ヨハネによる福音書


32
神さまの輝く都に
ヨハネ 7:25−36
詩篇   48:1−8
T 揺れ動く心を

 「そこで(さて)、エルサレムのある人たちが言った。『この人は、彼らが殺そうとしている人ではないか。見なさい。この人は公然と語っているのに、彼らはこの人に何も言わない。議員たちは、この人がキリストであることを、ほんとうに知ったのだろうか。けれども、私たちはこの人がどこから来たのか知っている。しかし、キリストが来られるとき、それが、どこからか知っている者はだれもいないのだ』」(25-27) ここに登場するのは、エルサレムのごく少数のユダヤ人たちだったようですが、群衆(巡礼者?)が「だれがあなたを殺そうとしているというのか」(20)とイエスさまの懸念をあざ笑ったとき、彼らは一言も口を挟んでいません。しかしヨハネは、この主役のエルサレムのユダヤ人たちに巡礼者を絡めながら、エペソ教会へのメッセージとして、新しい場面を設定しました。

 そのメッセージは、「知っている」、または「知らない」という場面から進められます。
 一つ目は、エルサレムのユダヤ人たちの想像ですが、公然と語るイエスさまに、殺そうと付け狙っている筈のサンヒドリン議員たちが何も言わないのは、イエスさまをメシアと知った(認めた)からではないかという、彼らの懸念です。二つ目は、「キリストが来られるとき、それが、どこからか知っている者はだれもいないのだ」と、彼らが、メシアを神聖化、神秘化し、これまでローマに反抗してきた主謀者たちとは違うメシアの出現を期待していると思われることです。三つ目の「この人がどこから来たのか知っている」は、巡礼者たちの、イエスさまがガリラヤ人だと知っているという意味です。これら三つの「知っている」「知らない」は、まだイエスさまをメシヤと特定してもいないのに、議員たちが彼をメシアと認めたのはどういうことかと、群衆の不安を物語っているのでしょう。ヨハネは、そんな彼らのイエスさまに対する揺れ動く心を見ているようです。

 もう一つのことです。七章でヨハネは、ユダヤ教神学の「隠れた神」という中でイエスさまを語っていますが、「知っている」「知らない」は、その意味で議論されています。しかし、「隠れたメシア」を主張するのは少数派であって、メシアはベツレヘムでお生まれになると言うのが、本来、ユダヤ伝統神学の主流です。少なくとも、エルサレムのほとんどのユダヤ人たちは、主流派に属していました。ですから、サンヒドリン議員とここに登場しているユダヤ人たちの言い分に見られる問題は、メシアを巡ってユダヤ教内部に生じている、非常な混乱ではないかと指摘されています。そのような混乱は、紀元一世紀末のディアスポラのユダヤ人たちの間にも、生じていたのでしょう。


U 地上を歩まれるお方として

 イエスさまは言われます。「あなたがたはわたしを知っており、また、わたしがどこから来たかを知っています。しかし、わたしは自分で来たのではありません。わたしを遣わした方は真実です。あなたがたは、その方を知らないのです。わたしはその方を知っています。なぜなら、わたしはその方から出たのであり、その方がわたしを遣わしたからです」(28-29) 人々がイエスさまを「知っている」と言うのは、ナザレの大工・ヨセフの息子ということですが、ヨハネは、イエスさまは「遣わされたお方である」と、そのことを強調しているのです。当時、メシアは「遣わされた者」であり、「人の子」という称号を持つことも、広く知られていました。それは、ユダヤに確立した国家神学でした。ここには、「隠れたメシア」を意識してか、「人の子」という称号は出てきませんが、ヨハネがイエスさまを「遣わされた者」と呼ぶとき、「地上を歩まれる神」という彼の意識がにじみ出ているようです。ナザレの村で腕のいい家具職人として歩んで来られたイエスさまの日々は、「地上を歩む人の子」を彷彿とさせてくれるではありませんか。イエスさまの誠実や真実は、「遣わされた神さま」の誠実であり、真実でした。

 しかし、このイエスさまご自身の証言は、ご自分をメシアとするばかりか、神さまに等しい者としましたから、彼らエルサレムのユダヤ人たちが、聞き入れる筈もありません。彼らは怒り狂い、イエスさまを捕らえようとします。しかし、「だれもイエスに手をかけた者はなかった。イエスの時が、まだ来ていなかったからである」(30)とありますが、それがどのような状況だったのか、ヨハネは口を噤んでいます。「見えざる神さまの御手がイエスさま逮捕の手を制止したのである。エルサレムに現われた神をその意志に反して逮捕することはできない」とある註解者が言うように、イエスさまは巧みに迫害者の手を逃れ、その不思議を、多くの人たちが目撃しました。群がっていた人々は、互いにこう言っています。「キリストが来られても、この方がしているよりも多くのしるしを行われるだろうか」(31) 「しるし信仰」についてヨハネは、二章から四章にかけてさまざまな観点から取り上げていますが、「『しるし」』信仰は、いのちの息を吹き込まれる、永遠のロゴス、十字架とよみがえりの主、イエス・キリストを信じる信仰に誘うものである」(本講解説教・ヨハネによる福音書19)と、一つの結論を出しました。多くの人たちがイエスさまを離れて行ったこの時期に、ヨハネは、この程度の信仰でも評価したのでしょう。恐らくそれは、迫害と殉教の時代に、主の恩寵を願ってのことと思われます。ともあれ、ヨハネは、イエスさまは「隠れた神」であると強調しているのです。その「隠れたお方」を巡って、さまざまな意見が飛び交い、沸騰していました。


V 神さまの輝く都に

 次に登場して来るのは、祭司長とパリサイ人たちです。イエスさまを危険人物と見なした彼らは、民衆の非難もあって、たとえ仮庵の祭の最中であっても、これ以上放置しておくことは出来ないと、イエスさま逮捕に役人たちを派遣します。しかし、この役人たちは、群衆とともにイエスさまの話を聞き、「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません」(46)と、すっかりイエスさまに傾倒し、そのまま手ぶらで戻って来ました。そんなことにもヨハネは、ユダヤ人のイエスさまを巡る混乱ぶりに、呆れているようです。そこでヨハネは、イエスさまのことばだけをここに掲載しました。「まだしばらくの間、わたしはあなたがたといっしょにいて、それから、わたしを遣わした方のもとに行きます。あなたがたはわたしを捜すが、見つからないでしょう。また、わたしがいる所に、あなたがたは来ることができません」(33-34) これに対し、民衆は互いに言いました。「私たちには、見つからないという。それならあの人はどこへ行こうとしているのか。まさかギリシャ人の中に離散している人々のところへ行って、ギリシャ人を教えるつもりではあるまい。『あなたがたはわたしを捜すが、見つからない。』また『わたしのいる所にあなたがたは来ることができない。』とあの人が言ったことばは、どういう意味だろうか」(35-36) これは、当時のパレスティナにいたユダヤ人たちの考え方に適合しています。恐らく、現場にいた誰かのメモを資料に書かれた……と思われますが、それなら、彼らの言動は、相当正確に再現されていると聞いていいでしょう。彼らは、イエスさまが行くと言われた所を、ギリシャ人の世界ではないかと考えました。ユダヤ人なのに、不謹慎きわまりない……と。しかし、もしかしたら彼らは、ヤハウェの選びの民を誇りながら、世界に冠たる文明先進国・ギリシャに憧れていたのかも知れません。

 しかし彼らは、「まだしばらくの間はあなたがたといっしょにいて、わたしを遣わした方のもとに行く」と言われたことを、聞き漏らしていました。これは、間もなく始まるであろう十字架の苦難を通して、御父のもとへ凱旋されることを指しているのですが、彼らは、言われたことを真剣に受け止め、考えようともしないから、それが分からないばかりか、イエスさまを自分たちのレベルにまで引き下げてしまったのです。人は、自分の聞きたいことを、聞きたいようにしか聞かないのです。神さまの御国に凱旋するなど、ユダヤ教の神学上のことであって、輝くような神さまの都にまで思いを馳せることなど、全くありません。もしかしたら彼らは、ヤハウェの選民であることにさえ、疑問を感じていたのかも知れません。彼らの混乱は、そんな自信喪失から来ているのではないでしょうか。そう考えますと、彼らがギリシャ世界に憧れていたであろうことも頷けます。それは、神さまから目を背け、他事ばかりに希望を託している、現代人の姿そのものではありませんか。そんなあり方に迎合せず、今、イエスさまが住まわれる神さまの輝く都に、思いを馳せようではありませんか。それは、神さまの、紛れもない真実なのですから……。



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