ヨハネによる福音書


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愛を…、それとも?
ヨハネ 11:28−37
エレミヤ  31:3−6
T 暖かく包み込んで

 「ラザロのよみがえり」の出来事を、ヨハネはさまざまな角度から見ようとしているのでは、と触れました。そんなヨハネの思いを描き切ることは到底できないと思いますが、何とかヨハネのメッセージを聞き取っていきたいと願います。先週はマルタの記事(17-27)から見て来ましたが、今朝はマリヤを中心とした記事(28-37)から、いくつかのことを聞いていきたいと思います。マリヤを家に残したままイエスさまにお会いしたマルタが、彼女を迎えに戻って来ました。そして、マリヤの耳もとでそっと囁きました。「先生が見えています。あなたを呼んでおられます。」(28)

 「マリヤはそれを聞くと、すぐに立ち上がって、イエスのところに行った」(29)とあります。「すぐに」とあり、31節にも「急いで」とありますが、マルタから耳打ちされて、今まで封印していた思いから解放されたのでしょうか、マリヤは思わず「えーっ」と立ち上がった、そんな印象を受けます。ラザロが亡くなって四日目、もうおいでにならないのだろうかと、密かに諦めていたのかも知れません。イエスさまがここに来られることにはいのちの危険がともなうと、彼女たちはよくよく承知していたのでしょう。イエスさまがベタニヤに着いたと知らせを受けたとき、マルタがマリヤには言わずにイエスさまに会いに行ったのも、それがあったからではないでしょうか。先週も触れたルカ10:38-42には、マルタとマリヤがイエスさまをもてなす光景が描かれていますが、イエスさまのそばに座り込んでお話しを聞いているマリヤに、台所で忙しくしていたマルタが嫉妬する、そんなマルタの姿がここに重なってきます。そのマルタはラザロの墓の前で、「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから」(39)と、最後までイエスさまのお心やマリヤの哀しみを理解出来ず、極めて現実的な、人間臭い姿をさらけ出しています。しかし、そんなマルタをイエスさまは責めようともせず、ラザロの記事の中心とも言える、「わたしはよみがえりです。いのちです」(25)と、極めて高度な福音の神髄を話しておられます。イエスさまは、マルタにとことん優しいのです。

 ところが、マリヤにはそのような接し方をしていません。「心の動揺を感じて」(33)、「涙を流された」(35)など、激しい感情を隠そうとはしていません。マルタには理性的に、マリヤにはその哀しみに寄り添うように感性で、きっとイエスさまは、どちらも暖かく包み込んでおられたのでしょう。イエスさまは私たち一人一人を違った仕方で包み込んで下さる、と聞こえてきます。


U 精一杯の信仰を

 「さて、イエスは、まだ村にはいらないで、マルタが出迎えた場所におられた。マリヤとともに家にいて、彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリヤが急いで立ち上がって出て行くのを見て、マリヤが墓に泣きに行くのだろうと思い、彼女について行った。」(30-31)ラザロが葬られてもう四日経っています。人が亡くなった時のユダヤの習慣は、すぐに墓に葬り、三日間は、「死者の魂が屍の上を漂っていて、元の古巣に戻ろうとしている」とある民間信仰のもと、蘇生を待ちながら「泣く日」、神さまの憐れみを乞う日々ですが、次の四日間は、もう魂も戻って来ないと、死者と残された遺族のために「嘆く日々」、さらに「三十日間は、身なりを整えずに喪に服す日々」と決められていたようです。イエスさまがベタニヤに来られたのは四日目でしたから、「マリヤが墓に泣きに行くのだろう」と人々がぞろぞろとついて来たのも納得出来ます。そこには、地元ベタニヤの人たちの他に、エルサレムから来た人たちも混じっていて(18節参考)、そういった人たちの多くはイエスさまを信じましたが、一部の人々はクールな態度でラザロよみがえりの証人になりました(45-46)。

 マリヤが「急いで立ち上がって出て行った」のは、イエスさまが来られたと聞いたからです。イエスさまにお会いしたマリヤが、「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょう」(32)と言ったのはマルタと同じですが(21)、それは、来るのが遅れたことへの非難ではなく、溜まっていた哀しみが溢れ出たということではないでしょうか。そこにおられたのは、四日間も待ちに待って、一番お会いしたかったイエスさまだったからです。しかし彼女は、イエスさまの足もとにひれ伏しました(32)。これは礼拝行為です。これは、彼女のイエスさまに対する信仰告白でした。「ここにいてくださったなら、ラザロは死ななかった」と、それは、イエスさまに対する信仰告白としては不十分であると、現代の神学者たちは考えてしまいます。が、その現場に立ってみるなら、それは彼女の精一杯の信仰であり、告白だったに違いありません。なにしろ、四日も経っているのですから。たとえ彼女が民間の俗信に囚われていたとしても、また、「ここにいてくださったなら」とイエスさまの力を限定してしまったとしても、この状況下で、どうして彼女を責められるでしょうか。ヨハネは、マリヤの哀しみに寄り添うように、福音のもう一つの中心をこの記事に込めました。


V 愛を…、それとも?

 「そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、言われた。『彼をどこに置きましたか。』彼らはイエスに言った。『主よ。来てご覧ください。』イエスは涙を流された。そこで、ユダヤ人たちは言った。『ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。』しかし、『盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか。』と言う者もいた。」(33-37)

 「イエスさまが涙を流された」とあります。その涙には、ほとんど何もおっしゃらなかったイエスさまの、哀しみや慈しみや愛の、ぎっしり詰まった思いが溢れているではありませんか。その涙を見て、人々は言いました。「主はどんなに彼を愛しておられたことか」 彼らは、恐らく、ラザロとその姉妹たちと親しいベタニヤ村の住民で、イエスさまとしばしば一緒に食事をし、そのお話しを聞いた人たちです。ですから、イエスさまを囲む交わりには愛があると、肌で感じていたのでしょう。一方、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか」と言った人たちは、エルサレムから来た人たちで、イエスさまやマリヤたちの涙にあった愛が見えないのです。ヨハネはそこに、エペソ教会に入り込んで来たユダヤ人たちを重ね合わせているのでしょう。彼らは、十字架のイエスさまに、「そこから降りて来て見よ。そうすれば信じよう」(マタイ27:42)とわめく、まさに現代人がこぞって突き進む、道を歩む者たちなのかも知れません。現代の私たち、愛と嘲りのどちらの道を選ぼうとするのかと、問われているようです。

 ここに、「霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて」という不可解な挿入句があります。新共同訳は「心に憤りを覚え、興奮して」、岩波訳は「心の深いところで憤りを覚え、かき乱され」、キリスト新聞社訳は「深く心を痛め、悲しんで」などと苦労して訳出していますが、中心は「憤り」なのでしょう。カルヴァンやウォーフィールド(改革派神学者)は、イエスさまが「死と死の背後にあって死の力を持つ者」に激しく怒り、武者震いしつつ戦いを挑んだのだと言いますが、その通りかと思います。先在のロゴスが遣わされ、天上から地上の私たちのところに来られたのは、その力を滅ぼし、私たちの悲惨と苦難の最も奥深い原因を取り除くためでした。ラザロの死とよみがえり、マリヤへの愛はその象徴であって、イエスさまの十字架は刻一刻と近づいていると、そのことに思いを馳せなければなりません。これは、エペソ教会へのヨハネのメッセージなのです。迫害と殉教に直面した聖徒たちが、「死の恐怖」を超えてイエスさまを信じる信仰に立つ。マルタに言われた「わたしはよみがえりであり、いのちである」という信仰に、「死」と戦って勝利した主の力を……と、そんなメッセージが伝わって来ます。「死」と言いましたが、現代は、いのちが神さまに属するものであると、そんなことも分からなくなっています。愛がいのちの核とすれば、死の核は憎しみであると言えるかも知れません。「不法がはびこるので愛が冷えていく」(マタイ24:12)中で、次第に無機質になっていく現代。その現代世界に憎しみが膨れ上がっています。愛を取り戻したエペソ教会の人たちとともに、十字架に思いを馳せつつ、主の愛にこそ究極の救いがあると、その愛を捜し求めて頂きたいと願います。


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