ヨハネによる福音書


39
十字架の主が
ヨハネ 8:41b−47
イザヤ  55:6−13
T 信仰の回復を願うヨハネに

 前回、ヨハネは、ユダヤ人が律法と割礼を教会に持ち込んで来るのを阻止しようとしていると聞きました。舞台はエペソ教会です。ユダヤ人たちが、凶暴な狼のように、「あなたは初めの愛から離れてしまった」(黙示録2:4)と言われるほど教会を混乱させていたのは、ヨハネがパトモス島に流罪されていた時のことです。エペソに戻ったヨハネは、教会の信仰回復を願い、彼らに論争を挑みます。「イエスがこれらのことを話しておられると、多くの者がイエスを信じた」(30)は、そんな中で語られた、ヨハネの報告です。それは、彼の願いに応えた教会の人たちの、信仰回復を言っているのでしょう。そしてそこには、幾人かの頑固なユダヤ人たちもいました。ヨハネはその人たちに信仰を堅く保って欲しいと願っているのですが、彼らは、その信仰からそれて行きます。ヨハネとユダヤ人の会話を少しだけ再現してみましょう。その対話は、だんだんと険しい論争になって行くようです。「もしあなたがたが、イエスさまのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにイエスさまの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。」「わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかし、あなたがたはイエスさまを殺そうとしています。イエスさまのことばが、あなたがたのうちにはいっていないからです。」 こんな論争が繰り広げられている中で、ユダヤ人たちは、唐突に、「私たちは不品行によって生まれた者ではありません」(41)と言い出しました。今朝のテキスト8:41b-47は、そこから始まります。

 「あなたがたがアブラハムの子であると言うなら、そのわざを行ないなさい」(39)「アブラハムはそのようなことをしなかったのに、あなたがたはわたしを殺そうとしています」(40)と指摘されて、これは彼らの反発です。不品行云々は、ユダヤ社会に根強く伝えられていた風説を言っているのでしょう。外典・ピラト行伝には、大祭司のカヤパやアンナスがローマ総督ピラトに、「我々は皆、あの男は不倫の関係の生まれであり、魔法使いであると言っている」(2:4-5)と叫んだ、裁判の様子が記録されています。これは四世紀初頭に書かれたもののようですが、紀元一世紀末のヨハネの時代にすでにそんな風説が広がっていて、それが「不品行云々」という、彼らの言い分になったのでしょう。これは、「あなたがたが信じているイエスこそ不品行の中で生まれた者ではないか」という彼らの告発であり、それが彼らの正当性の主張でした。「私たちはアブラハムの子孫である」「自由の子である」「不品行から生まれた者ではない」「私たちにはひとりの父、神がある」と、彼らは主張します。私たちはイスラエルに属する者であると、それが彼らの正当性の唯一の拠り所でした。


U みことばに聞くことを

 そんな彼らの「自分たちは正しい」という主張に、ヨハネが反論します。「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです」(44) きみたちは悪魔の子であり、人殺しであり、偽りにまみれて神さまの真理など持ち合わせていないと、強烈な罵倒を浴びせられて彼らは、イエスさまを「信じます」と言ったことなど、どこかに吹き飛んでしまいました。もう彼らには、イエスさまに敵対することしか念頭にありません。48節で「イエスはサマリヤ人で、悪霊につかれていると言うのは当然であろう」と言い、八章最後では、ついにイエスさまに向かって石を投げつけます(59)。これはエペソ教会での対決ですから、「イエスさまに向かって」というのがどういう状況か分かりませんが、信ずべきお方に背信の手を上げたと、ヨハネの憤りが伝わって来るではありませんか。

 「神さまがもしあなたがたの父であるなら、あなたがたはイエスさまを愛するはずです。なぜなら、イエスさまは神さまから出て来てここにおられるからです。イエスさまはご自分でここに来たのではなく、神さまから遣わされて来たのです」(43) これは、ヨハネが何度も繰り返したメッセージであり、彼が見つめてきた問題の中心主題でした。「人の子」という称号は、八章に一回(28)しか出て来ませんが、それは、神さまから遣わされて私たちの世に来られ、地上での歩みを全人格をもって力闘されたお方を指していて、それは、十字架に凝縮されています。「あなたがたが人の子を上げてしまう……」(28)は、その意味で語られています。「イエスさまを愛する」とは、十字架に死んで罪を贖って下さったイエスさまの愛に、「信じます」と応えることなのです。それなのに、どんなにことばを尽くしても、彼らは耳を塞いでいます。彼らだけでなく、現代の私たちも、神さまの前に引き出されても頑固に聞かない者の、代表格なのではないでしょうか。

 「あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです」(43)と言われています。自分の正しさにこだわり続けるなら、イエスさまの十字架が自分の罪の赦しであるとは、消して耳に届いて来ないでしょう。覚えておかなければなりません。


V 十字架の主が

 ヨハネは言いました。「イエスさまは真理を話しているために、あなたがたはイエスさまを信じません」(45) 「真理」ということばを、ヨハネは、論争相手のユダヤ人の感覚に合わせ、旧約的な意味で用いたのでしょう。これは「過誤も虚偽もなく、確かな真実の事実として認められる」(旧新約聖書神学事典−新教出版)というニュアンスを持っていて、しかもこれには法的な意味合いが強く、「神さまのことば」や裁きに関して用いられるものですから、一層、その「真実」は、絶対的なものと受け止められるのです。ですから、これを神さまの「正しさ」と聞くなら、この言い方は腑に落ちるでしょう。ヨハネは、神さまの「真理・正しさ」を語っているのです。ところが、イエスさまを神さまご自身と認めないユダヤ人たちは、当然、イエスさまを神さまを冒涜する者と思っていますから、「イエスさまが真理を語っている」と聞くと、本能的に疑ってしまうのです。ヨハネとユダヤ人の議論がかみ合わない原因も、そこにあります。もともと人は、自分以外の「正しさ」など、絶対に認めないのです。それが人の性(さが)なのでしょう。イエスさまが適当に(いい加減な)宗教教理を話すなら人は信じやすいのですが、それが絶対的「真理」となると、本能的に拒否してしまうのです 。この場合も、そんな人間の本能が働いてしまったのでしょう。

 「あなたがたのうち、いったいだれが、イエスさまに罪があると責めることができるのか。」(46・新共同訳) イエスさまには罪がないということでヨハネは、イエスさまを神さまから遣わされた方であると断じました。共観福音書でユダヤ人たちは、イエスさまが安息日違反を犯した、食事の前にきよめの水で手を洗わない、暴動を引き起こすなどと、いろいろと難癖をつけていますが、一度たりともその告発が成立したことはありません。結局彼らは、偽証を積み重ねてイエスさまを十字架につけてしまうのですが、改めて彼らがイエスさまの十字架を聖書から聞き、イエスさまの前に立つなら、イエスさまの救いがその心に届いて来るのではないでしょうか。ところが、聖書を誰よりも良く知っていると自負するユダヤ人には、そんな単純な立ち方は出来ないのです。「真理を話しているイエスさまをなぜ信じないのか」(46)と、ヨハネの嘆きが伝わって来るようです。「神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者ではないからです」(47)と、ヨハネは一つの結論を出しました。自分の拘りや知識や正しさを捨てて神さまの前に立つ。そうです。ヨハネはそんな単純なことを求めているのです。「罪を認めて」と言った方がいいでしょうか。神さまの前に立つ、それは、イエスさまの十字架の前に出ることなのです。すると、十字架の主が、「あなたの罪をわたしが背負った」と言ってくださるのです。罪の赦しなくして私たちは、神さまの国の民となることは出来ません。



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