ヨハネによる福音書


主の恵みを頂いて
ヨハネ 1:14−18
イザヤ   2:2−5
T 世に住まわれたロゴス

 10-11節で、世の人々は自分たちのところに来られたロゴスを「知らなかった」「受け入れなかった」と、ヨハネの証言を聞きました。しかし彼は、人々がどんなに否定しても、ロゴスなるお方が私たちの世に来られた事実は変わらないとして、バプテスマのヨハネを証人に立て、人々に挑戦状を突きつけました。しかし彼は、それだけでは不十分と思ったのでしょうか。世に来られたロゴスを再度証言しようと、新しい証言文を練り上げました。序文のクライマックスです。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまこととに満ちておられた」(14)神学上「ロゴスの受肉(イエスさま)」と呼ばれる、非常にシンプルなヨハネの証言です。そもそもこれは、現実的世界に生きているローマ人へのメッセージでした。恐らくそれは、今後も続いていく異邦人の世界(現代も)であろうと、ヨハネは考えたのでしょう。そのような人々に、「先在のロゴスが世に来られた」といくら主張しても、それを納得し、受け入れることは難しいと、百歳に近いヨハネの頭は柔軟でした。

 「ロゴスの受肉」、それはとても信じられない、奇抜と言っていいほどの問題提起ですが、「ロゴス=神さまが世に来られた」という伏線につなげると、納得できないわけでもありません。神々の人間世界への降臨・関与は、ギリシャ神話からローマ神話に引き継がれていました。そんな背景があってでしょうか。当時グノーシス主義などが主張していた、ドケティズムという異端説が教会を惑わしていました。これは仮現説とでもいうべきもので、「ロゴスの受肉」は見せかけに過ぎないと、イエスさまの神性を否定するのです。しかしヨハネは、「私たちの間に住まわれた」と言って、ギリシャ神話やドケティズム説とは明確に一線を画くしています。ヨハネの念頭には、異端説への反論とともに、イエスさまのことを正しく伝えなければという思いがあったのでしょう。イエスさまのご降誕には触れていませんが、それはマタイやルカの記事で事足りると考えたのでしょうか。イエスさまが「私たちの間に住まわれた」ということは、紛れもない事実でした。更にヨハネは、世に住まわれたお方は神さまの栄光を纏っておられると、彼の証言を展開します。「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」彼が何を「見た」かは次第に明らかになって来ますが、「栄光=神さまの輝き」に触れながら、世に来られたロゴスの神性は、世にあってもいささかも損なわれず、神さまの側に属し続けていると主張しています。


U ロゴスの証人として

 彼は再びバプテスマのヨハネを証言者に立て、世に来られたロゴスの栄光を見たと証言します。バプテスマのヨハネの証言はこうです。「『私のあとから来られる方は、私にまさる方である。私より先におられたからである。』と私が言ったのは、この方のことです」(15)この証言は1:30にそっくり同じ文言で再現されていますが、福音書記者ヨハネは、その部分を先取りすることで、14節の高らかな宣言を補足しようとしています。『』で括られたことば(宣言)「私は水でバプテスマを授けているが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。その方は私のあとから来られる方で、私はその方のくつのひもを解く値打ちもありません」(26-27)は、バプテスマのヨハネ自身のことばですが、すでに読まれていた共観福音書を意識してのことでしょう。そこでは、「私より力のある方」(マタイ3:11)となっていますが、福音書記者ヨハネはそれを先在のロゴスに合わせ、「私より先におられた」と言い換えています。しかし、「力」も「先在」も、明らかにロゴスの神性を指すものでした。もしかしたら、当時、世界の知識人たちの間で、「古さこそ価値あるもの」といった基準値が流行していたことに、影響されているのかも知れません。古さという点では、「初め」さえご自分の支配下に置かれる、先在のロゴスに勝る者はどこにもありません。バプテスマのヨハネの証言引用には、かすかにですが、そんなニュアンスが感じられます。そのヨハネが、「神さまから遣わされた偉大なる預言者」として「私より先におられた」と言うのは、ヨハネ自身が誰よりも先にいたことを前提にしていると聞こえるではありませんか。ただ、ロゴスを除いて……。

 バプテスマのヨハネがこう言ったのは、自分が神さまから遣わされた者であることを自覚していたからではないでしょうか。彼はいかなる意味においても、ロゴスと同格な神的存在ではありません。「光ではなかった」(8)とある通りです。しかし、神さまが、「人の光=ロゴス」の証人として立てた人でした。人でありながら神さまの側に立っている。それを自覚していたがゆえに、人間としての枠を超え、「人の光=先在のロゴス」を指し示すことが出来たのです。なぜでしょうか? それは神さまのミステリーに属する事柄であり、私たちが異議を差し挟む余地はないでしょう。ただここでは、彼は神さまから遣わされた目的を忠実に果たした、と言うにとどめなくてはなりません。


V 主の恵みを頂いて

 先在のロゴスが人となって私たちの間に住まわれたと語ったヨハネは、「私たちはこの方の栄光を見た」と、その方の栄光について語り始めます。先に〈世に来られたロゴスの神性は、世にあってもいささかも損なわれない〉と触れましたが、その世にあるロゴスの栄光を、弟子たちは、世に住まわれたそのお姿を拝し、そのお声を親しく聞くことで、「見た」と言い得たのです。もう一度14節を読んでみましょう。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」と、ここには、ロゴスの栄光が、世にあって、私たちへの恵みへと移行しているという、彼らの意識が見られるようです。中心主題を栄光から恵みへと移行させ、先在のロゴスはイエス・キリストだと、そのお名前を初めて明かしながら、ヨハネはいよいよ核心に触れていきます。「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」(16-17)

 「恵みの上にさらに恵みを受けた」「恵みとまことはイエス・キリストによって実現した」とあります。その恵みを「受けた」「実現した」とは、何を指しているのでしょうか。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」と言われています。ここで用いられる「住まう」ということばは、「天幕に住む」(黙示録を除くとこの箇所だけ)を意味しています。それは、神さまの啓示を表現する言い方であって、イスラエルの伝統的な祭儀様式が踏襲されていると言っていいでしょう。「ロゴスの地上以前・以後の存在と比べるなら、地上の時は間奏曲にすぎない」とある人が言っています。確かにその通りです。しかし、その間奏曲は、全力を込めて演奏されたのです。イエス・キリストは、神さまご自身としてのありったけの力を込め、私たちにご自身本来の恵みを注いでくださったのです。ご自身本来の恵み、それはご自身のいのちに他なりません。イエスさまはご自分のいのちを私たちにお与えになった。それは、神さまご自身であるイエスさまが、世に来られ、私たちの間に住まわれたことで示そうとされた啓示でした。端的に言いましょう。それは、十字架とよみがえりです。世に住まうことによって、いささかもその神性が損なわれなかった永遠のロゴス・イエスさまは、私たちのために十字架に死なれ、新しいいのちによみがえられた。その本来のお住まいである天に戻られたのは、その啓示を更に確かなものとするためではなかったでしょうか。「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられたひとり子の神が、神を説き明かされたのである」(18)とあります。十字架に死に、よみがえられた、愛し子だけが父君のふところに抱かれるのです。この方を他にして、私たちへの神さまの愛を知ることは、断じて出来ません。「見た」とは、その意味においてです。先在のロゴスが世に住まわれ、その満ち満ちた恵みが、十字架とよみがえりに凝縮されました。それこそ、ヨハネがこの福音書を執筆した動機であり、この福音書の中心主題であると言わなければなりません。いよいよ本文に取りかかりますが、父なる神さまも子なるお方も私たちを愛してくださると学びつつ、それを覚えたいではありませんか。



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