ヨハネによる福音書


31
今、聞くべきことは
ヨハネ 7:14−24
詩篇 119:1−16
T 祭りの日に……、しかし

 冒頭から小難しいことを言うようですが……、リベラルな聖書学者たちは、六章と、七章(7:14以下)八章が入れ替わった(錯帳した)ので、7:14は5:45-47につなげると座りがいいと考えています。しかし、普通の書物ならいざ知らず、こと聖書に関する限り、その編集作業にユダヤ人が関わったとするなら、テキスト通りと考えたほうが自然でしょう。ユダヤ人は、古くから聖書の写本、装丁、編集といった作業を、どうすれば間違いなく推し進められるか、その方法を極めて慎重に確立していました。そして、その伝統は、ごく初期の頃から教会にも受け継がれ、新約聖書文書の継承にも、非常に精緻なシステムが確立されていたのです。ですから、無理に錯帳云々を考慮せず、テキスト通りと受け止めたほうがいいのではないでしょうか。もともとヨハネは、この福音書の構成を立体的に展開しているのですから……。

 ともあれ、今朝のテキストを見ていきましょう。七章から新しい幕が上がっており、その続きです。
 「しかし、祭りもすでに中ごろになったとき、イエスは宮に上って教え始められた」(14)
 仮庵の祭、きっと広い神殿外庭には、たくさんのテントや板切れを打ち付けただけの仮小屋が作られていて、人々(主に巡礼者)は仮庵の祭(キャンピング・フェスティバル)を楽しんでいたのでしょう。イエスさまが教え始められたのは、そんな祭りも中盤に差し掛かった頃のことでした。そろそろ仮小屋暮らしにも飽きてきた民衆は、イエスさまの「教え」に刺激を受けたのでしょうか。「教え」の内容は、人々が「この人は正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか」(15)と言っていますから、律法に関することだったようです。新改訳では「学問」となっていますが、正確には「文字」ということで、それは、律法を意味しています。「この人は正規に学んだことがない」とは、そこにはガリラヤから来た巡礼者たちが多くいて、イエスさまのことを知っていたからでしょう。イエスさまの話は、驚くほど学識豊かなものでした。その辺りの描写は、このとき実際に神殿の外庭でイエスさまの話を聞いていた、民衆の反応と思われます。民衆はイエスさまの話を真剣に聞いていました。恐らく、ヨハネの念頭には、5:45-47で触れた「あなたがたを訴える者はモーセである」「モーセが書いたのはわたしのことである」というイエスさまの話があり、ここでは省略されていますが、民衆もそのように聞いていました。ですから、「モーセの律法はイエスさまを指し示すためである」と聞いて、「驚いた」「僭越だ」という反応を示したのです。隠れた所におられたのに民衆の前に出て来られたイエスさま、しかし、人々は受け入れようとはしません。メシアであることは隠されたままです。ヨハネは、イエスさまを「隠れた神」であると言い続けています。


U 正義の啓示者を

 そんな反応を示した人たちへのイエスさまの教えとして、ヨハネが取り上げたのは、以下のことです。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません。モーセがあなたがたに律法を与えたではありませんか。それなのに、あなたがたはだれも、律法を守っていません。あなたがたは、なぜわたしを殺そうとするのですか」(16-19) 何回も繰り返しますが、ヨハネの念頭には、この福音書の読者であるエペソ教会と、ローマ・ギリシャ世界にいるユダヤ人たちや異邦人たちに、是非とも確認して欲しいことがあると、その願いをここにまとめたのでしょう。彼が見ている世界は、過去のものとなったガリラヤやエルサレムなどパレスティナのユダヤ人たちではなく、あくまでも、紀元一世紀末から二世紀・三世紀へと、異邦人世界に建てられつつあるキリスト教会なのです。ですから、モーセの律法……等、重複するものはほとんど省略していますが、しかし、読者たちに是非とも確認して欲しいと願うことは省略せず、新しい装いを加えて提供しています。何の確認かと言いますと、それは、イエスさまとイエスさまを遣わされた神さまとの関係です。イエスさまは父君の意志によって働かれるのだと、「遣わされたロゴス」としての使命に立っておられることを、明らかにすることでした。
 ヨハネは、イエスさまの教えは、神さまの啓示者としてのものであると主張しているのです。

 これは、神さまの啓示を伝えたイザヤやエレミヤ等の預言者を擁したディアスポラのユダヤ人には、理解しやすいものでした。もっとも、彼らはそんな啓示を聞きながら、ほとんどの場合、受け入れず、むしろ、偽預言者の声に耳を傾けて来たのですが……。そんなユダヤ人たちが、イエスさまをまことの啓示者であると、受け入れる筈もありません。猛烈な反発が起こりました。そして、ローマ・ギリシャ世界には、似たような「託宣」はありましたが、「啓示」という概念はありません。彼らの宗教は、原則、上からの啓示に基づくものはなく、あくまでも人間の思考の産物なのです。ヨハネは、そんなディアスポラのユダヤ人たちやローマ・ギリシャ世界の人々に、偽預言者でもなく、人間が造り上げたものでもない、唯一全能の神さまの世界を伝えて下さる方があると、知ってもらいたかったのです。「不正がない」は、「正義がある」という言い方で、ヨハネは、ローマ・ギリシャ的思考を持ち出して、イエスさまは「啓示者ご自身」であると理解して欲しいと、そんなヨハネの思いが伝わって来るではありませんか。


V 今、聞くべきことは

 群衆は言います。「お前は悪霊に取り憑かれている。誰がお前を殺そうと狙っているのか」(20岩波訳) こうわめいたのは、地方から来ていた巡礼者たちでしょう。エルサレムの最新情報には、疎かったのです。しかし、一つの疑問が残ります。「あなたがたは、なぜわたしを殺そうとするのか」(19)というイエスさまの問いに、彼らが、「誰がお前を殺そうと狙っているのか」(20)と答えていることです。パリサイ人や祭司たちは殺気だってイエスさまを捜し回っていましたし、七章冒頭から、「(エルサレムの)ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていた」(1)と記されていますから、詳しいことは分からなかったにせよ、そこにはエルサレムの市民たちもいて、イエスさまがそんな状況下にあることを知らない筈がありません。しかし、ヨハネが、イエスさま当時のユダヤ人たちに、紀元一世紀末のディアスポラのユダヤ人たちを重ねていると聞きますと、「誰がお前を殺そうと狙っているというのか」という疑問も、迫害と殉教の時代に重なり、この場面が生き生きと描かれていると、納得出来るではありませんか。「悪霊」という言い方は、ローマ・ギリシャ世界でも通用するものでした。ギリシャ人の世界は啓示者を認めませんが、悪霊の存在は認めているのです。ある意味で彼らは、託宣さえも悪霊によるものと感じていたようです。ヨハネは、この群衆に、ディアスポラのユダヤ人と異邦人を重ねているのでしょう。

 ヨハネは、イエスさまのことばをこう記します。「わたしは一つのわざをしました。それであなたがたはみな驚いています。モーセはこのためにあなたがたに割礼を与えました。――ただし、それはモーセから始まったのではなく、先祖たちからです。――それで、あなたがたは安息日にも人に割礼を施しています。もし、人がモーセの律法が破られないようにと、安息日にも割礼を受けるのなら、わたしが安息日に人の全身をすこやかにしたからといって、何でわたしに腹を立てるのですか」(21-23)「一つのわざ」、それは、イエスさまのわざに、一世紀末のキリスト者が行なっていたすべてわざを重ねていると考えていいでしょう。ギリシャ世界のユダヤ人たちは、キリスト者たちの愛のわざに驚嘆していました。然るに彼らは、その世界に増えていく教会が、安息日や割礼を無視している点を、問題視したのです。彼らの信仰に驚きながらも、安息日違反や割礼の無執行に、異議を唱えているのです。「うわべによって人をさばかないで、正しいさばきを……」(24)とこれは、彼らの世間に迎合した生き方への、「NO!」なのでしょう。ヨハネは、多くの聖徒たちが、十字架に罪を贖って下さったイエスさまを唯一の救い主・啓示者であると信じ、告白して殉教していった、その神さまの前での彼らの生き様と死に様を、見つめるよう勧めているのです。これは、今、現代人が最も聞かなければならないことではないでしょうか。



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