ヨハネによる福音書


27
恵み溢れるお方に
ヨハネ 6:32−40
詩篇  100:1−5
T そのいのちのパンを

 カペナウムまで追いかけて来た群衆とイエスさまの会話が続きます。
 「おれたちが信じるためにもっとしるしを見せよ」という彼らの要求に、イエスさまが言われました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです」(32-33) 「しるしを見せよ」、「(しるしは)いのちを与えるものである」とこの会話は、共観福音書で、律法学者たちが、イエスさまに「しるしを見せよ」と迫ったことにそっくりです。その時、イエスさまは「悪い、姦淫の時代はしるしを求める。だが、ヨナのしるしのほかに、しるしは与えられない。ヨナと同様に、人の子も三日三晩地の中にいる」(マタイ12:38-41)と言われました。ここではまだ明らかにされていませんが、イエスさまの念頭には、間近に迫った十字架のことがあったのです。「モーセが十字架につけられたのではない。わたしが十字架にかかり、死ぬのだ」と。しかし、人々は、イエスさまのことばを全く理解しません。彼らは、「いのちを与えるパン」を、生命維持のしるしと聞いたのでしょうか。「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください」(34) その不思議なパンは、おれたちの空腹を永久に癒やしてくれるだろう。それでこそメシアであり、おれたちの王にふさわしいではないか。まるで、渇くことのない水を求めた、サマリヤの女のようではありませんか(4章)。

 しかしイエスさまは、そんな無知なサマリヤの女にとても優しいのです。彼女の問題点を突きつけますが、彼女がそれに答えたくないと見るや、それ以上は追求せず、サマリヤ人である彼女の最大の関心事・「神さまを礼拝する場所」に話を移し、「神さまを礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければならない」と教え諭します。それで彼女は、イエスさまを来るべきキリストと信じました。無知は、彼女がイエスさまを信じるための、妨げにはなっていません。ところが、今、カペナウムに舟を乗り付けて来たこのユダヤ人群衆は、決して無知ではなく、先祖イスラエルがモーセに導かれて荒野を放浪した40年もの間、神さまに養われていたことを知っています。ヨナのしるし……の記事は、時期的には非常に近いのですが、どうもヨハネは、その辺りのことをごちゃまぜにして書いているようです。すると、彼らの中には、律法学者やパリサイ人たちが混じっていてもおかしくありません。この会話に加わった人たちは、旧約聖書の知識を十分に持っていた人たちでした。


U 見ながらも信じない者たちに

 イエスさまは彼らに言われます。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません」(35) 「わたしはいのちのパンである」と、それはギリシャ語の「エゴー エイミイ ホ アルトス テース ゾーエース」ですが、ヨハネはここに、非常に大切な二つのメッセージを込めているようです。

 一つは「エゴー エイミイ」ですが、「湖上歩行」で、「わたしだ」と言われたことと同じ言い方です。それは、神さまが「わたしはヤハウェである」と宣言された「わたしはある」であり(出エジプト記3:13-15)、イエスさまはそれをご自分のこととして、「わたしはヤハウェである」と宣言されたのです。そして、もう一つは「ホ アルトス テース ゾーエース(いのちのパン)」ですが、これは、「わたしはある」のいわば付記です。聖書に通じたユダヤ人たちは、「エゴー エイミイ(わたしはある)」と、付記「ホ アルトス テース ゾーエース(いのちのパン)」を聞き分けたのでしょう。付記ではあっても、決して、どうでもいいものではなく、「わたしはある」者であると宣言されたイエスさまは、「わたしはいのちのパン」そのものであると、さらに細やかな心遣いを示しておられるのです。なぜなら、彼らにとってパンの問題は、当面の最重要課題だったからです。ユダヤ人たちは、その二つをもって、イエスさまがいのちのパン(=彼らにいのちを与えるお方・彼らの主)であり、全世界で唯一最高の神さま・ヤハウェであると受け止めなければなならなかったのです。ただし、ユダヤ本国のユダヤ人たち(イエスさまも)が使用している言語は、通用語であるアラム語でしたが、この福音書の読者はギリシャ語圏の人たちでしたから、ヨハネは、ギリシャ語のニュアンスでこの記事をまとめました。それは、イエスさまがギリシャ語のニュアンス通りに語られ、パレスティナのユダヤ人たちもそのように聞いたであろうとしているからです。

 しかし、そのように語られ、そのように聞きながらもユダヤ人たちは、イエスさまを信じようとはしません。イエスさまは言われます。「あなたがたはわたしを見ながら信じようとしない」(36) ここで、この「パンの説話」を否定したユダヤ人民衆は、イエスさまを自分たちの王として迎えることを断念したばかりか、あれほど追いかけ回していた熱も冷めたのか、イエスさまから離れてしまいます。ここからイエスさまは、残ったわずかな弟子たちとともに、ガリラヤを離れ、エルサレムへの道を旅立たれます。それは十字架への道でした。


V 恵み溢れるお方に

 しかし、そのことはもう少し後のことです。ヨハネは、彼ら民衆へのイエスさまのメッセージを続けます。「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます」(37-40)

 イエスさまが実際に語られた部分がどこであったかは、残念ながら特定出来ません。しかし、イエスさまが「遣わされた者である」という神さまの啓示の範疇で聞くなら、「わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです」と言われているところが、恐らく、イエスさまご自身のものとして、このメッセージの骨格になっていると見えて来るようです。その父君の御心は、当然ながら、聞いている民衆へのメッセージでもあったのでしょうが、ヨハネはこれを、終末のこととして受け止めています。きっと、黙示録の世界を経験してきたヨハネの胸中には、迫害と殉教に苦悩する、ローマ・ギリシャ世界に建てられたキリスト教会の人たちのことがあったのでしょう。その人たちをイエスさまは、決して見捨てることはないと。なぜならイエスさまは、「いのちの主」ご自身なのですから。そのいのちは、60年か70年かで消滅してしまうものではなく、神さまの「永遠」という範疇で語られる、「新しいいのち」なのです。繰り返される「終わりの日によみがえらせる」がどのようなことなのか、残念ながら、滅びる肉体に縛られている私たちには、想像することも出来ません。しかし、神さまの御国に招かれると聞くなら、僅かながらでも、その光栄がどんなに素晴らしいものであろうかと、ワクワクするではありませんか。

 その光栄に与ることが出来るのは、決して条件などではありませんが、ヨハネは、人間サイドの事柄として、「(イエスさまを)見て、信じる」ことであると断言しています。これは、決して信じようとはしない者たちに言われた、「あなたがたはわたしを見ながら信じようとしない」(36)に対応させているのでしょう。「神さまのお働きは、信仰の領域において人間に起こるのであって、何らかの神秘的方法でなされるのではない」とある註解者が言っているように、それは、あくまでも、イエスさまの「遣わされた御子」としてのご人格に私たちが結びつくことによって実現する、神さまの恩寵に属する事柄なのです。イエスさまの奇跡が、私たちを「見て、信じる」者とするのではありません。見つめるべきは、恩寵そのものであるイエスさまのご人格なのです。恵み溢れるお方にお会いすることが出来るとは、なんと素晴らしいことでしょう。殉教した先輩たちと共に私たちも、その日を待ち望みたいではありませんか。



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