ヨハネによる福音書


46
永遠の栄光に輝く都に
ヨハネ 10:22−30
ダニエル 7:22−27
T 解放を願って

 「そのころ、エルサレムで、宮きよめの祭りがあった」(22)と、新しい段落に入ります。これは、すでに何度か触れましたが、第九の月(12月)の25日から8日間続く祭りのことで、シリヤに生まれたセレウコス王朝のアンティオコス・エピファネスによって侵略・冒涜されたエルサレム神殿が、ユダ・マカバイオスによって奪還・聖別浄化され、再奉献(AD 164年12月25日)されたことを記念して行われるようになったものです。新共同訳は、「神殿奉献記念祭」と訳しています。その日、一日分の油しかなかった神殿の灯火が、奇跡的に、8日間も輝き続けたところから、「ともしびの祭り」とも呼ばれ、ユダヤ人は、この間、自宅前にあかあかと灯火をともし続けました。その様子は、三ヶ月前の「仮庵の祭」とそっくりで、「キスレウ月(12月)の仮庵祭」とも呼ばれているようです。聖書にはここにしか出て来ませんので、あまり馴染みがありませんが、現代のイスラエルでも、これは、「ともしびの祭り」として祝われているようです。

 その宮きよめの祭りに、イエスさまが神殿にいるのを見て、ユダヤ人たちが取り囲みました。ヘロデ大王が改築し、「ソロモンの廊」と名づけられた、東側にある回廊でのことです。回廊の高い壁が、オリーブ山から吹き下ろす冷たい冬の風を遮っていましたから、人々が集まる絶好の場所になっていたのでしょう。この祭りは、わざわざエルサレムに来なくても、自分の町で祝うのが通常だったようですから、ここに集まって来た人たちは、イエスさまを付け狙っていたパリサイ人や律法学者たち、と考えていいでしょう。彼らは、イエスさまに質問しました。「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。もしあなたがキリストなら、はっきりそう言ってください」(24)この問いかけには、この祭り(宮きよめの祭り)の起源となった、ユダ・マカバイオスとその一族の反乱がユダヤ民族に与えた、勇気と希望の再現という、期待が込められているようです。そのときユダヤ人が解放と独立を求めた相手は、シリヤのセレウコス王朝でしたが、今、ユダヤで王になっているのは、その反乱に、ハスモン王朝(ハスモンはマカバイオスの先祖の名)の一員として士官レベルで加わっていた、イドマヤ人ヘロデです。彼は、策謀をもってハスモン王朝を破滅に陥れ、自ら代わって王となりました。今や、そのヘロデはユダヤ人の敵であり、彼の背後には、彼をユダヤの王とした実質的支配者・世界帝国ローマがいるのです。ユダヤ人たちは、総督ピラト等の暴政に苦しみながら、かつてマカバイオスが剣をもって立ち上がり、独立を勝ち取ったように、武力を行使してローマ支配から脱却する反乱軍の司令官に、「キリスト(油注がれた者・メシア)」を望んでいたのです。


U 信仰の耳を持って

 彼らは、反発しながらも、もしかしたらこの方は本当にメシアかも知れないとの期待を込めながら、「あなたはキリストなのか?」と尋ねました。しかし、イエスさまは答えられました。「わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。わたしが父の御名によって行なうわざが、わたしについて証言しています。しかし、あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです」(25-26)と。ある人たちは、これは(22-26節)羊飼いの説話本来の導入部であって、1-18節はこれに続いて語られたものであろうとしていますが、「羊と羊飼いの譬え」でイエスさまが本題としたのは、ユダヤ人との議論であると、ヨハネはこれを、エペソ教会でのユダヤ人との議論に重ね合わせているようです。そこでは、教会指導者になって、異邦人信徒を「律法と割礼」を重視する自分たちの陣営に引き込もうと、ヨハネの主張する福音に断固反対するユダヤ人教師たちが、「イエスさまは断じてメシアではない」とする議論を展開しています。パトモス島から戻って来たヨハネは、今、「イエスさまは本当にキリストなのか?」という彼らの問いかけに直面していたと言えるでしょう。それは、ある意味で、小アジアやギリシャ本土にまで広がったキリスト教会のイエスさまの教えに、ディアスポラのユダヤ人コミニュティが引き込まれてしまうのではないかという、彼らの緊張感から来たものではないでしょうか。ギリシャ世界でのキリスト教会の伸展には、目を見張るものがありました。ユダヤ人指導者たちが、キリスト教会を目の敵にして、ヨハネの留守中に乗り込んで来たのも、そんな背景があったためでしよう。イエスさまとユダヤ人の間で議論された「羊と羊飼い」の問題がここで取り上げられたのも、ゆえ無きことではなかったのです。

 「イエスさまの羊はイエスさまの声を聞き分けます。またイエスさまは彼らを知っています。そして彼らはイエスさまについて来ます」(27)とヨハネは、彼の議論を展開します。イエスさまが羊飼い(=キリスト)であることは、すでに何回も話されたことです。しかし彼らは、反発するばかりで、信じようとはしません。それは、「彼らがイエスさまの羊ではないからである」と、それがヨハネの論点でした。彼らは、イエスさまの声(福音)を聞き分けることが出来ないのです。いや、逆に言ったほうがいいでしょうか。もし彼らがイエスさまの声を聞き分けるなら、彼らはイエスさまに属する者と認定されるのであって、ヨハネは、彼らに、是非とも聞き分ける信仰の耳を持って欲しいと願っているのです。


V 永遠の栄光に輝く都に

 続くメッセージでヨハネは、イエスさまの本質にまで踏み込んでいきます。それこそ、ヨハネがここで「羊と羊飼い」の教えを持ち出した真意でした。「イエスさまは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもイエスさまの手から彼らを奪い去るようなことはありません。イエスさまに彼らをお与えになった御父は、すべてにまさって偉大です。だれもイエスさまの御父の御手から彼らを奪い去ることはできません。イエスさまと御父とは一つです。」(28-30)

 ヨハネは、「だれもイエスさまの手から彼らを奪い去るようなことはない」「だれもイエスさまの御父の御手から彼らを奪い去ることはできない」と繰り返していますが、それは、「羊と羊飼いの譬え」で語られた、門から入らない盗人や強盗が念頭にあってのことでしょう。「羊を奪う者はユダヤ人である」とする想定にはすでに触れましたが、ヨハネが、更にそこに、「イエスさまと御父とは一つである」と御父にまで言及したのは、これがユダヤ人教師に向けられた議論だったからでしょう。それは、彼らが、エペソ教会で、律法と割礼を中心にヤハウェの教えを教え、イエスさまの福音を全く無視していたからです。彼らは、イエスさまが「メシアかも知れない」と密かに思ってはいましたが、神さまご自身であると認めたわけではありません。紀元一世紀末の時点で、イエスさまが、剣をとったマカバイオスのように支配者に立ち向かって行かず、十字架に処刑されて死んでしまったことは、ディアスポラのユダヤ人たちにも良く知られていました。彼らは、イエスさまをメシアと密かに思っていたことさえ苦々しく、そんな記憶を脳裏から消し去ってしまいたかったのでしょう。

 しかし、イエスさまの神性なしに、福音は成立しません。なぜなら、十字架の贖いも、よみがえりの意味も、約束された永遠のいのちも、全てヤハウェのひとり子としての権威と栄光の中で行われ、語られているからです。ヨハネはこの福音書の最初から、「ことばは人となって私たちの間に住まわれた。……この方は恵みとまことに満ちておられた」(1:14)と語って来ました。「(世に)住まわれた」のは、御父の啓示者としてなのです。だからイエスさまは、ご自分を、「人の子」と呼ばれたのです。それは「地上を歩まれる神さま」という意味ですが、それはまた、人々をご自身の恵みとまことに招くためであると、ヨハネは、自分もそこに招かれた者として、イエスさまを地上に遣わされたヤハウェにして父なる神さまご自身が計画された救いの出来事である、と証言したいと願ったのでしょう。しかし、大切な羊を奪い去る者は、歴史上、数限りなく出現して来ました。現代という時代そのものも、そんな巨大な怪物なのかも知れません。その怪物によって、今、世界中の教会が踏み荒らされています。それなのに、「彼らを奪い去る者はいない」と言われるのです。きっとヨハネは、終末の日を見ているのでしょう。私たちを待っている永遠の都には、御父と御子に逆らい得る者は一人も招かれることはないのです。イエスさまの囲いに育まれる羊として、そんな都に招かれる光栄を、私たち、信仰の目を凝らして見つめ続けたいではありませんか。



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