ヨハネによる福音書


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慈しみに満ちた十字架
ヨハネ 13:21−30
詩篇 118:21−29

T イエスさまの悲しみは

 十字架の章第二部ですが、その最初からヨハネは、イスカリオテ・ユダのことに何回も触れて来ました。「夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていた。」(13:2)「イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。」(11)「わたし(イエスさま)は、わたし(イエスさま)が選んだ者を知っています。しかし聖書に『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かってかかとを上げた。』と書いてあることは成就するのです。」(18) これら断片的な言及が今朝のテキスト21-30節に投影され、十字架へのイエスさまの時が動き出します。ヨハネがユダのことを通して何を語ろうと願ったのか、そのメッセージを聞いていきたいと思います。

 過越の食事最中に、イエスさまは、「アーメン、アーメン……」と注意をうながし、「霊の激動を感じて」言われました。「あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります」(21) 新改訳では「霊の激動を感じ」とありますが、これは新共同訳では「心を騒がせ」、岩波訳では「霊がかき乱され」、永井訳では「霊に於いて愁え給えり」となっていて、イエスさまが本来持つ神さまの霊が、悲しみ、昂ぶっていることを指しているようです。このことを、13章以前にある二つのイスカリオテ・ユダに関する記事から、もう少し考えてみたいと思います。6:66-71では、ペテロの告白「私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています」につなげてヨハネは、「わたしが、あなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかしそのうちのひとりは悪魔です」とイエスさまのことばを記し、「イエスはイスカリオテ・シモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは十二弟子のひとりであったが、イエスを売ろうとしていた」と結んでいます。そこでは、ユダを名指してはおらず、ペテロの告白と並べ、ユダへの悔い改めの機会としているのです。「そのうちのひとりは悪魔である」とこれは、「あなたは悪魔に魂を売ってしまったのか。しかし、わたしはまだあなたが悔い改めて戻って来るのを待っているのだよ」と、イエスさまの愛を感じさせてくれるではありませんか。12:4-7のマリヤの香油注ぎに記されたユダの記事からも、同じ思いが伝わって来ます。しかし、ユダは頑なに心を閉じ、その愛に応えようとはしません。ヨハネは、そこにイエスさまの悲しみを見ていたのでしょう。


U ヨハネの視点

 ところが弟子たちは、イエスさまのその悲しみを受け止めることが出来ません。「弟子たちは、だれのことを言われたのか、わからずに当惑して、互いに顔を見合わせていた」(22)「席に着いている者で、イエスが何のためにユダにそう言われたのか知っている者は、だれもいなかった。ユダが金入れを持っていたので、イエスが彼に、『祭りのために入用の物を買え。』と言われたのだとか、または、貧しい人々に何か施しをするように言われたのだとか思った者も中にはいた」(28-29)と、ヨハネはその時の弟子たちの混乱ぶりを告白しています。ヨハネがこの時のイエスさまの悲しみを理解したのは、だいぶ後になってからのことでしょう。恐らくヨハネは、イスカリオテ・ユダのことはエペソ教会とローマ・ギリシャ世界に建てられた教会共同体にとって極めて重要な問題であると、ユダの記事を断片的なままで終わらせず、ここにまとめたのでしょう。ここに込められたヨハネの視点を、もう少し考えてみたいと思います。

 「弟子のひとりで、イエスが愛しておられた者が、イエスの右側で席に着いていた。そこで、シモン・ペテロが彼に合図をして言った。『だれのことを言っておられるのか、知らせなさい。』その弟子は、イエスの右側で席に着いたまま、イエスに言った。『主よ。それはだれですか。』イエスは答えられた。『それはわたしがパン切れを浸して与える者です。』それからイエスは、パン切れを浸し、取って、イスカリオテ・シモンの子ユダにお与えになった。」(23-24) ユダヤ人の伝統的な食事の原風景では、背の低い食卓に左ひじをつき、足を投げ出して体を斜めにし、右手で食べるのですが、右側は「み胸に近く」(口語訳)ということで、最古参の(1:37-40)「イエスさまの愛する弟子」(ヨハネであろうとされる)が、イエスさまの胸に寄りかかるようにして聞いたのです。右側には「イエスさまの愛する者」、左側には「イスカリオテ・ユダ」と、ヨハネは、自分の名を伏せることで、右の席も左の席も同じと言っていて、これはある意味、古代ギリシャで用いられた修辞法・レトリックなのです。自分のことというより、イエスさまを挟んで自分と同等の席にいたユダが、イエスさまからも弟子たちからも重んじられ、愛されていたと証言しているのです。それほどイエスさまの近くにいたユダが、イエスさまを裏切った。君たちにもそんなことが起こり得ると、それがヨハネの、エペソ教会の人たちへの、そして現代の私たちへのメッセージではなかったかという気がしてなりません。

 後にヨハネは、イエスさまから「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい」(27)と言われたユダが、「パン切れを受けるとすぐ、外に出て行った。すでに夜であった」(30)と、当時のことを思い出しながら、「彼がパン切れを受けると、そのとき、サタンが彼にはいった」(27)と、彼の内面に起こった異変を感じていました。しかし、ゲッセマネの園で、共観福音書が記したユダの顛末については口を噤み、祭司長やパリサイ人たちが兵士たちを引き連れて(18:3)やって来たそこにユダもいた(18:5)、としか記していません。現場から逃げ出したヨハネ自身の痛みが、重なってのことではないでしょうか。


V 慈しみに満ちた十字架

 弟子たちは、金銭の管理能力のこともあってユダを認め、重んじていました。「主よ。それはだれですか。」「それはわたしがパン切れを浸して与える者です。」と、イエスさまとヨハネの会話は小声だったようですから、他の弟子たちには聞こえていません。しかし、過越の食卓で主人がパン切れをスープに浸して与える、これはイエスさまがユダを第一の客と認めたということで、弟子たちはそれに異議を唱えていませんから、依然として彼らはユダに全幅の信頼を寄せ、イエスさまが過越の祭りのために必要なものを買うよう命じられたか、貧しい人たちへ施しをするよう言われたのであろうと思っていました。過越の食事のことも、貧しい人たちへの施しのことも、形成されつつあるイエスさまの共同体にとって非常に重要な要素であって、共同体幹部と目されるユダがその一端を担うのは、ごく自然なことだったのでしょう。

 しかし、そんな弟子たちとは対照的に、イエスさまは、ユダの内面に巣くう問題を見抜いておられました。ユダを愛しておられたイエスさまは、その愛ゆえに、ユダの内面に起きているさざ波を鋭く洞察しておられたのでしょう。神さまご自身としての目で、イスカリオテ・ユダのことも弟子たちのことも、みなよく分かっておられたのです。けれどもイエスさまは、彼らの誤解や葛藤を修正しようとはされません。ユダの内面に揺れ動く思いは、いづれ分かることです。しかし、それがはっきりする前に、ユダが悔い改め、何事もなく信仰者として立ち返るなら、それに越したことはありません。「ハソレトと呼ばれる赤いスープに浸した種なしパン切れ」(「イエス時代の日常生」VPP.96f)をユダに与えたのは、「過越の食事の意味を考えてごらん」という、イエスさまのサインではなかったでしょうか。それはイスラエルの解放を告げるものであり、魂を罪の隷属から引き離すものでした。この記事を彩る中心主題は、決して裏切り者イスカリオテ・ユダの動向ではなく、イエスさまの悲しみと愛なのです。それをヨハネは、イエスさまのユダに対する優しい視点の中で描こうとしているようです。この後、イエスさまの長い説話(14-16章)や祈り(17章)にユダが出て来ることはなく、イエスさまは後ろを振り返ろうとはされません。ただ、ユダが出て行ったとき、「今こそ人の子は栄光を受けました。また、神は人の子によって栄光をお受けになりました」(31)と、ご自分の「時」が来たことを宣言されます。それは、十字架に掛かることへの宣言でもありました。イエスさま福音の中心主題は、しばしば安易に、「十字架」と言われがちですが、それは教理化されて干からびた十字架ではなく、神さまから遠く離れた私たちへのイエスさまの悲しみであり、愛であると聞きたいではありませんか。その悲しみと愛と慈しみ(詩篇118:29)に満ちたイエスさまの十字架こそ、現代の私たちが目を留めるべき最高の価値観なのですから。 


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