ヨハネによる福音書


59
信仰の危機の中で
ヨハネ 13:12−20
イザヤ   54:2−8

T 愛に生きるように

 弟子たちの足を洗い終えたイエスさまは、再び上着を着て席に戻り、弟子たちに言われました。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。」(12) 「洗足」の第二部とも言える12-20節では、イエスさまの教えだけが語られます。「わかりますか」とあるのは、その時点でヨハネも含め弟子たちが、この「洗足」の意味を全く理解していなかったことを暗示(示唆?)しているようです。彼らがそれを理解したのは、恐らく、よみがえりのイエスさまに出会い、そのイエスさまを天に送り、聖霊降臨を経て教会が建てられ、一人一人が伝道者として立ってからのことだったのでしょう。彼らはこの時のイエスさまのことばを思い出しながら、「洗足」の意味を考え、十字架とよみがえり、そして、自分たちがイエスさまの愛に包まれていることに思い至ったのではないかと思われます。ですからヨハネは、イエスさまのことばだけを取り上げました。それはヨハネと弟子たちが辿り着いた信仰告白であり、ヨハネのメッセージなのでしょう。これはエペソ教会で語られたのです。そこで「洗足」が行われたという記録はありませんが、きっと素朴な「洗足」が行われ、その席でこのメッセージが語られたと想像します。

 「あなたがたはイエスさまを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。イエスさまはそのような者だからです。それで主であり師であるイエスさまが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。イエスさまがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、イエスさまはあなたがたに模範を示したのです。」(13-15) 「わたし」を「イエスさま」としたのは、これをエペソ教会でのヨハネのメッセージであろうとしたからです。「先生」とか「主」というのは、ユダヤ人の儀礼的用語ではなく、神的お方への呼び掛けであって、弟子たちがイエスさまを神さまご自身であると認識したことを意味しています。その栄光に輝くお方が自分たちの足を洗ってくださった。私たちもまた、互いに共同体に加わった者たちの足を洗い、イエスさまが十字架の贖罪になるほど私たちを愛してくださったことを、告げ知らせなければならないと言い合ったのでしょう。儀礼(聖礼典)としてではなく、イエスさまに倣う者・「クリスティアノス」として、この麗しい習慣を信仰の行為として続けようではないかと……。ヨハネがパトモス島に流罪されている間に、入り込んで来たユダヤ人指導者たちによって存亡の危機に見舞われたエペソ教会が、イエス・キリストの教会として立ち続けることが出来たのは、その意識(信仰)に立ち帰り、互いの足を洗いつつ、愛に生きようとしたからではないかと思われます。


U 主と崇めつつ

 しかし、イエスさまがされたように、心から謙遜になり、愛をもって互いの足を洗い合ったとしても、それで事が足りるというわけではありません。もし目指すところがそこであるなら、キリスト教も世の宗教となんら変わりないでしょう。それくらいのことなら、世の宗教家たち、在家の信徒たちでさえ、自分に厳しい修業を課し、「世のため、人のため」と励んでいるのです。いくら愛に励んでも、キリスト者たちの生き方が彼らに勝るとは到底思えません。もし私たちが本当にイエスさまの愛に召された者であるのなら、もっと別の次元に立たなければならないのではないでしょうか。

 ヨハネは続けます。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。しもべはその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません。あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行なうときに、あなたがたは祝福されるのです。」(16-17) 「あなたがたは祝福されるのです」とこれは、山上の垂訓で「〜あなたがたはさいわいである」と言われたイエスさまの祝福を踏襲した言い方で、ヨハネは、「イエスさまから『さいわいである』と言われるところに立ちなさい」と勧めているのでしょう。その立ち方、ヨハネが思い描くところを探ってみたいと思います。「しもべ(奴隷)と主人」「遣わされた者と遣わした者」の関係が語られ、「これらのことを知っているのなら、それを行なうときに、あなたがたは祝福される」と言われるのですが、それは単純に、「足を洗ってくださったイエスさまの愛に倣って奴隷のように謙遜になれ」というだけではないようです。この「謙遜(低くなる)」についてパウロは、こう言っています。「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」(ピリピ2:6-11) ここに、「しもべ・遣わされた者」の真の姿が浮かび上がっているではありませんか。パウロ神学との接触が認められると言われるヨハネですが、パウロとは違った感性ながら、十字架の死にまで御父に従われたイエスさま、そのお方を主と崇めつつ従おうではないかと、ヨハネは、クリスティアノスへの信仰告白を勧めたのです。そこに立つ人はさいわいである。その人は御父・天にお住まいの神さまから祝福されるのだと。


V 信仰の危機の中で

 「わたしは、あなたがた全部の者について言っているのではありません。わたしは、わたしが選んだ者を知っています。しかし聖書に『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かってかかとを上げた。』と書いてあることは成就するのです。わたしは、そのことが起こる前に、今あなたがたに話しておきます。そのことが起こったときに、わたしがその人であることをあなたがたが信じるためです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしの遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。」(18-20)

 「わたしのパンを食べている者が……」と、これは詩篇41:9からの引用です。反逆の徒イスカリオテ・ユダを示唆していますが、そんなサタンの手中に陥ったユダ(マタイ26:8)に取り込まれ、懐疑に向かい始めた弟子たちの信仰が確信へと踏み入らねばならないと、これはヨハネの宣言なのでしょう。ヨハネは、そんな弟子たちがイエスさまのものへと回復するために、彼らが見失った信仰の原則を示す必要があったのです。その状況は、六十数年後のエペソ教会、そして現代の教会にも重なります。そのためには、「イエスさまはどなたか?」をはっきりさせなければなりません。新改訳では「わたしがその人である」と奇妙な翻訳になっていますが、これは、出エジプト記が証言した神さまのお名前「エゴー・エイミイ」(3:13-14)であって、新共同訳は正確に「わたしはある」と訳しています。イエスさまは今、十字架という舞台に上がろうとして、ご自分が「エゴー・エイミイ」であると証言されました。これはイエスさまの証言でもあり、ヨハネの証言・メッセージでもあるのです。なぜなら、弟子たち、そして私たちの信仰は、「エゴー・エイミイ、神さまご自身」であるお方への告白に導かれて行くからです。ヨハネは、現代にまで続く「イエスさまはどなたか?」という疑問に答えました。「わが主、わが神」(21:28)と。いや、答えただけでなく、信仰の告白へと、その道筋を整えたのです。私たちも、その道筋に立って歩みたいと願わされます。

 そこには、福音の証しに遣わされる者たちへの配慮が見られます。イエスさまに倣う者「クリスティアノス」とは、原則、証しに遣わされる者のことなのです。しかしヨハネは、イエスさまを天に送った後、イエスさまを見失った幾人もの人たちを見て来たのでしょう。そして、今また、迫害と殉教の時代を迎え、イエスさまを信じる信仰が苦難の様相を呈し始めています。多くの人たちが信仰の危機に陥っているこの時、ヨハネには、聞いてほしいことがありました。よみがえりのイエスさまが天に上られたように、あなたがたもまた、天の御父に覚えられているのだと……。現代の私たちも例外ではありません。天に国籍のある者として、イエスさまを信じる信仰に堅く立とうではありませんか。


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