ヨハネによる福音書


永遠の愛を
ヨハネ  1:6−13
エレミヤ 31:2−6
T バプテスマのヨハネ

 「神から遣わされたヨハネという人が現われた。この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来ようとしていた」(6-8)このヨハネは、バプテスマのヨハネです。彼のことは、19節以下で詳しく取り上げられますが、それとは別に、福音書記者ヨハネは、バプテスマのヨハネに一つの役割を担わせて、ここに登場させているようです。そして、それは「あかしのため」であると、何度も繰り返し証言しています。その「あかし」が何を意味するのか、聞かなければなりません。

 バプテスマのヨハネのことは、当時の教会の人たちによく知られていました。ヨルダン川で人々に悔い改めの福音を語り、バプテスマを授けていた有名な預言者だったこと、イエスさまの先駆けとして、道を備えるために神さまから遣わされた人であると、三福音書に詳しく記されていました。ですから、ここではただ、「ヨハネという人が現われた」と言うだけでよかったのです。しかし、この序文に彼を登場させたのは、福音書記者ヨハネにとって、特別な意味があったからと思われます。今、彼がこの福音書を執筆しているのは、ローマ帝国行政下で区割りされた、ギリシャ人を中心とするアジヤ属州の首都・エペソです。その世界にヨハネは、イエスさまの福音を届けようとしているのです。ギリシャ人は、哲学、神話、物語などという、抽象的思考に慣れていましたが、ローマ人は、極めて現実的な民族です。世界に名だたる「ローマの道」を作り、インフラを整備して世界統一帝国を実現し得たのは、ひとえにローマが現実を重視した軍団を育て上げていたからに他なりません。そんな世界に、「初めにロゴスがあった。……」と言っても、理解してもらえないと思ったとしても当然でしょう。どうしても「ロゴス」を、ローマ人の現実という土俵に乗せなければなりませんでした。

 紀元70年に、ローマ世界にとって、ユダヤ人絡みの極めて大きな出来事がありました。ユダヤ戦争です。それから30年近く経って、ヨハネをパトモス島に流罪したドミティアヌス帝は、ユダヤ戦争総司令官・ヴェスパシアヌス帝の次男です。ヨハネがこの福音書を執筆していた時、時代はまだユダヤ戦争を引きずっていました。ユダヤ人古代史家ヨセフスは、この戦争の様子を書物にしています。ヨセフスはこの戦争で、ユダヤの若き知将として、ヴェスパシアヌスと戦った人物です。しかし彼は、投降後、ヴェスパシアヌスの皇帝即位を預言したことから知遇を受け、ローマ貴族に列します。ユダヤ人からは裏切り者のレッテルが貼られましたが。彼の「ユダヤ戦記」に続く「ユダヤ古代誌」には、バプテスマのヨハネについて、「彼は立派な人で、ユダヤ人たちに、互いの間の正義と神への信仰との両方について美徳を発揮して、バプテスマを受けにくるようにと命じた」との記述があります。


U まことの光が

 ヨハネの念頭に、このヨセフスの記述があったのは間違いないでしょう。「ユダヤ戦記」も「ユダヤ古代誌」もローマの公立図書館に納められ、エペソにはその図書館がありました。それはギリシャ語で書かれていて、ヘブル語を解さなくなったディアスポラのユダヤ人や、ユダヤ戦争を機にユダヤ人に関心を持ち始めた当時の人たちの目に触れていたと思われます。ヨセフスは、バプテスマのヨハネを、ローマ人の現実世界に登場させたのです。福音書記者ヨハネがここにバプテスマのヨハネを登場させた狙いも、そこにあるのではないでしょうか。彼の、バプテスマのヨハネが「光・イエスさま」をあかしするために来たという証言は、イエスさまが、ローマ人の現実世界、つまり、私たちが生き、生活しているこの歴史の中に登場して来られたという証言なのです。「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた」(9)は、その意味においてであると聞かなければなりません。ローマ人の、そして現代の私たちのただ中に、光なるお方が来られた。あなたはこれを「どう受け止めるか」と問われているのです。

 そこでヨハネは更に、「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった」(10-11)と言います。ここに「闇」という言い方はないものの、「知らなかった」「受け入れなかった」と、極めて現実的(ヘブライ的)な言い方で、闇が浮き彫りにされています。新共同訳は5節を、「暗闇は光を理解しなかった」と訳していますが、この箇所も加え、三重否定と言えるかも知れません。恐らく、現実に起こり始めている迫害を念頭に置いているのでしょう。それは、「光」と対照されることによって、浮かび上がって来ます。「この方(光)はもとから世におられ、世はこの方によって造られた」と言われていますが、創造主としてのお方を、「知らない」「受け入れない」「認めない」立ち方が引き起こしたものが迫害であり、それが暗闇に支配される世界なのだという、ヨハネの主張です。それはローマの世界であり、現代人の世界でもあるのではないでしょうか。

 しかし、「世(定冠詞+コスモス)」と聞いて、ローマ人が、自分たちの現実社会を思い浮かべたとしてもおかしくはありません。思弁的ではないローマ人も、そのくらいの賢さは持っていました。そうした期待から、ヨハネはここで「闇」ということばを用いず、「知らなかった」「受け入れなかった」と丁寧に、現実的なことばを繰り返しました。それはヨハネがこれを読む人たちに、「知らない」「受け入れない」と頑なに心を閉ざすのではなく、「イエスさまを知って欲しい」「イエスさまを受け入れて欲しい」と心から願っているからです。この福音書全体が、その願いに貫かれているようです。


V 永遠の愛を

 「イエスさまを知って欲しい」「イエスさまを受け入れて欲しい」というヨハネの願いは、「すべての人が彼によって信じるためである」(7)に集約されているのでしょう。つまり、あなたは「イエスさまを信じますか」という問いかけです。バプテスマのヨハネがイエスさまをあかしした(指し示した)のは、そのためでした。「……しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」(12)とあります。注意しておかなければならないことが、二つあります。一つは「その名を信じた人々」という言い方ですが、これはヨハネ独特の表現です。直訳すると、「その名の中に信じて入った人々」という奇妙な言い方ですが、それは、「イエスさまを受け入れた」のではなく、「イエスさまに受け入れられた」と告白するのがふさわしいとする言い方です。つまり、主体は私たちにではなくイエスさまにあり、イエスさまが主体となって私たちを包み込んでくださるという言い方です。いかにもイエスさまに愛された弟子、ヨハネらしいではありませんか。

 もう一つ、「神の子どもとされる特権をお与えになった」ですが、先にヨハネは、イエスさまを、私たちの現実、歴史のただ中に登場させたと言いました。十字架にかかり、私たちの救い主となられたのは、その舞台でのことです。しかし、ここでヨハネは、イエスさまが私たちをご自分の時、主の御国に招いて下さると言っています。神さまの子どもとする特権とは、そのことでしょう。イエスさまは、初めにロゴス・創造者として私たちにいのちを与えて下さったことと合わせ、永遠から永遠まで、時の中心で輝いておられるのです。「わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである」(黙示録22:19)は、パトモス島でヨハネが聞いたイエスさまのことばでしたが、その「時」は、私たちの時なのです。本来、栄光あるお方だけが自在に操ることが出来る「時」を、イエスさまは私たちの時として下さり、その中心で光り輝いておられる。それは、暗闇に住む私たちを照らすためであると聞こえてきます。なんと光栄なことではありませんか。

 「この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである」(13)とあります。神さまご自身、ロゴスなるイエスさまご自身が、その大いなる栄光を切り裂き、私たちに与えて下さったのです。有り余る中から一部分を……、という意味ではありません。ご自身の痛みを私たちに注いで、「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに誠実を尽くし続けた」(エレミヤ31:2)と言われているとおりです。主の永遠の愛と誠実を、心を込めて、全身で受け止めようではありませんか。



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