ヨハネによる福音書


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羊のためにいのちを!
ヨハネ 10:11−21
イザヤ 53:10−12
T 良い牧者とは

 先週、「羊と羊飼い」に付随する説話(7-10)から、イエスさまは永遠のいのちに至る門であり、イエスさまに信頼する羊の群れは、その門を通って入って来る牧羊者の声を聞き分け、ついて行くと聞きました。現代という道に迷っている私たちも、その門を捜し、見極め、イエスさまの声を聞き分けたいと願います。この説話には、もう一つの、「イエスさまは良い牧者である」とする、ヨハネのメッセージが残っています。今朝は、そのメッセージを聞いていきたいと思います。11-21節からです。

 「イエスさまは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」(11)と、ヨハネのメッセージの後半が語られます。漁業と農耕文化の日本では牧羊に馴染みが薄く、良い牧者、悪い牧者と聞いても、それがどういうことなのかあまり理解できませんが、実は、羊という家畜は、賢いというにはほど遠い動物なのです。崖や藪など、危険な場所を察知することが出来ません。子どもの頃、飼っていた羊を裏庭につないでおきました。羊は草を食むのに夢中で、つないでいた棒のまわりをぐるぐる食べ歩いてひもが棒に巻き付き、後戻りすることが出来ないまま、そのひもで自分の首を絞めて死んでしまった……、そんな出来事がありました。また、羊は臆病で、群れで動くのですが、一匹が何かのトラブルに陥ると、群れ全体がパニックになって、収拾がつかなくなってしまいます。当然のことですが、一匹一匹がそれぞれの性格を持っていますから、牧者は、その一匹一匹がどういう行動に出るか、常に判断しておかなければなりません。良い牧者には、羊のことを総合的かつ的確に把握し、周囲の状況に応じて、常に彼らを安全に導いて行くことが、必須条件でした。羊は非常に大切な財産なのですから。「安全に」とは、崖や藪といった危険の他に、ダビデがライオンと戦って羊を守ったという記述もありますが(サムエル第一17:34-36)、12節に狼(アラビア狼)が出て来るように、アラビア豹や野生化した犬など、さまざまな外敵がいたようです。それに、強盗や盗人も、昔から、羊産業の天敵だったであろうと思われます。

 しかし、このメッセージ後半で、ヨハネは、強盗や盗人には言及せず、雇い人のことに触れています。「牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです」(12-13)と。当時、羊飼いは、その大半が近隣の外国人(ベドウィン)で、彼らは、プロの牧羊者として放牧に携わっていたようですが、それだけに羊に対する愛着や責任感の薄い者もいて、そんな雇い人に言及したのは、イエスさまが羊の真のオーナーであることを強調しているのでしょう。


U 主のものとされる恵みを

 ヨハネは更に踏み込んで、「イエスさまは良い牧者です。イエスさまはイエスさまのものを知っています。また、イエスさまのものは、イエスさまを知っています。それは、父がイエスさまを知っておられ、イエスさまが父を知っているのと同様です。また、イエスさまは羊のためにいのちを捨てます。」(14-15)、と言っています。「わたし」とあるところを「イエスさま」と言い変えましたが、ここでヨハネは、イエスさまがご自分の羊を知っているのと同様に、羊もまた自分の飼い主であるイエスさまを知っていると、自分のことに重ね合わせながら、このように表現しました。「知っている」というギリシャ語は、経験に即して深く認識しているというニュアンスがありますが、それ以上に、ヘブル的な意味では、体験そのものに入り込んでその事実を承認するという、信仰上の確信にまで踏み込んでいます。恐らく、そこには、「愛する」と言い換えていいほどのニュアンスが込められていると思われます。ここは、そんなヘブル的意味で言われていて、ヨハネは、心底自分がイエスさまの羊とされたことを喜び、感謝しながら、この話をしているのでしょう。

 そして、これは神さまと羊の関係にまで拡大されます。それは、イエスさまと神さまの「子−父」という関係のレベルにまで深められ、高められて行くのだと、羊たちが御国に招かれることが想定されているのです。ここでは、「囲いにいる羊」、つまり、イエスさまのものである羊を、「永遠の都に招く」(3:16、5:24、6:24等)という約束が想起されなければなりません。恐らく、イエスさまはここで、「主よ、信じます」と自分の前にひれ伏した盲目だった若者(9:38)が聞いていることを念頭に、話されたのでしょう。彼はこれまで神の民という枠からはみ出た者でしたが、今はもう、「囲いの中に保護された、イエスさまの羊」なのです。そして、ある意味で、イエスさまの話を聞いているユダヤ人たちも、また、今、ヨハネのメッセージを聞いているユダヤ人たちも、そんな「囲い」の中に守られ、イエスさまに牧されるべき(必要のある)羊である、と言っているのでしょう。彼らはそれを認めず、ひたすら反発するばかりですが、もともと彼らは、神さまの選びの民だったのですから。

 ヨハネは、続けて、イエスさまのお働きが、ご自分の羊を守り御国に招くと同時に、その恵みを、「囲いの外にいる羊」にまで及ぼそうとしていることに触れます。「イエスさまにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。イエスさまはそれをも導かなければなりません。彼らはイエスさまの声に聞き従い、ひとりの牧者、一つの群れとなるのです。」(16)エペソ教会の人たちは、自分たちが、主の恵みを頂いて御国に招かれた、そんな羊であると聞いたのではないでしょうか。


V 羊のためにいのちを!

 ここには、「良い羊飼いは羊のためにいのちを捨てる」とあります。このことばは、「羊と羊飼いの譬え話」には二回しか(11、15)記されていませんが、恐らく、ヨハネは、エペソ教会の人たちに、このことばを何度も繰り返し話していたのでしょう。この文章の勢いから、そんな思いが伝わって来ます。これは、イエスさまの福音の中心部分なのです。それはイエスさまの十字架とよみがえりに関わることであると、ヨハネは力強く証言しました。これは、イエスさまご自身の証言であると聞いていいでしょう。

 「わたしは自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」(17-18) 言うまでもなく、十字架は、イエスさまご自身の意志によるものでした。表面上、それはユダヤ人に起因すると思われていますが、断じてそうではありません。言い方は堅苦しいですが、その辺りのことを少しも妥協することなく強調した、ある註解者のことばを紹介しましょう。「人の姿をとった神は死に対して、とくに彼自身の、彼の意志による、死に対して、絶対に自由であり、支配力を持つ。彼の死は破滅ではなく、むしろ、命を捨て、命を取る至高の権利は、父の意志に基づく。神の子は自分の命を捨て、そして再びそれを取る全権を、父から与えられているのである。」(NTD・ヨハネによる福音書)ここには、「世界の王」イエスさまのお姿が浮かび上がっているようです。ヨハネは、他の福音書に勝って、十字架のイエスさまを王として描きました。エルサレム入城の折りに、王の威厳をもってロバの子に乗り、人々の歓呼の声を受けて堂々と入城されたことも、ピラトとの問答の中にも、そして、イエスさまが葬られたその墓も、王墓として描いています。よみがえりについても同様です。「苦難のしもべ」の姿を遺したイザヤ書53章に、「主のみこころは彼によって成し遂げられる。彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する」(10-11)とあるのも、孤高の王・イエスさまの、私たちへのそんな愛を彷彿とさせてくれるではありませんか。ヨハネは、人種のるつぼのようなエペソの街で、多くの民族に接しながら、確かにイエスさまはこの人たちの中に王・救い主として来られた方だと、その方に愛された自分を実感しつつ、その孤高なるイエスさまの愛を多くの人たちに伝えたいと願い、「良い羊飼いは羊のためにいのちを捨てる」と表現したのでしょう。私たちも、牧者イエスさまの声を聞き分け、その愛に応える者になりたいではありませんか。



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