ヨハネによる福音書


36
大きな光のもとに
ヨハネ 8:12−20
イザヤ   9:2−7
T 信仰者の立つべきところを

 八章には、イエスさまとユダヤ人の論争対話が取り上げられています。共観福音書には「論争の一日」というところがありますが(マタイ21-23章、マルコ12章、ルカ20章)、ヨハネはこの八章をそこに重ねているようです。もっとも、共観福音書はイエスさまとユダヤ人との論争を、ヨハネはディアスポラのユダヤ人との葛藤をと、論争の中心点は違うのですが。

 「イエスはまた彼らに語って言われた」(12)とヨハネは、主題ごとにいくつかの段落を設定しました。その第一回目は、12-20節からですが、共観福音書で律法学者たちが「何の権威によって、これらのことをするのか」(マタイ21:23等)と詰問したところに、重なっているようです。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」(12)と、このイエスさまの第一声は、その問いかけ、「何の権威によって?」に答えているのです。その問いかけはここでは隠されていますが、ヨハネがイエスさまの答えをもってこの論争の口火を切ったのは、ディアスポラのユダヤ人が教会に持ち込んで来た「権威」の問題が、ヨハネの時代に極めて重要な案件になっていたからでしょう。「わたしは世の光である」とこれは、ヨハネ文書の特徴である「わたしはある」の宣言です。それがなぜ「世の光」を纏ったのでしょうか。マタイにある「あなたがたは世の光です」(5:14)が、イエスさまの周りに群がって来た人たちへの励ましとして語られたのと同じ状況が、紀元一世紀末のローマ・ギリシャ世界にも、起こっていたことによるのかも知れません。「わたしはある」はイエスさまが神さまご自身であるという宣言ですが、そこには、人の子として「地の上を歩まれる神さま」という意味が込められています。ヨハネは、暗闇にも似た迫害と殉教に追い込まれた人たちに、「ただ逃げ回るのではなく、光なるお方を輝かすように歩みなさい」、と勧めているのでしょう。仮庵の祭には、夜、献金箱のある内庭(婦人の庭)に、四本の大燭台が立てられ、その光が煌々と辺りを照らしていたそうです。ヨハネは、その光景を思い出しているのかも知れません。そのお方は、隠れているようではあるが、煌々と輝いてあなたがたと共に歩んでいて下さると、ヨハネの力強いメッセージが聞こえてくるではありませんか。そのお方と共にあるなら、暗闇はあなたがたに何の危害も加えることはない。あなたがたは、いのちの光を持つのだと。ロゴス賛歌(一章)にはこうあります。「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中で輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」(1:4-5)ヨハネはこの主題をもう一度取り上げ、信仰者の立つべきところを強調しました。


U あなたは信じるか

 ここに、イエスさまの論争相手として、パリサイ人たちが登場して来ます。「お前はお前自身について自分が証している。お前の証は真実ではない」(13・岩波訳)古代社会の法廷では、自己証言は偽りであるとして退けられていたことを、5:31で触れました。古代社会とは、当時のギリシャ語世界のことです。このパリサイ人たちは、その世界に登場して来た福音論争の相手なのでしょう。ところが、彼らユダヤ人はヤハウェの啓示の世界に生きて来ましたから、メシアの自己証言はギリシャ世界の常識外であり、正当な主張であると知っていた筈です。しかし彼らはここで、ギリシャ世界の常識でイエスさまに異議申し立てをしているのです。ヨハネは再度、「その規定はイエスさまには通用しない」と言わなければなりませんでした。五章のときより一層、踏み込んでいるようです。

 「イエスは答えて彼らに言われた。『もしこのわたしが自分のことを証言するなら、その証言は真実です。わたしは、わたしがどこから来たか、また、どこへ行くかを知っているからです。しかしあなたがたは、わたしがどこから来たのか、またどこへ行くのか知りません』」(14)まず、前半の部分ですが、メシアである方の証言は、本来、必然的に自己証言であるということです。「わたし(イエスさま)が自分のことを証言するなら、その証言は真実である」とヨハネは、その主張をいささかも減じることなく、堂々と論戦を展開します。なぜなら、メシアは、ご自分が「どこから来たのか(先在のロゴス)」「どこへ行くのか(栄光のキリスト)」を知っているからです。そして、それを知っておられるイエスさまは紛れもなくメシアご自身であると、ヨハネは論陣を張っているのです。ヨハネは、イエスさまを、啓示者として語らせているのでしょう。それは、聞く者にとって、イエスさまが現在的なお方であると共に、終末論的なお方であるということです。「現在的」とは、人の子として地の上を歩まれる神さまのことであり、「終末論的」とは、恵みも裁きも手中に治められる主として、ユダヤ人もギリシャ人も、その行く末は、イエスさまご自身の意志決定にかかっているということです。「わたしは世の光である」は、その意味で聞かれなければなりません。つまり、「あなたがたは、わたしをあなたがたの主として受け入れるか?」と、信仰の決断を問いかけているのです。現代の私たちにも! 私たちもパリサイ人と同様、「イエスさまがどこから来たのか、どこへ行くのか」知らないのですが、ただ一つ、「あなたはこれを信じるか?」と問われているのです。そして、「信じます。あなたは私の主です」と応答することが求められているのです。


V 大きな光のもとに

 続いて、自己証言は受け入れられないとするパリサイ人への反論が、別の視点から語られます。「あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。なぜならわたしひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。わたしは自分について証しをしており、わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる」(15-18・新共同訳) 新共同訳を引用しました。意訳ですが、このほうが分かりやすいでしょう。

 ヨハネが「裁き」を持ち出したのは、パリサイ人たちがローマの法廷を意識してか、自己証言は偽りであると論じたからと思われます。そしてまた、「裁き」が当時、ユダヤ教の極めて重要な神学上のモチーフになっていたこともあるでしょう。彼らが律法遵守を持ち出すとき、「裁き」は当然ながら、律法の裏に張り付いていたのです。「あなたたちは肉に従って裁く」はそのことを指していて、それはイエスさまの福音とは相容れないものでした。そう聞きますと、「わたしはだれをも裁かない」とイエスさまが言われたことも、頷けるではありませんか。その真意は、イエスさまは、パリサイ人の言う律法には断じて与しないということです。ですから、「もしわたしが裁くとすれば」と仮定してのことですが、イエスさまが御父と共に「裁く」と言うところも、「証し」に言い直しているのです。イエスさまのことは、イエスさまご自身と父なる神さまが証しされるのです。自己証言がだめで、一人の証言が受け入れられないのであれば、御子と御父の二人を証人に立てようではないか。それなら文句はあるまいと、ヨハネの声を張り上げた論陣が浮かんで来ます。

 ところが、奇妙なことに、ここでは論点がずれていると感じられませんか。イエスさまを証人に加えるなら、それは自己証言であって、二人という証人は成立しないのではないか。他に証人がいないわけではない。聖霊なら、立派な証人になり得るではないか。それなのに、聖霊を引き出さず、イエスさまご自身と父君で二人としている……。ヨハネはここで、パリサイ人の律法遵守という、同じ土俵に立つことを避けたのです。ですから、彼らが返答に窮して「あなたの父はどこにいるのか」(19)と尋ねたとき、「あなたがたは、わたしをも、わたしの父をも知りません。もし、あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知っていたでしょう」(20)と答えました。どんなに律法遵守に拘ろうとも、彼らはイエスさまと同じ土俵に立つことは出来ないと、それほどヨハネは、イエスさまの神性を強調しているのです。イエスさまが「わたしはある」というお方であることが、どれほど人間とかけ離れていることか。ヨハネはこれを、ユダヤのパリサイ人にでもなく、ディアスポラのユダヤ人にでもなく、迫害と殉教のさ中にあるキリスト者たちへのメッセージとしたのです。自己証言云々など、どうでもいいのです。イエスさまは、暗闇にあえぐ私たちに寄り添うように、「わたしは世の光である」と言われました。その煌々と輝く大きな光こそ、私たちの、見て、聞かなければならないことではないでしょうか。



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