ヨハネによる福音書


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恵みとまことに満つ
ヨハネ 8:48−59
箴言   3:1−12
T 御父と御子の世界を

 イエスさまは、ユダヤ人たちに言いました「あなたがたは悪魔から出た者である」(44)と。当然のことながら彼らは、猛反発しました。「私たちが、あなたはサマリヤ人で、悪霊につかれているというのは当然ではないか」(48) ユダヤ人にとって、隣国サマリヤ人は、悪霊に憑かれた者の代名詞的存在でした。それは、サマリヤ人が、北イスラエル王国の末裔と主張しながら、その実、様々な血が交じった混合民族であり、すでに破壊されてはいましたが、ゲジリム山上にはエルサレム神殿を模して神殿が建てられ、そこには異教の神々が祀られていました。また、聖なる書物として、モーセ五書しか認めていません。彼らはイスラエルの模造でしかないと、ユダヤ人は思っています。しかもそのユダヤとは、ずっと敵対関係にありました。エペソ教会に入り込んで来たユダヤ人たちは、イエスさまを、恐らくそんなサマリヤ教団の預言者であろうとしています。それは彼らの、イエスさまとローマ・ギリシャ世界に建てられた教会への、思い切った罵倒でした。しかし、「おまえはサマリヤ人だ」「悪霊に憑かれている」という告発は、彼らの中で空回りする議論でしかありません。なぜなら、「サマリヤ人で、悪霊に憑かれている」は、どれ一つイエスさまには当て嵌まらず、ただ彼らがそう決めつけたかっただけだからです。彼らの罵倒にイエスさまは、丁寧に、しかも,、その中心に踏み込んで答えられました。

 「わたしは悪霊につかれてはいません。わたしは父を敬っています。しかしあなたがたは、わたしを卑しめています。しかし、わたしはわたしの栄誉を求めません。それをお求めになり、さばきをなさる方がおられます。まことに、まことに、あなたがたに告げます。だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を見ることがありません」(49-51) 悪霊は神さまに敵対する存在です。神さまの御子イエスさまが悪霊である可能性は、「わたしは父を敬っている」という段階で、100%消滅しています。ヨハネはこれをイエスさまご自身の証言としていますが、それは、人間にとって、御父と御子はどちらもミステリーな領域であって、神さまから遣わされた啓示者自身の証言なしに、その世界を垣間見ることは出来ないからです。御子イエスさまだけが、神さまの世界を語ることが出来るのです。その証言を聞くことなしに、イエスさまの十字架を基調とした神さまの救いの計画は、私たちの耳に届いて来ないでしょう。耳を傾けないユダヤ人たちには、その世界が見えて来ないのです。


U 永遠のいのちに

 この舞台はエペソの教会です。ステージでは、ヨハネとユダヤ人たちが激しいやりとりをしています。その論争を、教会の人たちが聞いているのです。きっと、ヨハネの目は、論争の最中にも、彼ら聴衆に注がれていたでしょう。中にはまだクリスチャンになって日の浅い人たちもいましたから、「果たしてこの人たちが、『いつまでも死なない』と語ったことを正確に受け止めてくれるだろうか」とヨハネは、聴衆たちの反応に全神経を傾けています。この記事から、そんな光景が浮かんで来ます。ヨハネの関心は、異邦人世界に建てられた、教会に向けられているのです。

 実は、ヨハネは、同じようなイエスさまのメッセージを、これより少し前に詳しく語っていました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです」(5:24-25)と。迫害と殉教が激しくなって来た時代です。いつキリスト教徒であることが当局に知られて逮捕され、いのちを奪われてもおかしくはないのです。ヨハネ自身もパトモス島に流罪され、つい先頃エペソに戻って来たばかりです。そんな中で、人の罪のために十字架に死なれ、よみがえられたイエスさまを信じた者たちに永遠のいのちが与えられると、それは神さまからの約束でした。彼らは、「聞く者は生きる」と、そのメッセージを思い出したのでしょう。「だれでもイエスさまのことばを守るならば、その人は決して死を見ることがない」と聞いた彼らは、イエスさまを信じる信仰にしっかりと立ったであろうと想像します。

 ところがユダヤ人たちは、その「十字架とよみがえり」を理解しません。彼らは、何度も聞いていたのに、それが、教会で語られるイエスさまの福音の中心メッセージであるとは、聞いて来なかったのです。ですから、「だれでもイエスさまのことばを守るならば、その人は決して死を見ることがない」と異邦人クリスチャンと同じことを聞いても、「あなたが悪霊につかれていることが、今こそわかりました。アブラハムは死に、預言者たちも死にました。しかし、あなたは、『だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を味わうことがない。』と言うのです。あなたは、私たちの父アブラハムよりも偉大なのですか。そのアブラハムは死んだのです。預言者たちもまた死にました。あなたは自分自身をだれだと言うのですか」(52-53)と、そんな方向にしか目が向かないのです。しかし、彼らが「あなたはだれか?」と問いかけたイエスさまの正体こそ、今、ヨハネが踏み込もうとしている中心主題でした。


V 恵みとまことに満つ

 ヨハネは、その中心主題に踏み込んで言います。「イエスさまがもし自分自身に栄光を帰するなら、その栄光はむなしいものです。イエスさまに栄光を与える方は、イエスさまの父です。この方のことを、あなたがたは『私たちの神である。』と言っています。けれどもあなたがたはこの方を知ってはいません。しかし、イエスさまは知っています。もしイエスさまがこの方を知らないと言うなら、イエスさまはあなたがたと同様に偽り者となるでしょう。しかし、イエスさまはこの方を知っており、そのことばを守っています。あなたがたの父アブラハムは、イエスさまの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです」(54-56) ヨハネは、何回も繰り返して来た、イエスさまが神さまの御子であること、「わたしはある」とヤハウェ証言をされたお方であることに、さらに「栄光」を加えました。これは、「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である」(1:14)とある、ロゴス賛歌を念頭に置いているのでしょう。それは、天上で輝いていた先在のロゴスとしての栄光であり、ご自身の中にある永遠のいのち(1:4-5)でした。しかしイエスさまは、その栄光を放棄され、地上に遣わされて来たのです。「イエスさまに栄光を与えるお方は御父である」(54)とあるのは、天上でのことと地上でのこと、そして、再び天上に帰られてからのことも含めているのでしょう。すると、ヨハネが「私たちはこの方の栄光を見た」と言ったのは、地上での栄光に他なりません。天上での栄光は、ヨハネでさえ、かすかに想像するだけなのですから……。

 ロゴス賛歌は、「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである」(1:17-18)と閉じられます。ヨハネが見たと証言するイエスさまの栄光は、恵みとまことに輝いていたのでしょう。パウロは言いました。「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました」(ピリピ2:6-9) その「恵みとまこと」は、第一に十字架のことであり、そしてよみがえられたことであり、天に凱旋され、再び私たちのところに来られる約束であると聞こえてきます。ルカは、「あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになる」(使徒1:11)と、天使のことばを記しています。今、終末を迎えようとしています。「恵みとまこと」の主にお会い出来る日が、近づいているのです。それなのに、「お前はアブラハムを見たのか」(57)「アブラハムが生まれる前から、イエスさまはいたのだ」(58)と、噛み合わない議論が渦巻いています。それはまさに、終末を目前にした現代そのものではありませんか。罪ある者に寄り添って十字架に死なれたイエスさまに石を投げつけようとするのか(59)と、今、それが問われているのです。さて私たちは、このどちらに与しようとするのでしょうか?



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