますが、そんな街がいくつあればすべての聖徒たちを収容出来るというのでしょうか。高層マンションを建設するために?……、イエスさまが天に戻られたのはそんな馬鹿げたことのためではないと、いくら無知な私たちでも分かるでしょう。では、何のために……なのでしょうか。


V 今、道に歩む者は

 「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(3) 「場所を備える」は、時空を超えた神さまの世界のことです。そこには、タイムラグはありません。イエスさまの「行く」と「来る」も、同じ今のことであり、その広がりは、宇宙をもしのぐのです。神殿奉献時にソロモンが、「実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできない」(T列王8:27)と祈った通りです。ヨハネは、パトモス島で幻のうちにその世界を垣間見て、神さまの時は永遠であると同時に今のことでもあると悟り、単数の父の家と複数のたくさんの住まいを同一とし、それをすべての聖徒たちを迎え入れるに足る神さまの都であると納得したのです。不思議なことですが、これは神さまの世界のことなのです。

 その「行く」と「来る」を、もう少し考えてみたいと思います。「行く」は十字架の死であり、「来る」は再臨のことと考えられていますが、「再臨」については、共観福音書が終末のある時点を意識しているのに対し、ヨハネは「聖霊の到来による実現」を意識していると指摘されています。それは、ヨハネが、「行く」と「来る」を、どちらも「今と永遠」と受け止めていることを指しています。「現在における聖霊の経験によって、永遠に神の子の近くにいることが可能になるからである(14:16)」とある註解者は指摘しています。もともとイエスさまの呼称は、「人の子・地上を歩む神」でした。「人の子」と「神の子」というイエスさまの時は、連続しているのではないでしょうか。しかしヨハネは、13:31-32以後「人の子」の表記を避けることで、「行く」と「来る」の間に断絶を見ているようです。それは一体何を意味しているのでしょうか。

 ヨハネは、十字架上のイエスさまが「完了した」(19:30)と言われたと記しました。それは、非常な苦痛とともに私たちの救いを完成された「時」の終了であり、新しい「時」の始まりを宣言するものでした。ヨハネは、イエスさまのよみがえりをもってこの福音書を閉じますが、それは共観福音書の記事をなぞったものではなく、「天の住まい」に聖徒たちを招き入れる信仰の輝かしい結末、永遠を意識しているからです。神さまの「今と永遠」、それは人間にとって不可思議であり、断絶でしかありません。しかし、十字架の贖罪によって神さまの住まいに招かれれるというイエスさまを信じる信仰は、そこに、連続する神さまの恵みを見ることが出来るのです。「わたしの行く道はあなたがたも知っている」(4)は、それが念頭にあってのヨハネの証言なのでしょう。「知っている」と現在形なのは、十字架の苦しみによる救い、聖徒たちが天の都に招かれる(=道に歩む)信仰の「今」を指しているからに他なりません。次第に混沌として来た現代の渦中に、そのお方の都が出現するなど想像できなくても、「住まい……」というこの記事は、そのお方に私たちの一切を委ねようではないかという、ヨハネのメッセージなのです。イエス・キリストご自身が、ご自分の「住まい・永遠」に招いてくださる約束であり、私たちの「今」に全責任を負ってくださる方なのですから……。その「今」を、み声を聞きつつ全精力を傾けて、戦い抜こうではありませんか。その戦いを戦い抜いた者だけが、神さまの都、永遠の住まいに想いを馳せることができるのですから。


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