ヨハネによる福音書


28
最も聖なることは
ヨハネ 6:41−59
レビ記   7:5−6
T 主の宣言の前で

 「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください」(34)と言っていた人たちが、イエスさまの「わたしはある」(35)に、敏感に反応しました。ヨハネはその人たちを、ユダヤ人(41、52)と呼んでいます。ここに登場している彼らは依然としてガリラヤの民衆ですが、恐らくそこには、イエスさまに敵対する、律法学者やパリサイ人たちが混じっていたようです。そしてヨハネは、そんな人たちを、「ユダヤ人」と呼んでいるのです。彼らは、イエスさまが、「わたしはいのちのパンである」(35)、「わたしは天からくだって来たパンである」(33、41)と言うのを聞いて、そのことばを、言われた通り、正確に理解しました。それは、イエスさまがヤハウェであり、神さまご自身であるということです。啓示とは、預言者や王など、特定の人物を通して与えられるものであって、啓示者自身が、彼らの生活圏において、歴史上の事実として出現するなど、あり得ないことでした。それなのに、今、目の前にいるイエスさまは、「自分は啓示者として立っている」と言うのです。そんなことを、ユダヤ人たちが、受け入れられるはずがありません。彼らは、互いにつぶやきました。「あれはヨセフの子で、われわれはその父も母も知っている、そのイエスではないか。どうしていま彼は『わたしは天から下って来た。』と言うのか」(42)イエスさまが「天からのパン」をあなたたちに与えると言うのなら、もしかしたら彼は、何らかの啓示を受けた預言者として、自分たちの前に立っているのかも知れない、と受け止めることも出来たでしょう。もともと彼らは、「五千人の給食」の出来事に遭遇し、イエスさまを預言者かも知れないと思い、それなら自分たちの王に担ぎ出そうと追いかけて来たのですから……。預言者がメシアに変わっても、さほど問題ではなかったはずです。ところが、イエスさまが啓示者本人であり、ヤハウェご自身であると聞き、今まで追いかけ回していた想いがいっぺんに冷めてしまったのです。「なんだこいつは。たかが田舎者、ナザレの大工・ヨセフの息子ではないか!」と、反感を募らせます。

 イエスさまが言われました。「互いにつぶやくのはやめなさい」(43)「つぶやく」、これは、人間が主語となるもので、要求の満たされない者たちが、神さまに向かって不平を言うときに用いられているようです。そこから転じてこれは不信仰の表現とされ、ヨハネもその意味で用いています。互いにぶつぶつと言い合ったのは、不平あるいは不信仰を共有しているということなのでしょう。イエスさまがヤハウェであり、神さまご自身であるというのは、イエスさまの、そしてヨハネの宣言であって、それを聞く者たちは、納得したり解釈したりと、人間サイドの理解を持ち出すのではなく、ただ膝をかがめてそのお方を拝しつつ、従うことが求められているのです。つまり、信仰だけが求められているのです。


U イエスさまを食べる

 続くパンの説話は、この「信仰」を基調に展開されます。「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる。』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。だれも神を見た者はありません。ただ神から出た者、すなわち、この者だけが、父を見たのです」(44-46)この部分は少々分かりづらいのですが、イエスさまのお話とされる58節までの導入部なのでしょう。「イエスさまのもとに来る」、つまり、「イエスさまのものとなる」とは、信仰のことが語られていると聞かなければなりません。しかし、「イエスさまを信じる」とは、いかにも信じる者のエモーショナルなことと聞くことが多いのですが、それは、信じる者の意志、内面的情緒に起因するものではなく、神さまが選び、引き寄せて下さるのでなければ、イエスさまを信じる者となること出来ないと言われているのです。「信仰」は神さまに起因すると、ヨハネは主張しているのです。これは、神さまの主権に関わることであり、ヨハネの基本神学と言っていいでしょう。「引き寄せる」は、非常に強い力で引っ張るという意味のことばですから、それは神さまの一方的な恩寵によるとヨハネは言っているのです。ところが、その恩寵を正しく神さまの……と認識するには、唯一その恩寵の実践者となられた、ひとり子・イエスさまを通してでなければなりません。信仰は、イエスさまにかかっていくのです。パウロは、ガラテヤ書やロマ書において、神学者たちから「所有格信仰」と呼ばれる記述をしています。「あなたがたはみな、キリスト・イエス”に対する”=”の”信仰によって、神の子どもです」(ガラテヤ3:26)信仰の主体はイエスさまであると、パウロやヨハネの神学を受け止めていきたいところです。

 その導入部から、ヨハネは、再び「アーメン、アーメン……」と一息入れて、これまで語って来た「パンの説話」の筆を、信仰に絡めて一段階高みへと進めます。「信じる者は永遠のいのちを持ちます。わたしはいのちのパンです。あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死にました。しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です」(43-51) 「信じる者は永遠のいのちを持つ」と、これは5:24や6:40で言われたことの繰り返しですが、ヨハネは、イエスさまはいのちのパン(ご自分の肉)であるとして、これを「食べる」者は「永遠に生きる」とコマを進めます。この二つを重ねますと、信仰とは、「イエスさまを食べる」ことであると聞こえて来るのです。


V 最も聖なることは

 「すると、ユダヤ人たちは、『この人は、どのようにしてその(自分の)肉を私たちに与えて食べさせることができるのか』と言って互いに議論し合った」(52)互いに議論し合ったとは、「つぶやいた」と同じ言い方なのでしょう。信じられないという思いが、にじみ出ているようです。しかし、ヨハネは「アーメン、アーメン……」と区切りながら、イエスさまの最も中心的な出来事、十字架の贖罪を覚える、「聖餐式」について語ります。「これは、イエスさまがカペナウムの会堂で話されたこと」(59)とわざわざ断っていますから、以下の聖餐式に関わるメッセージは、イエスさまが話されたことなのでしょう。「人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。これは天から下って来たパンです。あなたがたの先祖が食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます」(53-58)

 ものすごく生々しいですね。ですから、イエスさまが語られることを聞いてユダヤ人たちは、カニバリズム(人肉食)を思い浮かべたのでしょうか。あるいは、象徴的な意味で、それを理解したのでしょうか。しかし、宗教儀式として、それがどのように提供されるのか、彼らには全く見当もつきませんでした。ところがヨハネは、すでに各地の教会で行われ、エペソ教会でも守られていた教会の聖礼典・「聖餐式」を念頭に置いて、この項を書き進めています。それは単なる儀式や象徴ではありませんでした。イエスさまは「わたしの肉を食べ、血を飲むならば」と言われたのです。「食べる」も「飲む」も、実際に飲み食いする、現実的なニュアンスの強いことばが選ばれています。そして、イエスさまの十字架において、それは現実となるのです。信仰者の現実と言っていいでしょう。教会で行われる聖礼典、バプテスマも聖餐式も、信仰告白としてそれに与るのだと覚えて頂きたいのです。イエスさまは、私たちの罪のために死んで下さったのですから。ヨハネは、遣わされた方・イエスさまの生き様と死に様に、徹底的に拘り続けました。なぜなら、そこを見つめることが、信じるということの中心だったからです。最も聖なることは、十字架の主を食することでした(レビ記7:6)。それが私たちの信仰の中心なのです。その中心を、私たちも見つめ続けたいではありませんか。



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