ヨハネによる福音書


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愛と賛美と礼拝と
      −ラザロのよみがえり−
ヨハネ 11:38−44
詩篇    100:1−5
T もしあなたが信じるなら

 「そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった」(38)と、場面が変わります。「ラザロが危篤です」と姉妹たちから報せを受けて(その時には、ラザロは亡くなっていた)、イエスさまが出発を遅らせたこともあって、ベタニヤに着いた時には、民間俗信で魂が離れてしまったと言われる、四日目になっていました。人々は悲しんでいますが、「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです」(4)という、イエスさまのことばが分からないのです。それだけに、死の前で人は如何ともし難いのだと、「死」は、その絶対的な力を誇示していたのです。きっと、ラザロの墓に来た人たちは、その絶対的な死の力の前では、さまざまな奇跡を行なって来たイエスさまでさえあがらうことは出来まい、と思っていたのでしょう。マルタが「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから」(39)と言ったのは、その人々の気持ちを代弁しているようです。イエスさまの憤りは、死の力を行使する者に対してであると聞きましたが、それはまた、イエスさまの可能性を人の常識という型枠に押し込めようとすることへの、ヨハネの憤りでもあったのでしょうか。

 イエスさまが葬られた墓でも同じでしたが、ラザロが葬られた洞穴でも、扉のように大きな石が立てかけてありました。一人や二人では動かせないほどの石です。墓の前に立たれたイエスさまは、「その石を取りのけなさい」と言われました。きっと、ぞろぞろとついて来た人たちは、イエスさまは何をなさろうとするのかと、違和感を覚えたことでしょう。洞穴の墓は村の共同墓地ですから、他にもたくさんの遺体が葬られていて、この大きな石の扉は、埋葬のとき以外、取り除かれたことはないからです。ラザロの遺体を見たからといって、どうにかなるものでもあるまいに……。そこでイエスさまは、もう一度言われました。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか」(40) これはマルタに言われたものですが、ここには、「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか」(25-26) ということばが意識されているのでしょう。その意味は分からないながらも、人々は、イエスさまがそこまで言われるならと、石の扉を取り除きました。地元の男たちもいましたから、手慣れたものです。
 洞穴の、墓の口が開きました。


U 愛の教会を

 イエスさまは、天を仰いで言われました。「父よ。わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」(41-42・新共同訳) これは祈りなのでしょう。祈りというと、しばしば私たちは、願いごとと勘違いしがちですが、「ああしてください」「こうしてください」という祈りは、安っぽい欲求を神々に強制する、民間俗信の「祈願」でしかありません。パウロはこう言っています。「御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちはどのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」(ロマ8:26) 祈りは、聖霊なる神さまが内住された信仰者の全人格を、神さまの前に差し出すことなのです。ここで、イエスさまと父なる神さまは一つであると強調されていますから、イエスさまはことさらに願う必要はありません。御子の願いは、御父の思いであり、御子が願うときには、いつもそれは同時に叶えられているのだと、それが、この祈りを公開したヨハネの信仰でした。

 いつもイエスさまのすぐ近くにいた弟子たちは(ヨハネも)、イエスさまのこのような祈りを、よく聞いていました。17章にはイエスさまの長い祈りが記されていますが、それは、ヨハネが渾身の力を込めて再現し、書き上げたものでしょう。そこには、こうあります。「わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて(完全な者とされて)一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたことを、この世が知るためです。」(17:23) 「彼ら」とは、弟子たちであり、マルタであり、マリヤであり、墓の前に集まったベタニヤの親しい人たちであり、ラザロでさえあるのです。そして、それはまた私たちでもある、と聞かなければなりません。イエスさまは、ご自身がなさろうとするすべての恵みと不思議において、いや、ご自身の存在すべてにおいて、父なる神さまに栄光を帰しました。私たちが一つとなって「愛の教会」を築き上げて行くことは、イエスさまを信じ、愛し、神さまに栄光を帰すことだと覚えて頂きたいのです。それが、「父よ。わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します……」という、ヨハネの思いまでがぎっしり詰まった、イエスさまの祈りになりました。


V 愛と賛美と礼拝と

 それからイエスさまは、大声で叫ばれました。「ラザロよ。出て来なさい」(43)
 「すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。『ほどいてやって、帰らせなさい。』」(44) このヨハネの描写には、奇妙なところがいくつかあります。大切なところですので、丁寧に見ていきたいと思います。

 第一に、ラザロは手足を長い包帯状の布で巻かれ、顔は別の幅広の布で包まれた恰好で出て来たことです。まるで、エジプトのミイラのように……。そんな恰好で、どうやって歩けたのでしょうか。果たしてイエスさまの声が聞こえたのかと疑問が膨らみます。イエスさまが大声で叫ばれたから? いや、「大声」は、そこにいた人々と現代の私たちにまで、その注意を喚起するためではなかったでしょうか。見るとか聞くという、人間の次元を超えたことが行われたのでしょう。ラザロが普通の状態に戻ったのは、イエスさまから「ほどいてやって、帰らせなさい」と言われた時のことです。第二に、そこは村の共同墓地だったのに、他の遺体は何も反応しておらず、ただ、名前を呼ばれたラザロだけが出て来たという点です。しばしばラザロのよみがえりは、五章で言われたイエスさまのことばに関連づけられますが、そこには、「墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます」(5:28) とあります。墓に葬られたすべての者がよみがえり、あるいはいのちに、あるいはさばきにと……。それは終末の光景ですが、カレンダーの時間を一気に引き寄せたとしても、ラザロだけがというのは、どうしたことなのでしょう。ヨハネは、その辺りの疑問には関心がないのか、何も答えようとはしていません。

 しかし、ヨハネの証言には、まだ触れていないところがあります。そこに回答が隠されているようです。ヨハネはここで、「ラザロ」とは言わず、「死んでいた人」と表現しました。正確には、「死んでしまっていた人」がいいでしょう。つまり、それは生き返る可能性の100%ない死人であって、そこには、話しかけられても答えることの出来ない、人とは言い難い丸太ん棒のような「物体」が想定されているのです。ラザロの人格など、全く考慮されていません。その「物体」がイエスさまの声に反応し、「出て」来たのです。何とも奇妙な光景ではありませんか。ラザロよみがえりの奇跡が、単なる蘇生ではないとお分かり頂けるでしょう。人は、単なる蘇生でも、奇跡と言います。しかし、そんな次元ではない出来事が起こったのです。これは、まさにいのちの創造でした。たとえラザロがもう一度死んだとしても(実際、そうなるでしょうが)、彼は新しいいのちに創造されたのです。これは、細かな、そして奇妙な描写も含め、イエスさま福音の証人ヨハネの告知なのでしょう。「イエスさまはよみがえりであり、いのちである」と。いのちは、そのお方に属するものなのです。迫害と殉教に直面したローマ・ギリシャ世界の聖徒たちは、そのことを覚えなければなりませんでした。現代の私たちも同じです。「死」は、現代に至るまで、その克服を願いながら果たせない、人間の最も重い課題なのですから。その「よみがえりといのちの主」に、私たちは何を献げましょうか。愛と賛美と礼拝と、それこそがふさわしいではありませんか。


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