ヨハネによる福音書


56
光ある間に光を
ヨハネ 12:27−36a
伝道者の書  12:1−2

T 悲しみの杯を負って

 十字架を前にイエスさまは、その死の深い意味を表明されました。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」(24) 数人のギリシャ人が訪れて来た時のことです。 11章33節には、ラザロの死に遭遇したマリヤやベタニヤの村人たちの悲しみをご覧になったイエスさまが、「霊の憤りを覚え、心の動揺を感じた」とあります。それは、「死と死の背後にあって死の力を持つ者に激しく怒り、武者震いしつつ戦いを挑んで行ったのであろう」と、前回、アメリカの改革派神学者ウォーフィールドのことばを引用しましたが、「一粒の麦がもし……」は、そんな戦いに挑もうとしている中でのことばなのでしょう。

 その戦いに突入しようとするまさにその時、イエスさまはこう言われました。「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください。』と言おうか。いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。父よ。御名の栄光を現わしてください。」(27-28) 今朝のテキストの冒頭部分です。これは、共観福音書にあるイエスさま逮捕の記事・「ゲッセマネ物語」(マタイ26:36-56等)にあるイエスさまの祈りにそっくりで、もう一つの「ゲッセマネ物語」と言われています。その「ゲッセマネ物語」でマタイは、イエスさまが「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい」(26:38)と弟子たちに言われ、少し離れたところでこう祈られたと記しています。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」(39) これは、御子イエスさまが、御父から見捨てられ、十字架に死ななければならないと理解しておられたことを意味しています。なぜなら、イエスさまの死は、罪ある私たちの身代わりであって、罪なきお方が罪ある者とされる断罪だからです。「杯」は、十字架の死であると同時に、御父からの遺棄だったのです。イエスさまにとって、一番の悲しみはそのことでした。

 この時、園の奥まで行って祈られたイエスさまのそばにいた弟子たちは、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人ですから、ヨハネはその耳で、イエスさまの悲痛な祈りを聞いていたのです。しかし、ヨハネが記した「ゲッセマネ物語」(18:1-14)には、イエスさまのこの祈りの部分が省かれています。何らかの意図があって、ヨハネはここにイエスさまの祈りだけを抽出したのでしょう。


U わたしは栄光を現わそう

 その意図は、ヨハネだけが記した神秘体験で明らかにされます。二つの意図が汲み取れますが、その一つ目は、イエスさまの祈り「父よ。御名の栄光を現わしてください」(28)に御父が応えられたもので、「そのとき、天から声が聞こえた。『わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう』」(28)とあるこの部分は、ヨハネの「ゲッセマネ物語」にはもはやその痕跡すらなく、それとは切り離されて、イエスさま説話の一部に組み込まれているのです。神さまの「わたしは栄光を現わす」というこの宣言は、イエスさまに絡められていて、「栄光」はもともと「輝く」という意味ですから、神さまが持っておられる本来の光をイエスさまを通して輝かす、と聞かなければなりません。この御子の要望(祈り)が、二回の「わたしは栄光を現わす」という天の声になりました。先の一回は過去形ですから、先在のロゴス・御子をこの世に遣わされたことであり、そのお方を通して御父・神さまの恵みが明らかにされたということなのでしょう。イエスさまは、なさった数々の奇跡の栄光を常に御父に帰しています。特にヨハネ福音書では、そのことが強調されているようです(10:32等)。そして、「またもう一度栄光を現わそう」と未来形で言われる二回目の「栄光」は、間近に迫ったイエスさまの十字架(とよみがえり)が意図されていると、ヨハネは、後になって弟子たちが思い至ったこと(16)に、神さまの宣言を重ね合わせながら証言しました。ですから彼は、このフレーズを、「イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである」(33)と締めくくっています。イエスさまの祈りをここに抽出した一つの意図は、神さまの救済計画が、「御子の十字架とよみがえり」を中心に据えているというヨハネのメッセージなのです。

 二つ目の意図は、ヨハネがこの声を、ある者は雷が鳴った、ある者は「御使いがあの方に話したのだ」と言ったと(29)、群衆を証人に加えたことに見られます。恐らく、神殿の外庭でイエスさまを取り囲んだ群衆に、いつの間にか消えてしまったギリシャ人の代わりを務めさせているのでしょう。いづれにしても、天からの声に接した者たちが、それをもってイエスさまを神の子(あるいは人の子)と信じる信仰の保証にするなどは、信仰の誤解であって、本来、御父と御子の救済計画に必要のない証言なのです。しかしヨハネは、彼らに別の役割を課しました。「この声が聞こえたのは、わたしのためにではなくて、あなたがたのためにです。今がこの世のさばきです。この世を支配する者は追い出されるのです。わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます」(30-32)とあるイエスさまの宣言には、33節のヨハネの証言を加えることで、神さまから遣わされた者の十字架の死が、この世の支配者サタンとサタンに与する者への裁きの開始である、と同時に、聖徒たちが主のもとに集められるという、福音の中心的メッセージが込められているのです。漠然と「天の声」を聞いたなどとする神秘的宗教体験など、主の民に聖別される指標にはなり得ないと、現代の私たちも、肝に銘じておかなければならないでしょう。


V 光ある間に光を

 イエスさまを「メシアかも」と期待するユダヤ人たちは、これまでにも多くいました。今、イエスさまに質問しようと立った群衆は、そのような人たちでした。恐らく、「ゲッセマネ物語」(27-28)から、場面は変わっているのでしょう。彼らは、エルサレム神殿でイエスさまを取り囲んだ群衆ではなく、紀元一世紀末にエペソ教会に来ている、または、ローマ・ギリシャ世界でキリスト教に関心を寄せているユダヤ人たちなのでしょう。「私たちは、律法で、キリストはいつまでも生きておられると聞きましたが、どうしてあなたは、人の子は上げられなければならない、と言われるのですか。その人の子とはだれですか。」(34) 彼らは、ユダヤ教徒としての意識から一歩も出ていないようです。彼らは、メシアを「人の子」と認識してはいますが、その方が「遣わされた先在のロゴス」「地上を歩まれる神」であるとは、気づいていません。彼らのそれは、「その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで」(イザヤ9:7)とある、極めて民族的、希望的、人間的なものでした。ヨハネは、後期ユダヤ教のメシア観を問題にしているのです。そこには苦難のメシアも高挙のメシアも存在せず、まして、十字架に死なれたイエスさまが「人の子」と呼ばれる「地上を歩まれる神」であり、私たちの救い主であるなど、想像すらできないのでしょう。しかし、何らかの期待はしていて、その期待がこのような質問になりました。彼らがイエスさまの陰に宿りたいと願う者であるなら、メシア・イエスさまが永遠に生きるという証言を期待していたのかも知れません。もしそうなら、迫り来る迫害と殉教の嵐から救い出してくれるだろう……と。しかし、彼らの誤解は膨らんでいきます。

 ヨハネが提供したイエスさまの答えは、「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」(35-36)というものでした。神さまの裁きの時が始まっている。終末は近いのです。伝道者の書にはこうあります。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また、『何の喜びもない。』と言う年月が近づく前に。太陽と光、月と星が暗くなり、雨の後にまた雨雲がおおう前に。」(12:1-2) 現代の私たちも、光ある間に、光であるイエスさまを信じたいではありませんか。


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