ヨハネによる福音書


43
主よ。信じます。
ヨハネ  9:35−41
ダニエル 7:13−14
T 探し出してくださる主

 20歳そこそこの若者が、しかもつい先ほどまで盲目だった男が、イエスさまに目を開けて頂いたことから、大きく羽ばたきました。彼は、ユダヤ教教師という、社会的に強靱な力を持ったパリサイ人たちの脅しにも屈せず、堂々と、イエスさまは神さまに属するお方であると証言しました。パリサイ人たちは、「おまえは全くの罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか」(34)と怒り、彼を会堂から追放しました。しかし、彼らは、この若者の証言が間違っているとは思っていなかったのです。むしろ間違っていたのは、彼らでした。不当にも彼らがこの若者を会堂から追放したのは、そんな自分たちの自己矛盾に苛立ったからではないかと思われます。「生まれつきの盲目」であることが罪の中に生まれたためという彼らの意識は、この記事の発端となった弟子たちの質問の中にも見られました。「彼が盲人に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか」(2)しかし、そこには、イエスさまの明快な解答がありました。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです」(3)この若者の出来事を締め括る今朝のテキストは、イエスさまの解答が彼の上に見事に実現したという、ヨハネのメッセージなのです。イエスさまは、パリサイ人たちが彼を会堂から追放したと聞いて、彼を捜し出されました(35)。そうです。イエスさまは、彼を探し出されたのです。ヨハネの第一のメッセージが、ここに込められています。ユダヤ人にとって、会堂から追放されることは、まともな市民生活が出来なくなることを意味しています。そしてそれは、ほとんどの場合、イスラエルの神さま・ヤハウェからの祝福の剥奪という重い刑罰でしたから、イエスさまは、彼が神さまから離れ、神さまを見失い、魂の放浪者となることを心配されたのです。ですからイエスさまは、神さまは決してあなたを見捨てることはないと、ヤハウェご自身として、彼に声をかけられました。イエスさまは、そのために彼を捜し出されたと言えるでしょう。

 イエスさまに「あなたは人の子を信じますか。」と声をかけられ、彼は答えました。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」(35-36)この若者のことばは、初めのうちは一言も記されていませんが、時が経つにつれてそれは増え、次第に明確になっていきます。近所の人たちやパリサイ人、両親と、いろいろな人たちと接触し、自分の目が見えるようになったのはイエスさまによるのだと、何回も確認しているうちに、イエスさまの尋常ならざる力に、預言者以上のお方を感じるようになったのでしょう。


U 主よ。信じます。

 彼には、イエスさまが言われた、「人の子」ということの予備知識があったようです。当時、ユダヤで流行していたメシア待望論には、ダニエル書の黙示文学とされる箇所に、「見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない」(7:13-14)とあって、その人の子と呼ばれたお方がメシアを指すと、期待を込めて言い継がれていました。それは、昨年末のクリスマス・メッセージでも触れ、このヨハネ福音書の講解説教でも何回も触れてきたことですが、『神さまから遣わされて私たちの世に来られ、地上を歩む神となったお方」と繰り返してきた、先在のロゴス、イエスさまのことです。この若者は、生まれつき盲目というハンディキャップを背負っていましたが、彼もまたそんなユダヤの伝統の中に生きていましたから、その教え、その望みを思い出したのでしょう。シナゴグの礼拝に加わったことはなく、聖なる書物も読めませんでしたが、幼い頃から父親から何回もそれを読み聞かせられ、「人の子」というお方への期待と信仰が育てられていたのでしょう。ですから彼は、もしかしたらとの思いを込めて、「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように」と答えました。

 思慮深く、謙遜に、しかし、ワクワクしている若者の思いが、伝わって来るではありませんか。来る日も来る日も道端に座り、頭を下げて、いくばくかの喜捨を当てに暮らしている盲人……と聞きますと、私たちには、その日その日を刹那的に暮らしている、汚い浮浪者というイメージが浮かんできますが、この若者には、そんなイメージは当て嵌まりません。彼は、見えるようになったその目で、真っすぐにイエスさまを見つめているのです。イエスさまは、彼に言われました。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」彼は熱心に答えました。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスさまを拝しました(37-38)。イエスさまは彼に、「あなたは信じますか」と呼びかけられました。ギリシャ語の動詞にはすでに「あなたは」が含まれているのですが、ここで更に「あなたは」が加えられ、それが強調されています。そして彼は、そのように彼を見つけ出して下さったイエスさまに、あなたこそ唯一の救い主・ヤハウェであると告白し、ひれ伏したのです。ヨハネは余分なことばをすべて省き、彼がシンプルに「わたしがそれである(エゴーエイミー)」(8:24岩波訳、イザヤ48:12)と聞き、「主よ。信じます」と告白し、礼拝したと記しています。イエスさまの前に立つとき、私たちにも、そのことだけが求められるのです。


V 見えると言い張らずに

 ここはある意味でエペソ教会なのです。そしてそこには、教師となったユダヤ人たちがいました。「パリサイ人の中でイエスとともにいた人々」(40)とこれは、中にはイエスさまに惹かれているパリサイ人もいたという指摘ですが、ヨハネはそこに、エペソ教会のユダヤ人たちを重ね合わせているのでしょう。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです」(39)とイエスさまのことばを、ヨハネは、彼らに向けて語りました。彼らは、他の誰よりも自分たちは「見える」と主張していたからです。その主張は、選民ユダヤ人ならではのもので、自分たちは神さまに近い者という意味です。しかし、ヨハネの目に、彼らはこの若者よりもずっと神さまから遠い者でした。

 ここで、「見える」と主張する、もう一つ神さまから遠い人たちのことを考えてみたいのです。イエスさまを信じている人々は、古代ローマ人やギリシャ人、宗教改革時代の西欧人ではないか。自分たちはそんな古い迷信には惑わされないと嘯く人たちが、現代、溢れているのではないでしょうか。復活を初めとするイエスさまの奇跡は、弟子たちが英雄伝説として造り上げたものではないかと、聖書に関するそんな誤解や思い込みは、現代人の特徴となっているようです。教会内にもそんな解釈があって、牧師や教会教師たちは、そんな「神学」知識が豊富です。つまり、現代人が見ているのは人間であって、「見える」という意味を、人間理性に置き換えているのです。すると、イエスさまとヨハネは、現代の私たちにも語りかけている、と聞かなければならないでしょう。

 パリサイ人たちは言いました。「私たちも盲目なのでしょうか。」(40)これはイエスさまに好意を寄せる一部のパリサイ人たちの質問でしたが、パリサイ人たちには依然として反発もあって、それは、10:19-21でもう一度取り上げられるほど、激しく根深いものでした。そんな反発を考慮してか、ヨハネは、イエスさまの次のような指摘をもって反論します。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」(41)罪とはギリシャ語のハマルティア(的をはずす)から来ています。神さまに創造され、神さまのもとで平和と安心を享受していた者が、その創造者を離れ、不安と争いと苦労の中を歩むようになりました。しかし、神さまは、そんな私たちへの愛と恵みのゆえに、御子イエスさまを私たちのところに送り、その方を十字架に掛けられたのです。それは、私たちの罪を、イエスさまに負わせるためでした。しかし、現代人は、神さまより人間の理性を信頼し、自分たちを優れた者として、神さまなしに平和を造り出すことが出来ると嘯いているのです。向かうべき的を外し、神さまから遠い生き方を選んだと言えるでしょう。イエスさまを信じてイエスさまの前に跪いたこの素朴な若者の姿勢に学び、私たちの生き方を修正したいではありませんか。



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