ヨハネによる福音書


37
主とともに歩む姿に
ヨハネ  8:21−29
エゼキエル 33:7−9
T 罪の実の刈り取りを

 八章にあるイエスさまとユダヤ人の論争対話は三つありますが、先週、その最初の対話(12-20節)を取り上げました。今朝はその二番目、21-30節からです。

 イエスさまが言われました。「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜すけれども、自分の罪の中で死にます。わたしが行く所に、あなたがたは来ることができません」(21) これがどういう状況下で語られたかと言いますと、間もなく日没で、最終日を迎えた仮庵の祭も終えようとしています。大燭台に灯がともされ、その淡い光の下で、キャンピングしていた人々が仮小屋をたたんで帰り支度をしています。そんな慌ただしい中でイエスさまが、「わたしは去って行く」と言われたのです。八章の最後に、「(論争相手のユダヤ人は)石を取ってイエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた」(59)とありますが、ヨハネはそこに、このイエスさまのことばを重ね合わせたのでしょう。しかし、奇妙なことにイエスさまは、「あなたがたはわたしを捜すけれども、自分の罪の中で死ぬ」と言われます。ただ「あなたがたが捜しても、わたしを見つけられない」と言うのなら、「身を隠して宮から出て行かれた」という七章のテーマ、「隠れた神」の余韻が感じられるのですが、そこに続けられた「自分の罪の中で死ぬ」とは、一体どういうことなのでしょう。

 エゼキエル書に、こんな神さまのことばがあります。「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。わたしが悪者に、『悪者よ。あなたは必ず死ぬ。』と言うとき、もし、あなたがその悪者にその道から離れるように語って警告しないなら、その悪者は自分の咎のために死ぬ。そしてわたしは彼の血の責任をあなたに問う。あなたが、悪者にその道から立ち返るように警告しても、彼がその道から立ち返らないなら、彼は自分の咎のために死ななければならない。しかし、あなたは自分のいのちを救うことになる」(33:7-9) イエスさまは、警告されたのです。何度も丁寧に。……しかし神さまは、彼らの血の責任を、イエスさまに負わせました。イエスさまが「去る」と言われたのは、十字架の死を意味しているとお分かりでしょう。しかし、人々は、自分の好むメシアを捜し求めて右往左往し、十字架のイエスさまが分かりません。人の子・贖い主が目の前にいるのに、見ようとしないから、見えないのです。イエスさまが「隠れた神」であるとは、罪によってイエスさまが見えなくなっていることをも含んでいるのでしょうか。結局、彼らは、十字架の赦しに出会うことなく、自分の罪の実・死を刈り取ることになるのです。


U 十字架の主への信仰を

 ユダヤ人たちが言います。「あの人は、『わたしが行く所に、あなたがたは来ることができない』と言うが、自殺するつもりなのか」(22) 彼らは、イエスさまを今一歩のところまで追い詰めた、と自負しているのでしょう。自殺を咎めているのは、自分たちの手で……と思っていたからです。そしてイエスさまは、その通り、十字架につけられました。しかしそれは、彼らに追い詰められたからではなく、むしろ、彼らの罪がイエスさまを十字架につけたのです。ここでヨハネが問題にしているのは、「啓示者と、啓示者を理解しないこの世との対決」であると、ある註解者が指摘していますが、その通りなのでしょう。イエスさまに「あなたがたが来たのは下からであり、わたしが来たのは上からです。あなたがたはこの世の者であり、わたしはこの世の者ではありません」(23)と語らせながらヨハネは、啓示者と啓示者に敵対する者、あるいは、上と下、この世に属する者と属さない者という二元論において、先在のロゴスであるイエスさまの強烈な意志を浮き上がらせているようです。「下」は地の上・この世を意味し、「上」は神さまが住まう天を指しています。それは、ギリシャ的な、別々の世界を思惟し強調するためではなく、「上」に属するお方が「下」に属する者たちのためにこの世に下って来たと、その意志が強調されているのです。十字架の死は、イエスさまの意志から実現したと聞かなければなりません。それは、ヨハネの、「私のために」という信仰告白ではなかったでしょうか。これは、エペソ教会での、ヨハネのメッセージなのです。

 ヨハネは、このメッセージを聞く人たちに、イエスさまを信じる信仰を求めました。「それでわたしは、あなたがたが自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです」(24)ヨハネが、エゼキエル書のことばを引用しながら、この「罪の中で死ぬ」の意味を説明したかどうかは分かりませんが、しかし、この警告はこれまでに何度も繰り返されていて、それでこんな表現になったのでしょう。イエスさまの十字架はいつも、ヨハネのメッセージの中心主題でした。「わたしのことを信じなければ」とあります。これは「わたしがそれである」という宣言で、イザヤはこう言っています。「わたしに聞け。ヤコブよ。わたしが呼び出したイスラエルよ。わたしがそれだ。わたしは初めであり、また、終わりである」(48:12) 「エゴー・エイミイ、わたしはある」なのです。私たちは、十字架にお掛かりになったそのお方の前で、跪かなければなりません。それが信じることであり、罪を赦されて生きることなのです。


V 主とともに歩む姿に

 人々はイエスさまにこう問いかけました。「あなたはだれですか」(25) ここを新共同訳は「あなたは、いったい、どなたですか」、岩波訳は「お前は何者なのだ」と訳しています。両極端の訳ですが、私たちは、そのどちらの訳にも軍配を上げることは出来ません。……それは、これはヨハネの信仰から出たことであって、「イエスさまがどなたなのか、いつまでも理解しない者たちとは、啓示者も、また、その啓示を聞いた教会も、議論する必要はない」と聞くからです。ですから、この問いかけは、「あなたはだれですか」(新改訳)と単純に訳すのがいいと思われます。それは、「イエスさまは、神さまご自身であり、啓示者であり、救い主であり、贖い主である」と聞いた人たちと聞かなかった人たちとの、不毛な議論の歴史を思い出させてくれます。イエスさまが神さまご自身であるなど、そんなことはあり得ないとする人たち、特に、近代批評学の影響下にある人たち(神学者たちも)は、人間イエスという観点に凝り固まっていて、イエスさまが私たちの罪を十字架によって贖ってくださったという救いのメッセージには、耳を貸しません。ヨハネがこの福音書を執筆した紀元一世紀末にも、そんな人たちが多かったのでしょう。「彼らは、イエスが父のことを語っておられることを悟らなかった」(27)とヨハネが言ったのは、当然の帰結であるとお分かり頂けるでしょう。

 ですから、ヨハネは、さらに踏み込んで言います。「それは初めからわたし(ヨハネ?)があなたがたに話そうとしていることです。わたしは、あなたがたについて言うべきこと、さばくべきことがたくさんあります。しかし、イエスさまを遣わした方は真実であって、イエスさまはその方から聞いたことをそのまま世に告げるのです」(25-26)「あなたがたが人の子を上げてしまうと、その時、あなたがたは、イエスさまがそれであることを、また、イエスさまがご自身からは何事もせず、ただ父がイエスさまに教えられたとおりに、これらのことを話していることを、知るようになります。イエスさまを遣わした方はイエスさまとともにおられます。イエスさまをひとり残されることはありません。イエスさまがいつも、そのみこころにかなうことを行なうからです」(28-29) この二つの証言は、婉曲にではありますが、十字架上のイエスさまとそのすぐ下でことばを交わしたヨハネの信仰から溢れ出た証言、と聞こえてきます。60年を経てヨハネは、十字架のイエスさまが、先在のロゴスであり、「エゴー・エイミイ」なる方、父君から遣わされて地上を歩み通された人の子、十字架に私の罪を贖って下さった救い主であると、その信仰に辿り着いたのです。当時の仲間・弟子たちはみな逝ってしまって、ユダヤを遠く離れた地で一人奮闘しているヨハネですが、父君がイエスさまとともに歩まれたように、イエスさまは私とともにいて下さると、100歳近い老齢になってなお、十字架の赦しに招いて下さった主の深い愛への思いを、ヨハネは持ち続けています。そのヨハネの、主とともに歩む姿に、私たち自身を重ねたいと願わされるではありませんか。



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